私の轍 第6回
第1章 大学生のころ パート2
③ SCI活動
高校のところで少し触れたボランティア活動にも、結構注力した。
● 欧米ではCOという言葉がある。Conscientious Objection 良心的徴兵拒否、という意味で、宗教的、あるいは政治的信条から、兵役や出征することを拒否するという考え方である。戦争で戦っているときに、あるいは平時で平時であっても国民の義務を拒否するというのは、ズルイ、非国民とか、裏切り者、卑怯者という声があがるのはやむをえない。だから、兵役の代わりに、同じ期間労働奉仕で代替するという運動が提唱され広まっていった。今で言うNPOであり、Service Civil International と名付けられた。日本では徴兵制は布かれていないが、「銃を捨て代わりにスコップで大地を耕すことで平和を築こう」という理念に共鳴した人々によって、日本の支部が作られ、関西でも活動が行われるようになった。
「高校時代」のところで少し触れたように、友達に誘われ、2,3回 障害児施設に行った。見学とか話を聞くだけの活動ではなく、労働奉仕が含まれていることが味噌なので、ワークキャンプと言った。社会監護施設で運動場を広げるために外壁を建造したり、水上生活者の子どもの生活する施設の環境改善などを行っていた。重傷障害児施設として有名だったびわこ学園のキャンプに参加したこともある。
● たしか大学1回生の夏(1964年)、教会を宿泊所とした西成の釜ヶ崎キャンプが行われた。昼、教会と周囲の公園清掃などを行う(中にはアンコに行く者もいた)とともに、。教会の人や、行政職員からこの地域の成り立ちや現状などをお聞きした。アメリカ人も2名参加していたが(なにしろInternationalですから、外国人が参加することもありえるのです)、「自分たちもアンコを経験したい」と言い出した。この二人は社会学専攻の大学生で、レポートする必要があるそうなのです。アンコ経験者がいても、日本語の分からない外国人を連れて行くのなら、話は別です。やむなく私が連れていくことになりました。当時は手配師の車(マイクロバスかトラック)が集まってきて、労賃〇〇円、仕事の内容を書いた紙を見せます。私と二人はおっかなびっくりしながら、求人をあさっていましたが、それ以上に手配師のおっちゃんたちも興味深々らしく、注目を集めるようになったので、手近なマイクロバスに乗り込みました。よく覚えていませんが港湾で降ろした貨物を倉庫に運び込むことの繰り返しだったと思います。昼の弁当を支給され、夕方、賃金を3人分受け取るときに言われました。「明日もけ―へんか(来ないか)? アメちゃん、やっぱりガタイええから」 「いや、一人腹具合悪い言うてますので」と断った。後日帰国し「青い目のアンコ」という本を出したと風の便りに聞きました。
● 国際的なので、翌年の韓国キャンプには私も含めて日本人数名も参加した。また、自炊の必要があるキャンプでは、男女に関係なく食事作りにいそしんだので、おかげで年をへても、自活できる自信がある。
● 3回生になり、専門の社会学講座と、陸上部での上級生としての立場から、SCI活動からは足を洗うようになった。再開したのは、大学院修士課程になってからである。
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