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写真 藤平さんが保存していた被爆当時の日記と腕章=文京区で
『核兵器とは共存できぬ』 被爆当時の日記と腕章展示 2010年2月7日 東京新聞
広島で原爆被害に遭った藤平典(とうへいのり)・東京都原爆被害者団体協議会(東友会)副会長(81)=杉並区=の被爆当時の日記と腕章が、九日から開かれる東友会の「東京原爆展」(東京新聞後援)で初めて展示される。藤平さんは「原爆症認定問題で分かる通り、原爆の影響は六十年たっても続いている。核兵器と人間は共存できないことを知ってほしい」と話している。 (橋本誠)
藤平さんは一九四五年八月六日朝、爆心地から四・一キロの工場で、目の前でフラッシュをたかれたような光と熱さを感じた。救援で市内に向かう途中、やけどで皮膚が垂れ下がり、幽霊のように歩いてくる人たちを見た。病院では床や庭に遺体が並び、負傷者を動かそうとすると、皮膚が手にべったり付いてきた。一カ月後、寒気や歯茎からの出血、下痢、脱毛に襲われた。
戦後、藤平さんは原爆を忘れようとし「被爆者」とも名乗らなかった。「業火の中で見捨てた人、原爆症で苦しみながら亡くなった人に対し、生き残った自分が負い目になっていた」からだ。
そんな中、六二年に亡くなった父親の遺品から、今回展示する腕章が見つかった。在籍していた「広島高等師範学校 報国隊」の文字の脇に、負傷者の血痕も…。一緒に出てきた日記には「惨状、眼もあてられず。広島市、全滅のごとし、学友も三〇数名行方不明」とあった。
記憶を呼び覚まされた藤平さんはそれから半世紀、「被爆者」として核廃絶を訴え続ける。「若い人は核兵器をちょっと大きな爆弾ぐらいにしか感じていない。一発の原爆がどれだけの被害を出したか事実を知ってほしい」と話している。
新宿区西新宿の都庁第一本庁舎四十五階で、十三日まで。高熱で表面が泡立った「原爆瓦」や写真パネル、水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の放射能を測った機器を展示し、「核なき世界」を打ち出したオバマ米大統領をめぐる報道も紹介する。入場無料。
藤平(とうへい)さんのことはずいぶん前から存じ上げています。
もう82歳になられたんですね。
いつも笑顔の絶えない優しい方です。
どんどん被爆者が亡くなってとうとう藤平さんが日本被団協の代表委員の一角にならねばならなくなったときも、ずいぶん固辞されていました。
大人しい方でリーダーシップを取るようなことは苦手でいらしたんですね。
でも、結局お引き受けになりました。
被爆者だって普通の市民だったんです。選ばれて被爆者になるわけじゃない。それでも自分たち以外の人に同じ目を見させたくないと日々努力されているのです。
ニューヨークのNPT再検討会議にも何十人も被爆者が訪米予定で、国連総会で原爆写真展をするということです。
本当に頭が下がります。
せめてノーベル平和賞くらいあげてほしいです。
『核兵器とは共存できぬ』 被爆当時の日記と腕章展示 2010年2月7日 東京新聞
広島で原爆被害に遭った藤平典(とうへいのり)・東京都原爆被害者団体協議会(東友会)副会長(81)=杉並区=の被爆当時の日記と腕章が、九日から開かれる東友会の「東京原爆展」(東京新聞後援)で初めて展示される。藤平さんは「原爆症認定問題で分かる通り、原爆の影響は六十年たっても続いている。核兵器と人間は共存できないことを知ってほしい」と話している。 (橋本誠)
藤平さんは一九四五年八月六日朝、爆心地から四・一キロの工場で、目の前でフラッシュをたかれたような光と熱さを感じた。救援で市内に向かう途中、やけどで皮膚が垂れ下がり、幽霊のように歩いてくる人たちを見た。病院では床や庭に遺体が並び、負傷者を動かそうとすると、皮膚が手にべったり付いてきた。一カ月後、寒気や歯茎からの出血、下痢、脱毛に襲われた。
戦後、藤平さんは原爆を忘れようとし「被爆者」とも名乗らなかった。「業火の中で見捨てた人、原爆症で苦しみながら亡くなった人に対し、生き残った自分が負い目になっていた」からだ。
そんな中、六二年に亡くなった父親の遺品から、今回展示する腕章が見つかった。在籍していた「広島高等師範学校 報国隊」の文字の脇に、負傷者の血痕も…。一緒に出てきた日記には「惨状、眼もあてられず。広島市、全滅のごとし、学友も三〇数名行方不明」とあった。
記憶を呼び覚まされた藤平さんはそれから半世紀、「被爆者」として核廃絶を訴え続ける。「若い人は核兵器をちょっと大きな爆弾ぐらいにしか感じていない。一発の原爆がどれだけの被害を出したか事実を知ってほしい」と話している。
新宿区西新宿の都庁第一本庁舎四十五階で、十三日まで。高熱で表面が泡立った「原爆瓦」や写真パネル、水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の放射能を測った機器を展示し、「核なき世界」を打ち出したオバマ米大統領をめぐる報道も紹介する。入場無料。
藤平(とうへい)さんのことはずいぶん前から存じ上げています。
もう82歳になられたんですね。
いつも笑顔の絶えない優しい方です。
どんどん被爆者が亡くなってとうとう藤平さんが日本被団協の代表委員の一角にならねばならなくなったときも、ずいぶん固辞されていました。
大人しい方でリーダーシップを取るようなことは苦手でいらしたんですね。
でも、結局お引き受けになりました。
被爆者だって普通の市民だったんです。選ばれて被爆者になるわけじゃない。それでも自分たち以外の人に同じ目を見させたくないと日々努力されているのです。
ニューヨークのNPT再検討会議にも何十人も被爆者が訪米予定で、国連総会で原爆写真展をするということです。
本当に頭が下がります。
せめてノーベル平和賞くらいあげてほしいです。
私は今まで戦争は直接私たちにかかわっているわけじゃないし、大変なことだったんだな ぐらいにしか思っていませんでした。
でもこの本を読んで変わりました。自分では変わったと思っています。
この本を読んでから、学校の資料集やパソコンでいろいろ調べました。
悲惨です。なにより悲しいです。
私たちがこんなことをしていたなんて・・・
いくらここで無念の気持ちを書いても、被害者の方の気持ちを理解しようしても、私には到底無理なことと思います。
でも、この悲しみを、本当の事実をこれから大人になっていく子供たち、日本の皆さんに知ってもらうことこそが大切なことだと思います。
私はこれから、このことをもっとよく知り、みんなにも知ってもらうためにこれから頑張っていきたいです。
親父が爆撃後の惨状を聞いても、
広島の慰霊碑の前で泣いてても、
なにか遠い世界に思えるって。
理解してあげたいのに、伝わら
ないって。
父親の事さえ理解できないのに、
皆が本当に理解できるのだろ
うか?って。
繰り返せない過ちが核戦争だけ
ど、自分には遠い世界だと。