私の轍 WatashiのWadachi 第10回
教員生活 2 府立藤井寺高校
① 府立新設校への転勤 1期生との出会い
1975年、堺市工から府立藤井寺高校に転勤した。設置者が別だが、府の教員採用試験は合格しているので、ペーパー試験はないが、府の教育委員会に呼ばれて面接のようなものは受けた記憶がある。
赴任した学校は開校2年目、まだ建設工事が続いており、雨の時などぬかるみに足をとられることもあった。2学年分の生徒、教員も2学年分でスタート。私の担当する倫理社会は2年時に履修するので、2年に入り担任もついてきた。生徒急増期にあって、新設校が続々と建てられ、府立高校としては87番目であった。ために職員の親睦団体を八七会と称した。
初代校長は今から思うとやり手で、いろんな人材を集めてきて、多士済々ではあった。私も校長のお目に留まったのかな? 教室を転用した2年生職員室に用意された机の左手には学年主任のI先生、右手は後に教育監になったO先生だったので、どれだけ指導・薫陶を受けたか、想像できるかと思う。生徒は地元藤井寺、羽曳野、松原だけでなく、当初の学区調整から大阪市内からも通学してきていた。近鉄を利用してくる生徒は、藤井寺駅からは約半時間、高鷲駅からでも20分ほど要したので、駅前の自転車を寸借(占有物離脱)する不心得者もいた。自転車を取られたら、「藤高へ行け」という噂までたち、また事実そうだった。
やんちゃな堺市工生に十分鍛えられてきたので、半分は女子生徒もいる藤高生がなんぼのもんヤ、とは思っていたが、いやいやどうして、手を焼いた。教職員間での情報交換、職員会議での議論で侃々諤々の日々が続いた。当時を振り返って、駅を降りて足が動かず通勤拒否になりかけた先生もいたほどである。コミュニケーションを図るため、駅前の飲み屋が第2職員室となった日も多かった。遅刻や欠席を繰り返す、あるいは喫煙を何度か繰り返す生徒への指導方針の議論でサッサと退学勧告をうつべきだ、とする論調に対して、粘り強い指導の重要性の論陣を張った記憶がある。しかし、言うは易くとも行うは難し、を思い知らされた。
一つの工夫は「倫理社会」の授業でいかに生徒に興味関心をもたせるかだ。「青年期」も大きな分野なので、永山則夫の「無知の涙」や、小児科医松田道夫の「恋愛なんかやめておけ」の一部を増す刷りして教材にした。また、生徒にさまざまなアンケートを実施して、その結果を返しながらみんなで考えようとした。アンケート集計などいたずらに手間暇がかかるものだが、マ、生徒に関心を持たせる意味で比較的成果はあったと自負している。
いきなり担任したクラス(2年11組)は割合大人しい生徒だったと思う。しかし一つの事件があった。生徒連絡のために2階のホームルーム教室へ行くと、一人の生徒がタバコを吸っていた。当然、懲戒指導にかけるわけだが、その生徒はラグビー部で、他のクラスのラグビー部員が猛反発し、私の授業になると、廊下との間の窓や扉を取り外すのだ。「この方が捕まえやすいだろう」というあてつけだが、印象深く覚えている。
翌年持ち上がった1期生3年のクラスは、理系2、文系10クラスで、私は文系(3年4組)の担任となった。2年から引き続いてもった生徒も多くいて、楽しかった。やんちゃ・ゴンタが多いクラスでの授業はやはり大変だったが、生徒の進路指導は勉強になった。普通科新設校なので、生徒の進学希望と実力とのギャップがよくわからないまま、相談に応じざるを得なかった。詳細はよく覚えていないが、卒業すぐの時点はともかく、その後看護師になったり社会福祉施設理事や職員もいる。彼らも還暦を過ぎ既に64歳(2022年3月現在)であり、同窓会で会うのが楽しみ、教師冥利といえよう。
▲有名人のエピソードを一つ紹介しておこう。別クラスだが、進路相談を受けた生徒がいた。1年目から文化祭の時に体育館でのバンド演奏に際 し、学校の放送設備以外にPA(パワーアンプ)を借りてほしい旨交渉され、生徒会主顧問とともに実現させた時以来のつきあいである。自分らのバンド活動が「かまやつひろし」に見込まれ、「プロ」の誘いを受けている。バンドのメンバーの一人は既に退学しており、自分もやめようか、3年がんばって卒業しようか」ということで悩んでいるとのこと。当然のことながら、もう1年のことだから頑張って卒業目指すようアドバイスした。この男がロック界では有名な後の「ラウドネス」のドラマー樋口であった。夭折したのは残念である。こんな才能ある者は、卒業しようがしまいが大して変わりがないように思うが、あくまでもレアケースであろう。▼
翌年の2月には、次男亨が誕生した。20歳代の終わりから三十路へと、やはり大きな転機であったのだろう
② 同和教育推進委員長として 人権教育の取り組み
1期生を送り出してからは、3,5,7期生を担当した。2年倫理社会、3年政治経済というカリキュラムになっていたからである。政治経済も割合人気ある科目である。特に理系大学を狙うには私学しか目標とできないが、受験に関係なく聞けるからであろう。日本国憲法はかなりの時間をかけてやった。
転勤3年目選挙で同和教育推進委員長に選ばれた。当時は、校務分掌の長などは、職員による選挙によって選ばれていた。(現在はあの橋下府政によって校長任命制に変えられたのだが・・)
当時は、部落解放運動の教育に対する要望や影響も強く、学校でも同和教育推進は主要な教育課題の一つだった。建設当初は学区に調整区を含んでいたので、地元羽曳野だけでなく大阪市内からも同和地区在住生徒も通学してきていた。藤井寺市にも水平社創設当時から同和地区があるのだが、同対法で地区指定されず、無いことになっていた。堺での経験もあるので、その役職については前向きに取り組もうと考えていた。
▲しかし大阪では、教員の同和教育に対するスタンスが、矢田教育差別事件と隣の兵庫県で生起した八鹿高校事件によって激しい対立をもたらしていた。校内でもその亀裂は深かった。私は、生徒が差別や偏見にさらされているという不合理は許せなかったので、彼らを支援、応援する立場で発言や行動をした。違う立場の先生方から見れば、問題と感じられたかもしれない。▼
教員間の対立を見越したうえで、生徒の実態を基にした研修や指導方針を提起していった。具体的には同和地区在住生徒、外国籍生徒(障害のある生徒については実際に在籍するようになってから)の成績や出欠、卒業後の進路の共通理解を図るようにした。当該生徒を理解してもらうために、生徒情報はできるだけ共有したいと考えた。個人情報が漏れたというような問題は起こらなかったが、その在り方については議論する必要があろう。さらに3期生まで卒業させたので、同和地区在住生徒と外国籍生徒について、往復はがきを出して進路状況を調査したこともある。その結果、退学率が高いこと、大学・専門校への進学率は低く、進路先未定または不明者が多い、などが明らかになり、職員への報告とともに、府高同研でも発表した。生徒啓発としては、3年「社用紙から統一用紙への意義」のHRを一つのゴールにした。
教科 倫社・政経でも人権問題を取り上げるようにした。3年最後の試験で、私の方では把握していなかった生徒が、答案用紙の裏に「僕は〇〇部落に住んでいます。」に続いて人権問題を学習してよかったという趣旨の短文を書いていた。
当然、在日外国人問題も授業でとりあげてきた。3期生になってからだが、韓国・朝鮮人文化研究サークルを立ち上げて、本名使用し始めた生徒もいたが、後を続けられなかった。
また、近所に藤井寺支援学校ができた。4期生に肢体不自由生徒が入学してきたことあって、障害生徒の教育について理解を深めるため、学校見学→職員交流→文化祭への生徒招待→文化部等の生徒交流等の取り組みを数年にわたって展開した。その影響もあってか、生徒のボランティアサークルもできた。このサークル部員と一緒に支援学校生徒と琵琶湖なんとかパラダイスのプールで下肢マヒの生徒と遊んだ記憶も書いているうちに蘇ってきた。全体のHRで車いす体験、二人一組で目隠しして校内を歩き回る視覚不自由者の疑似体験などの工夫も、1980年代の初めにはやっていた。
これらの取り組みができたのは、多くの教員の理解と協力が得られたからだと感謝している。
教員生活 2 府立藤井寺高校
① 府立新設校への転勤 1期生との出会い
1975年、堺市工から府立藤井寺高校に転勤した。設置者が別だが、府の教員採用試験は合格しているので、ペーパー試験はないが、府の教育委員会に呼ばれて面接のようなものは受けた記憶がある。
赴任した学校は開校2年目、まだ建設工事が続いており、雨の時などぬかるみに足をとられることもあった。2学年分の生徒、教員も2学年分でスタート。私の担当する倫理社会は2年時に履修するので、2年に入り担任もついてきた。生徒急増期にあって、新設校が続々と建てられ、府立高校としては87番目であった。ために職員の親睦団体を八七会と称した。
初代校長は今から思うとやり手で、いろんな人材を集めてきて、多士済々ではあった。私も校長のお目に留まったのかな? 教室を転用した2年生職員室に用意された机の左手には学年主任のI先生、右手は後に教育監になったO先生だったので、どれだけ指導・薫陶を受けたか、想像できるかと思う。生徒は地元藤井寺、羽曳野、松原だけでなく、当初の学区調整から大阪市内からも通学してきていた。近鉄を利用してくる生徒は、藤井寺駅からは約半時間、高鷲駅からでも20分ほど要したので、駅前の自転車を寸借(占有物離脱)する不心得者もいた。自転車を取られたら、「藤高へ行け」という噂までたち、また事実そうだった。
やんちゃな堺市工生に十分鍛えられてきたので、半分は女子生徒もいる藤高生がなんぼのもんヤ、とは思っていたが、いやいやどうして、手を焼いた。教職員間での情報交換、職員会議での議論で侃々諤々の日々が続いた。当時を振り返って、駅を降りて足が動かず通勤拒否になりかけた先生もいたほどである。コミュニケーションを図るため、駅前の飲み屋が第2職員室となった日も多かった。遅刻や欠席を繰り返す、あるいは喫煙を何度か繰り返す生徒への指導方針の議論でサッサと退学勧告をうつべきだ、とする論調に対して、粘り強い指導の重要性の論陣を張った記憶がある。しかし、言うは易くとも行うは難し、を思い知らされた。
一つの工夫は「倫理社会」の授業でいかに生徒に興味関心をもたせるかだ。「青年期」も大きな分野なので、永山則夫の「無知の涙」や、小児科医松田道夫の「恋愛なんかやめておけ」の一部を増す刷りして教材にした。また、生徒にさまざまなアンケートを実施して、その結果を返しながらみんなで考えようとした。アンケート集計などいたずらに手間暇がかかるものだが、マ、生徒に関心を持たせる意味で比較的成果はあったと自負している。
いきなり担任したクラス(2年11組)は割合大人しい生徒だったと思う。しかし一つの事件があった。生徒連絡のために2階のホームルーム教室へ行くと、一人の生徒がタバコを吸っていた。当然、懲戒指導にかけるわけだが、その生徒はラグビー部で、他のクラスのラグビー部員が猛反発し、私の授業になると、廊下との間の窓や扉を取り外すのだ。「この方が捕まえやすいだろう」というあてつけだが、印象深く覚えている。
翌年持ち上がった1期生3年のクラスは、理系2、文系10クラスで、私は文系(3年4組)の担任となった。2年から引き続いてもった生徒も多くいて、楽しかった。やんちゃ・ゴンタが多いクラスでの授業はやはり大変だったが、生徒の進路指導は勉強になった。普通科新設校なので、生徒の進学希望と実力とのギャップがよくわからないまま、相談に応じざるを得なかった。詳細はよく覚えていないが、卒業すぐの時点はともかく、その後看護師になったり社会福祉施設理事や職員もいる。彼らも還暦を過ぎ既に64歳(2022年3月現在)であり、同窓会で会うのが楽しみ、教師冥利といえよう。
▲有名人のエピソードを一つ紹介しておこう。別クラスだが、進路相談を受けた生徒がいた。1年目から文化祭の時に体育館でのバンド演奏に際 し、学校の放送設備以外にPA(パワーアンプ)を借りてほしい旨交渉され、生徒会主顧問とともに実現させた時以来のつきあいである。自分らのバンド活動が「かまやつひろし」に見込まれ、「プロ」の誘いを受けている。バンドのメンバーの一人は既に退学しており、自分もやめようか、3年がんばって卒業しようか」ということで悩んでいるとのこと。当然のことながら、もう1年のことだから頑張って卒業目指すようアドバイスした。この男がロック界では有名な後の「ラウドネス」のドラマー樋口であった。夭折したのは残念である。こんな才能ある者は、卒業しようがしまいが大して変わりがないように思うが、あくまでもレアケースであろう。▼
翌年の2月には、次男亨が誕生した。20歳代の終わりから三十路へと、やはり大きな転機であったのだろう
② 同和教育推進委員長として 人権教育の取り組み
1期生を送り出してからは、3,5,7期生を担当した。2年倫理社会、3年政治経済というカリキュラムになっていたからである。政治経済も割合人気ある科目である。特に理系大学を狙うには私学しか目標とできないが、受験に関係なく聞けるからであろう。日本国憲法はかなりの時間をかけてやった。
転勤3年目選挙で同和教育推進委員長に選ばれた。当時は、校務分掌の長などは、職員による選挙によって選ばれていた。(現在はあの橋下府政によって校長任命制に変えられたのだが・・)
当時は、部落解放運動の教育に対する要望や影響も強く、学校でも同和教育推進は主要な教育課題の一つだった。建設当初は学区に調整区を含んでいたので、地元羽曳野だけでなく大阪市内からも同和地区在住生徒も通学してきていた。藤井寺市にも水平社創設当時から同和地区があるのだが、同対法で地区指定されず、無いことになっていた。堺での経験もあるので、その役職については前向きに取り組もうと考えていた。
▲しかし大阪では、教員の同和教育に対するスタンスが、矢田教育差別事件と隣の兵庫県で生起した八鹿高校事件によって激しい対立をもたらしていた。校内でもその亀裂は深かった。私は、生徒が差別や偏見にさらされているという不合理は許せなかったので、彼らを支援、応援する立場で発言や行動をした。違う立場の先生方から見れば、問題と感じられたかもしれない。▼
教員間の対立を見越したうえで、生徒の実態を基にした研修や指導方針を提起していった。具体的には同和地区在住生徒、外国籍生徒(障害のある生徒については実際に在籍するようになってから)の成績や出欠、卒業後の進路の共通理解を図るようにした。当該生徒を理解してもらうために、生徒情報はできるだけ共有したいと考えた。個人情報が漏れたというような問題は起こらなかったが、その在り方については議論する必要があろう。さらに3期生まで卒業させたので、同和地区在住生徒と外国籍生徒について、往復はがきを出して進路状況を調査したこともある。その結果、退学率が高いこと、大学・専門校への進学率は低く、進路先未定または不明者が多い、などが明らかになり、職員への報告とともに、府高同研でも発表した。生徒啓発としては、3年「社用紙から統一用紙への意義」のHRを一つのゴールにした。
教科 倫社・政経でも人権問題を取り上げるようにした。3年最後の試験で、私の方では把握していなかった生徒が、答案用紙の裏に「僕は〇〇部落に住んでいます。」に続いて人権問題を学習してよかったという趣旨の短文を書いていた。
当然、在日外国人問題も授業でとりあげてきた。3期生になってからだが、韓国・朝鮮人文化研究サークルを立ち上げて、本名使用し始めた生徒もいたが、後を続けられなかった。
また、近所に藤井寺支援学校ができた。4期生に肢体不自由生徒が入学してきたことあって、障害生徒の教育について理解を深めるため、学校見学→職員交流→文化祭への生徒招待→文化部等の生徒交流等の取り組みを数年にわたって展開した。その影響もあってか、生徒のボランティアサークルもできた。このサークル部員と一緒に支援学校生徒と琵琶湖なんとかパラダイスのプールで下肢マヒの生徒と遊んだ記憶も書いているうちに蘇ってきた。全体のHRで車いす体験、二人一組で目隠しして校内を歩き回る視覚不自由者の疑似体験などの工夫も、1980年代の初めにはやっていた。
これらの取り組みができたのは、多くの教員の理解と協力が得られたからだと感謝している。
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