⑤ ハワイイは、結構難しい島だった
(しばらく、ご無沙汰しています。久しぶりにブログに帰ってきました。けっこういろいろありまして・・・)
6月3日夜半、ボラボラ島を出港したピースボートは一路最後の寄港地ハワイを目指したわけですが、途中で怪情報がまことしやかに流れます。、これまでの見事に左右に描かれていた船の水脈が、右側半分しか出ていない、エンジンの半分が止まっているに相違ない、ハワイ到着も遅れるだろう、あるいは船の状態はもっと悪いかも知れない、というものです。食事の合席していた人から聞かされ、他の人にも確かめると、噂は知っているということでしたし。最近変な揺れがひどいということは皆の思うところでもあったのです。がぜん話は盛り上がり、もし、ハワイで入港が認められなかったり、エンジン修理のためにドック入りしたら、ホテル代は誰がもつのか、等々。しかも、その話を切り出した人が、「他の船に詳しい人と、日本側の責任者(ジャパングレースのHさん⇒スペイン モトリルのバルで僕が軽口を言った相手)に聞いても、否定したけれど、彼はほんとのことは言わない人だ」と、話は大きくなります。翌日には航路説明会があるので、そこで明らかになるだろうということで、いちおうお開きに。その説明会、Hさんのほうが先手をとった。「最近、妙な噂が流れているようです。皆さんも暇ですね・・」と切り出し、片肺飛行・・じゃなかった、片肺航行?は、時間調整のための予定の行動であり、左エンジンも点検後、動かす予定とのこと。
というドタバタがあったものの、6月10日朝、ハワイ オアフ島の港に到着した。予定通りであった。ところが今までとは違うことがある。テロ対策に敏感な米国では、個別の対面審査が必要とされるのであった。これまでの国は、飛行機と船の違いはあるが、事務局が一括審査を申請し、マ多分問題にもならなかったのだろうから、「全員の上陸許可がおりた」との放送で船外に出たのである。ところが、この朝8時過ぎに、パトカーを連ね港の税関・入管が乗船してきた。少しばかりたまげたのは、麻薬犬であろう、犬まで乗船してきた。おまけに、米国にとって、PBはいかにもうっとうしい船なのであろう。カリブ海諸国、LA諸国には寄港しても、久しぶりの入国らしいのである。船内講演では、いかに米国が19世紀末からLA諸国を支配してきたか、ご当地ハワイについても、軍事のかなめ石、観光産業の大資本導入による現地住民の生活破壊を推し進めていったか、などの中身までは知らないにせよ、どうも米軍需産業界にとっては好ましからぬ御一行様であろう。
マ、それはそれとして、対面審査はスムースであったのに拍子抜けする反面、帰船のチェックはベルト・荷物等結構厳しかった。ところで、海外旅行の経験の多い妻(およびそれほどではないが私)ではあるが、ハワイは初めてなのである。そして、感じたことは、日本人が溢れかえり、誰が居住者か分かりにくく、ツアーならともかく、自分らだけで旅行するなら、よく調べてからでないと結構移動が難しい島だということであった。ハワイが名だたる観光地だからと舐めてしまって、OPを申し込まず、自力活動を目論んだのが結果的に悔いの残ることとなってしまった。だから、この項については、自力でハワイ観光しようという人にとっての反面教師くらいの値打ちはあるかも知れない。
10日の予定としては、講演でも聞いたRemember Pearl Harborに「アリゾナ記念公園」ができており効率的に見学できるということなので、まずはそこへ行く、そして妻の自主活動グループが17時に有名ホテルのディナーでハワイアン見学という企画に便乗するというもの。対面審査が終わり結果的に下船できたのは11時過ぎで、しかも港からは、どうも直接行けず、ほとんどが中心街であるアラモアナ・センターという所かワイキキまで行きバスに乗らなければいけないということが分かった。そのアラモアナに行き、iで翌日のアクティビティで申し込めるものを問い合わせたが芳しい結果は得られず、アリゾナ公園へのバスの時間も分からないので、まずは昼食を取ろう、このセンターには回転ずしもあるのでそこで腹ごしらえをすることとした。これがまず失敗、日曜の昼時のせいもあって、おまけに米に吸収されたカメハメハ大王の生まれた日とかで大層な人出、20分ほどでやっと席に座れたが、寿司店なのにビールはおいてない(そうなんですよ、よく調べて行かないとネ)、マアマアのものもあるが総じてマヨネーズべっとり・・期待外れのランチだった。、ともかくアリゾナに行こう! でもバスストップが分かりにくい、しかも時刻表などありません、ともかく行先方面の番号の書いたストップでひたすら待つ、待つ、待つ・・・「オーイもう半時間や」「ガイドには40分くらいおきとあった」・・・「オーイもう40分や」「あきらめて離れたとたんに来たら癪だし・・」・・・「オーイ 50分たった」「ウーン」・・とそこへ来たんですね。このバス乗車が実は一番の勉強になったのかもしれない。2~300mも行かないうちにバスストップに出くわし、まさにハワイアン(ハワイ現地人)の生活の足になっている様子を見てとれたからである。それと、どこでおりたらいいのか、前方に小さな字なので見過ごすところであったが、「次停まります」と地域(カウンティ 郡かな?)―駅名が表示されていたのを見つけて一安心。また、降車の意志はボタンが無いのでこれも観察していたら、窓に沿わせてゴムひもが一周してある、これを引っ張るわけネ。前方の表示板に「ARIZONA MEMORIAL」がでる。ア、ここや、思わず強く引っ張る。焦る必要はないのネ。たくさん降りたから。
日曜なので、白人・現地人含め家族連れが多い。なるほど・・・。でも貴重品とカメラ以外の荷物の持ち込みは禁止、荷物預けの3ドルが実質の入場料、そうなのです、特別メニューを取らなければ無料ということの意味を考えるべきなのでしょう。荷物を預け、警備員の示す人一人しか通れぬ入り口を超えたところのiで、係員が親切な案内をしてくれる。
でも15時も近くなり、17時の約束を考えると最低限の見学しかできない。まずは映画を見ることが必須メニューで15分ほどの映画を見る。待つ間に流し読む日本語パンフと本編を見て感じたことは、当然主語はアメリカになっているのだが、私の目から見れば、歪められているとか、一方的だとか思えないし、ましてや、質の低いプロパガンダや怨念の表明などでは決してないのだが、「ソウナノ?」という思いがした。つまり能動態と受動態で表現した場合、意味的には同じでも「語感?」の差というべきようなズレ?みたいなものを感じた。「相手の立場に立つ」とよく言うが、「言うは易く行うは難し」の実例であろう。上映後の出口の先には50人程度のボートが待っている。100mも行くだろうか?白い建物らしきものに横付けする。そこから、真珠湾攻撃で沈められた海底に眠るアリゾナ号の一部が見れる仕組みになっており、奥の部屋では戦死した乗組員の名前が数mの白壁一面に書かれていたのであった。船の機関の一部から滲み出す油が今もかすかではあるが海面を汚していた。その頃生まれたすぐ上の姉は、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まったということで「洋子」と名付けられた。(ちなみにその弟である私は終戦の詔勅を母のおなかで聞いていたらしく、民主主義の時代になったということで「民三」という名前である・・・)
あとの施設を大急ぎでみてまわり(時間があれば戦艦ミズーリ―に乗船することも可=有料)、いつ来るか分からないバス停へ急ぐべく荷物を取りに行ったら、顔見知りのPB乗客と出会い、彼らもディナーショーに参加予定ということでタクシーに乗り合わせて、ゆうゆう間に合った。間に合い過ぎて、時間をかけて昼飲み損ねたビールとピザ・エビフライなどに時間をかける。結局歌とダンスが始まりだしたのは19時ころ、おまけに途中で、多分フラダンスのワークショップ付きの御一行様の発表会もどきのとび入りがあった。日本人のオバンのフラダンスなど見とうもないレダックは妻を促して失礼することにしました。ウィンドショッピングも兼ねてアラモアナまで歩きましたが、途中で道に迷いかけるなど結構な距離ではありました。ハワイ一日目あまりいいことは無かったけれど、ピザやスイーツはさすがでありましたことを付記しておきましょう。
(2日目すぐにとりかかります、いましばらくお待ちを)
(しばらく、ご無沙汰しています。久しぶりにブログに帰ってきました。けっこういろいろありまして・・・)
6月3日夜半、ボラボラ島を出港したピースボートは一路最後の寄港地ハワイを目指したわけですが、途中で怪情報がまことしやかに流れます。、これまでの見事に左右に描かれていた船の水脈が、右側半分しか出ていない、エンジンの半分が止まっているに相違ない、ハワイ到着も遅れるだろう、あるいは船の状態はもっと悪いかも知れない、というものです。食事の合席していた人から聞かされ、他の人にも確かめると、噂は知っているということでしたし。最近変な揺れがひどいということは皆の思うところでもあったのです。がぜん話は盛り上がり、もし、ハワイで入港が認められなかったり、エンジン修理のためにドック入りしたら、ホテル代は誰がもつのか、等々。しかも、その話を切り出した人が、「他の船に詳しい人と、日本側の責任者(ジャパングレースのHさん⇒スペイン モトリルのバルで僕が軽口を言った相手)に聞いても、否定したけれど、彼はほんとのことは言わない人だ」と、話は大きくなります。翌日には航路説明会があるので、そこで明らかになるだろうということで、いちおうお開きに。その説明会、Hさんのほうが先手をとった。「最近、妙な噂が流れているようです。皆さんも暇ですね・・」と切り出し、片肺飛行・・じゃなかった、片肺航行?は、時間調整のための予定の行動であり、左エンジンも点検後、動かす予定とのこと。
というドタバタがあったものの、6月10日朝、ハワイ オアフ島の港に到着した。予定通りであった。ところが今までとは違うことがある。テロ対策に敏感な米国では、個別の対面審査が必要とされるのであった。これまでの国は、飛行機と船の違いはあるが、事務局が一括審査を申請し、マ多分問題にもならなかったのだろうから、「全員の上陸許可がおりた」との放送で船外に出たのである。ところが、この朝8時過ぎに、パトカーを連ね港の税関・入管が乗船してきた。少しばかりたまげたのは、麻薬犬であろう、犬まで乗船してきた。おまけに、米国にとって、PBはいかにもうっとうしい船なのであろう。カリブ海諸国、LA諸国には寄港しても、久しぶりの入国らしいのである。船内講演では、いかに米国が19世紀末からLA諸国を支配してきたか、ご当地ハワイについても、軍事のかなめ石、観光産業の大資本導入による現地住民の生活破壊を推し進めていったか、などの中身までは知らないにせよ、どうも米軍需産業界にとっては好ましからぬ御一行様であろう。
マ、それはそれとして、対面審査はスムースであったのに拍子抜けする反面、帰船のチェックはベルト・荷物等結構厳しかった。ところで、海外旅行の経験の多い妻(およびそれほどではないが私)ではあるが、ハワイは初めてなのである。そして、感じたことは、日本人が溢れかえり、誰が居住者か分かりにくく、ツアーならともかく、自分らだけで旅行するなら、よく調べてからでないと結構移動が難しい島だということであった。ハワイが名だたる観光地だからと舐めてしまって、OPを申し込まず、自力活動を目論んだのが結果的に悔いの残ることとなってしまった。だから、この項については、自力でハワイ観光しようという人にとっての反面教師くらいの値打ちはあるかも知れない。
10日の予定としては、講演でも聞いたRemember Pearl Harborに「アリゾナ記念公園」ができており効率的に見学できるということなので、まずはそこへ行く、そして妻の自主活動グループが17時に有名ホテルのディナーでハワイアン見学という企画に便乗するというもの。対面審査が終わり結果的に下船できたのは11時過ぎで、しかも港からは、どうも直接行けず、ほとんどが中心街であるアラモアナ・センターという所かワイキキまで行きバスに乗らなければいけないということが分かった。そのアラモアナに行き、iで翌日のアクティビティで申し込めるものを問い合わせたが芳しい結果は得られず、アリゾナ公園へのバスの時間も分からないので、まずは昼食を取ろう、このセンターには回転ずしもあるのでそこで腹ごしらえをすることとした。これがまず失敗、日曜の昼時のせいもあって、おまけに米に吸収されたカメハメハ大王の生まれた日とかで大層な人出、20分ほどでやっと席に座れたが、寿司店なのにビールはおいてない(そうなんですよ、よく調べて行かないとネ)、マアマアのものもあるが総じてマヨネーズべっとり・・期待外れのランチだった。、ともかくアリゾナに行こう! でもバスストップが分かりにくい、しかも時刻表などありません、ともかく行先方面の番号の書いたストップでひたすら待つ、待つ、待つ・・・「オーイもう半時間や」「ガイドには40分くらいおきとあった」・・・「オーイもう40分や」「あきらめて離れたとたんに来たら癪だし・・」・・・「オーイ 50分たった」「ウーン」・・とそこへ来たんですね。このバス乗車が実は一番の勉強になったのかもしれない。2~300mも行かないうちにバスストップに出くわし、まさにハワイアン(ハワイ現地人)の生活の足になっている様子を見てとれたからである。それと、どこでおりたらいいのか、前方に小さな字なので見過ごすところであったが、「次停まります」と地域(カウンティ 郡かな?)―駅名が表示されていたのを見つけて一安心。また、降車の意志はボタンが無いのでこれも観察していたら、窓に沿わせてゴムひもが一周してある、これを引っ張るわけネ。前方の表示板に「ARIZONA MEMORIAL」がでる。ア、ここや、思わず強く引っ張る。焦る必要はないのネ。たくさん降りたから。
日曜なので、白人・現地人含め家族連れが多い。なるほど・・・。でも貴重品とカメラ以外の荷物の持ち込みは禁止、荷物預けの3ドルが実質の入場料、そうなのです、特別メニューを取らなければ無料ということの意味を考えるべきなのでしょう。荷物を預け、警備員の示す人一人しか通れぬ入り口を超えたところのiで、係員が親切な案内をしてくれる。
でも15時も近くなり、17時の約束を考えると最低限の見学しかできない。まずは映画を見ることが必須メニューで15分ほどの映画を見る。待つ間に流し読む日本語パンフと本編を見て感じたことは、当然主語はアメリカになっているのだが、私の目から見れば、歪められているとか、一方的だとか思えないし、ましてや、質の低いプロパガンダや怨念の表明などでは決してないのだが、「ソウナノ?」という思いがした。つまり能動態と受動態で表現した場合、意味的には同じでも「語感?」の差というべきようなズレ?みたいなものを感じた。「相手の立場に立つ」とよく言うが、「言うは易く行うは難し」の実例であろう。上映後の出口の先には50人程度のボートが待っている。100mも行くだろうか?白い建物らしきものに横付けする。そこから、真珠湾攻撃で沈められた海底に眠るアリゾナ号の一部が見れる仕組みになっており、奥の部屋では戦死した乗組員の名前が数mの白壁一面に書かれていたのであった。船の機関の一部から滲み出す油が今もかすかではあるが海面を汚していた。その頃生まれたすぐ上の姉は、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まったということで「洋子」と名付けられた。(ちなみにその弟である私は終戦の詔勅を母のおなかで聞いていたらしく、民主主義の時代になったということで「民三」という名前である・・・)
あとの施設を大急ぎでみてまわり(時間があれば戦艦ミズーリ―に乗船することも可=有料)、いつ来るか分からないバス停へ急ぐべく荷物を取りに行ったら、顔見知りのPB乗客と出会い、彼らもディナーショーに参加予定ということでタクシーに乗り合わせて、ゆうゆう間に合った。間に合い過ぎて、時間をかけて昼飲み損ねたビールとピザ・エビフライなどに時間をかける。結局歌とダンスが始まりだしたのは19時ころ、おまけに途中で、多分フラダンスのワークショップ付きの御一行様の発表会もどきのとび入りがあった。日本人のオバンのフラダンスなど見とうもないレダックは妻を促して失礼することにしました。ウィンドショッピングも兼ねてアラモアナまで歩きましたが、途中で道に迷いかけるなど結構な距離ではありました。ハワイ一日目あまりいいことは無かったけれど、ピザやスイーツはさすがでありましたことを付記しておきましょう。
(2日目すぐにとりかかります、いましばらくお待ちを)