3月5日(日)
ばくだんお握りのコンビニで解散した後、再び木曽三川公園Pに寄り道して治水神社を訪れた。
鰻丼ツーリングのたびに訪れたいと思っていた。
木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川が流れるこの地方では、頻繁に氾濫が起きて流域の住民を苦しめていた。
徳川幕府は宝暦3年(1753年)、薩摩藩に治水工事を命じたが、役人たちが工事を妨害するなど執拗に嫌がらせをした。
それに抗議して自害する薩摩藩士が続出したが、公になればお家取り潰しとなりかねず、それらは全て隠蔽された。
難工事に多くの犠牲者を出し、財政的にも辛酸を嘗めながらも宝暦5年(1755年)に工事は完了。それを見届けてから責任者の平田靱負(ひらたゆきえ)は自害したと伝えられている。
岐阜と愛知の小学校では、授業で宝暦治水のことを教えているそうだ。愛知は家康の地元なのに、意外と島津推しが多いのはそのせいもある?
「さつまの会結成記念樹」
「第七回姉妹県青年交換会参加者」
社殿。
社殿横には宝暦治水を解説するパネルがあった。
4枚のパネルにコンパクトにまとめていた。
しっかりと手入れされていることが窺われる。
「宝暦治水工事犠歿者」
先頭に記されていたのは勿論、平田靱負だった。
「大野徳漢詩碑」
「献樹 海部津島地区九州県人会」
「薩摩ジイ(マテバ椎)」
「治水昭和之宮」
伊勢湾台風もこの地域に大きなダメージを与えた自然災害。
もうお役御免なのか、判読も困難。
「〇〇回 姉妹県青年ふれあい事業」
「海津市・霧島市野球部交流記念」
「修学旅行記念樹」
「平成十九年一月三十日 鹿児島県立 福山高等学校」
松くい虫にやられて壊滅しそうになった千本松原。鹿児島県が耐性を持つ品種で再生の手助けをしたことが記されていた。
「姉妹県 ふれあい 四十周年記念」
「伊藤光好胸像」鹿児島の語り部。
「薩摩義士之像」台座は桜島の溶岩。
社殿に戻って来た。
今日は15時までだったか。
色々とアイテムが揃っている。
この絵馬、格好いい。敵中突破からだな。
玉垣には「心男」の肩書がちらほら。
宝暦治水観音堂。
「姉妹盟約十五周年記念植樹」
「内藤十左衛門顕彰碑」
治水工事では幕府の命で、氾濫で困窮していた流域の住民を、敢えて割高に雇用せねばならなかった。ところが、地元の庄屋が指示通りに働かずに不具合を出してしまった。雇い主に類が及ぶことを危惧して自害したと伝わる内藤十左衛門を祀る碑。
「油島渡船之跡」
かつて多度と油島を結んでいた渡し船を偲んだ碑。
ここに渡し船が発着していたのだろう。
水族館があった?その後、軽食喫茶・隼人丸に?
隼人橋。薩摩推し。
「姉妹協会盟約記念樹」
これ、人感センサーが反応して水が出た。
「玉垣改築事業奉賛者御芳名」
まだ間に合うかもよ?
見所満載だった。てか、南側はまだ全部行けていない。
感慨深い史跡だった。
治水事業で完全に氾濫が収まった訳ではない。それでも、理不尽な命令と仕打ちに耐えて工事を完遂してくれた薩摩への感謝の念に溢れた神社だった。
関係のない地にも拘らず、命を懸けて頑張ってくれた想いは尊い。大野川合戦まつりを通じ、大分県民が長曽我部への感謝を伝えているのと通じると思う。大分県民にとって「島津は敵」なので、少し微妙なのではあるが・・