私の轍 WatashiのWadachi 第8回
1 堺市立工業高校
① 初めての教職 多様な生徒・教職員
1971(昭和46)年、社会人生活のスタートは、堺市立工業(定時制も併設、当時は市工と呼ばれた)の社会科教員としてであった。現在は再編改組されたが、当時は各学年とも機械科3クラス、建築・金属・工芸各1クラスの計6クラス規模であった。経済的に進学するより高校で技術・技能を身に着けたいという真面目でおとなしい生徒が多数派ではあった。しかし、学科による生徒の平均学力に相当差があること、実業高校なので学区はないが堺・大阪市内・泉州地域からきている生徒がほとんどであること、家庭事情の複雑な生徒や問題行動を繰り返す生徒も少なくないことなどが分かってきた。
授業が始まっても立ち歩く生徒、私語をやめない生徒、注意を無視する生徒などの存在にかなり神経も参った。。校外からツレを教室内に連れ込んで何食わぬ顔で授業に参加?させていたこともある。年末には吐血し胃潰瘍と診断されたが、ほどなくして回復した。
学校、生徒も時代の影響を受ける。なぜつながったのかよく覚えていないが、「べ平連」活動をしている数人のグループの存在を知り接触した。、高校生がパクられることの心配から、2回付き添ったこともある。親に黙って抜け出して集会に参加した者を、家に連れて帰ったところ、親にしばかれた生徒もいた。何もできなかった・・。
教員集団は、工業科の教員と普通科教員が、それぞれの職員室をもっており、工業科の教員が実質的な学校の意思決定の中心となり、普通科教員はその補助のように考えられていたようだ。社会科は私を入れて4名、二人の先輩教員から教育について学ばしていただいた。生徒の見方、とらえ方について、議論しあったのが、その後の私の教育観を形作ったといってよい。
② 同和教育・人権教育
特にY教諭に堺の同和教育研究会に連れまわされた結果、同和教育・人権教育の重要性を深く認識するようになった。この年1971年は、人権教育の期的な取り組みの年で、統一用紙を使いだした最初の年でもあった。受験企業の要求する書類(昔は社用紙といった)を提出させ、家の資産、親の学歴等々、およそ本人の資質・能力と関係ないことがらで、同和地区の生徒、外国籍生徒、ひとり親生徒などは、排除されていた。就職の機会均等の実現のためには、差別的な社用紙に変え、統一用紙にしましょうというのが全大阪進路保障協議会の提案であった。この動きは近畿全体に、やがて全国に広がっていった。文部省もこれを認め、全国的ひな形を示した。大阪府公立高校の教員なら、統一用紙の意義に関してホームルームで指導した経験を全員が持っているはずだ。
同和問題を勉強しながら、同時に在日韓国・朝鮮人生徒や沖縄出身生徒の問題も学んでいった。堺同研の活動を通し、堺市の小・中学校との先生とも付き合いが生まれ、後の小ー中ー高連携の下地が作られた。
● また、大学・研究職からはドロップアウトしたという鬱積感の代償からか、大阪文学学校(小野十三郎校長?)に半年?一年通った。チューターの女性がかっこよくて、学校の期間が終わっても、会合を持ち、「くんずほぐれつ」という同人誌を出した・・ご多聞にもれず、1号で終わった。
「くんずほぐれつ 特集在日朝鮮人問題」―に掲載した文章がコレ (1975年7月)
「われらの内なる排外思想」―高校における在日朝鮮人等の生徒との出会いと、彼ら・彼女らをとりまく生徒たちの意識を通じてのー」(抄)
(学園闘争が政治的敗北に終わったという後で)「その後、私は工業高校に職を得た。その中で、一人一人の同和地区生徒・在日韓国朝鮮人生徒・両親のいない生徒による語りかけ、生きざま、「問題行動」とよばれる形での、つまりは言語化しえないけれども明確に意思を表現している負のコミュニケーションに接するようになると、「遠さ」を「遠さ」のままでおいておく意識なり感性なりが、実は入管体制を、なし崩しのファシズムの進行を支えているのだと思うようになってきた。
殊更「政治」の言葉で喋る必要はない。 Y兄弟がいた。父親が朝鮮人であるためなのか、沖縄出身の母親の私生児ということに戸籍上はなっている。兄はこの学校で創設された部落研に積極的に加わり、京都での全国(部落)奨学生大会にも出席した。学内でのその報告会において彼はこうつぶやいた。「しかし、まだエエワ。俺らの立場で、なんか運動せなアカンということは分かっとっても、その組織みたいなもん、無いからなあ」
この中から初めて私にとっての入管体制の実相が見えたといってよい。しかしそれは同時に、部落研から独立して朝文研組織を作れるつくれるような状態にない学内体制への告発としても受けとらねばならないはずだ。
だが、そのことは不可能とも言えた。教師側の無知、私たちのていたらくに加えて、生徒の中に、彼の「連れ」の中に、同和教育によって抑圧された差別意識を「朝鮮人」に回流さす層が厳然として存在するのだ。「日帝36年」は今も生きている。・・」
③ 初めて卒業生を出す
3年目、工芸科2年の担任となった。専門科の教員で担任を回し、足りない場合、普通科の教員を充てるというシステムになっていた。このクラスは芸術科の先生が1年担任だったが、病を得て私に回ってきたのだ。初めての担任だが、本当に多様な生徒がおり、鍛えられた。
定員40名のところ、退学や留年のため36名だった。うち一人親の生徒が4割、両親ともなくし祖母に養育されているものも一人いた。欠席・遅刻の生徒も多数いて、家庭訪問は欠かせない。不登校がちで、今でいう引きこもり型の生徒は吃音症だった。山が好きで、山には行くが学校には行かないという生徒もいた。あまりにも欠席・遅刻が多いので、授業をやりくりしてある生徒の家に行った。家人は「昨晩友達の家に遊びに行き帰ってきていない」という。能天気!、教えてもらってその友達の家まで行き、家族の了承を得て部屋に入ると、友達は学校に行き、彼は布団にくるまっていたのにはさすがに驚いた!
家庭の複雑さのゆえに退学を申し出た2名の生徒を引き留めることができなかったのは残念であった。ある時なんどは、杖を振り回して追いかけている男の前をD子が走っていた場面に遭遇した。DVの父親から母子共々で逃げている事情は聴いていたが、突然のことに驚いた。お引き取りいただくよう説得するのには一苦労した。
それでも34名は3年に進級し、担任はそのまま持ち上がった。5月、就学旅行で九州方面に出かけた。映画になりそうなシッチャカメッチャカな旅行であった。生徒の船室へ降りていくと何組もの麻雀グループができていたようだ。ようだというのは、喫煙の煙でかすんでいるからよく見えない(在学中に喫煙に手を染めなかった生徒はおそらく2割にも満たないだろうと思う)。芋づる式に喫煙指導の対象にするにはあまりに多数過ぎるので、他の教員も見て見ぬふりをせざるを得ないからだ。さらに夜中の枕投げは、布団投げになっていったようだ。2枚ほどの布団は屋根の上で朝を迎え、雨に濡れていた。旅館の人から教員が大目玉を食ったのは言うまでもない。犯人はわがクラスの一員だったので、私も隅の方で小さくなっていた。行程の途中で海の見える風景を見て、はしゃいで3人ほどがパンツ一丁で5月の海に飛び込んだ。門限を守らず、酒臭い息をして帰ってきたグループには思わず、頭をはつった。反発して旅館の入り口で暴力沙汰になりかねないところだった。よく帰って来れたもんだと思う。
進路が大変だった。工業高校なので、就職先との関係は安定的に築かれているが、工芸科はあまり確実にとってくれるところはない。木工会社や、古い伝統家具職人とか、技術専門校へ行く者もいるが、百貨店や警備会社というものもいる。中で一人4年制大学へ進学した生徒がいたのには感心した。紆余曲折があったのだろう、還暦後の同窓会でさもありなんと納得するような生き様の者もいたが、上述した欠席遅刻の多かった男子が、市会議員になっていたのには言葉失った・・・。
(現在は工業高校と商業高校を再編整備し、市立堺高校として、就職率の良い高校という評価が定着していると聞く。上述のようなシッチャカ メッチャカ な生徒の存在は、時代の影響だろうと思っている)
第2章 教員生活
1 堺市立工業高校
① 初めての教職 多様な生徒・教職員
1971(昭和46)年、社会人生活のスタートは、堺市立工業(定時制も併設、当時は市工と呼ばれた)の社会科教員としてであった。現在は再編改組されたが、当時は各学年とも機械科3クラス、建築・金属・工芸各1クラスの計6クラス規模であった。経済的に進学するより高校で技術・技能を身に着けたいという真面目でおとなしい生徒が多数派ではあった。しかし、学科による生徒の平均学力に相当差があること、実業高校なので学区はないが堺・大阪市内・泉州地域からきている生徒がほとんどであること、家庭事情の複雑な生徒や問題行動を繰り返す生徒も少なくないことなどが分かってきた。
授業が始まっても立ち歩く生徒、私語をやめない生徒、注意を無視する生徒などの存在にかなり神経も参った。。校外からツレを教室内に連れ込んで何食わぬ顔で授業に参加?させていたこともある。年末には吐血し胃潰瘍と診断されたが、ほどなくして回復した。
学校、生徒も時代の影響を受ける。なぜつながったのかよく覚えていないが、「べ平連」活動をしている数人のグループの存在を知り接触した。、高校生がパクられることの心配から、2回付き添ったこともある。親に黙って抜け出して集会に参加した者を、家に連れて帰ったところ、親にしばかれた生徒もいた。何もできなかった・・。
教員集団は、工業科の教員と普通科教員が、それぞれの職員室をもっており、工業科の教員が実質的な学校の意思決定の中心となり、普通科教員はその補助のように考えられていたようだ。社会科は私を入れて4名、二人の先輩教員から教育について学ばしていただいた。生徒の見方、とらえ方について、議論しあったのが、その後の私の教育観を形作ったといってよい。
② 同和教育・人権教育
特にY教諭に堺の同和教育研究会に連れまわされた結果、同和教育・人権教育の重要性を深く認識するようになった。この年1971年は、人権教育の期的な取り組みの年で、統一用紙を使いだした最初の年でもあった。受験企業の要求する書類(昔は社用紙といった)を提出させ、家の資産、親の学歴等々、およそ本人の資質・能力と関係ないことがらで、同和地区の生徒、外国籍生徒、ひとり親生徒などは、排除されていた。就職の機会均等の実現のためには、差別的な社用紙に変え、統一用紙にしましょうというのが全大阪進路保障協議会の提案であった。この動きは近畿全体に、やがて全国に広がっていった。文部省もこれを認め、全国的ひな形を示した。大阪府公立高校の教員なら、統一用紙の意義に関してホームルームで指導した経験を全員が持っているはずだ。
同和問題を勉強しながら、同時に在日韓国・朝鮮人生徒や沖縄出身生徒の問題も学んでいった。堺同研の活動を通し、堺市の小・中学校との先生とも付き合いが生まれ、後の小ー中ー高連携の下地が作られた。
● また、大学・研究職からはドロップアウトしたという鬱積感の代償からか、大阪文学学校(小野十三郎校長?)に半年?一年通った。チューターの女性がかっこよくて、学校の期間が終わっても、会合を持ち、「くんずほぐれつ」という同人誌を出した・・ご多聞にもれず、1号で終わった。
「くんずほぐれつ 特集在日朝鮮人問題」―に掲載した文章がコレ (1975年7月)
「われらの内なる排外思想」―高校における在日朝鮮人等の生徒との出会いと、彼ら・彼女らをとりまく生徒たちの意識を通じてのー」(抄)
(学園闘争が政治的敗北に終わったという後で)「その後、私は工業高校に職を得た。その中で、一人一人の同和地区生徒・在日韓国朝鮮人生徒・両親のいない生徒による語りかけ、生きざま、「問題行動」とよばれる形での、つまりは言語化しえないけれども明確に意思を表現している負のコミュニケーションに接するようになると、「遠さ」を「遠さ」のままでおいておく意識なり感性なりが、実は入管体制を、なし崩しのファシズムの進行を支えているのだと思うようになってきた。
殊更「政治」の言葉で喋る必要はない。 Y兄弟がいた。父親が朝鮮人であるためなのか、沖縄出身の母親の私生児ということに戸籍上はなっている。兄はこの学校で創設された部落研に積極的に加わり、京都での全国(部落)奨学生大会にも出席した。学内でのその報告会において彼はこうつぶやいた。「しかし、まだエエワ。俺らの立場で、なんか運動せなアカンということは分かっとっても、その組織みたいなもん、無いからなあ」
この中から初めて私にとっての入管体制の実相が見えたといってよい。しかしそれは同時に、部落研から独立して朝文研組織を作れるつくれるような状態にない学内体制への告発としても受けとらねばならないはずだ。
だが、そのことは不可能とも言えた。教師側の無知、私たちのていたらくに加えて、生徒の中に、彼の「連れ」の中に、同和教育によって抑圧された差別意識を「朝鮮人」に回流さす層が厳然として存在するのだ。「日帝36年」は今も生きている。・・」
③ 初めて卒業生を出す
3年目、工芸科2年の担任となった。専門科の教員で担任を回し、足りない場合、普通科の教員を充てるというシステムになっていた。このクラスは芸術科の先生が1年担任だったが、病を得て私に回ってきたのだ。初めての担任だが、本当に多様な生徒がおり、鍛えられた。
定員40名のところ、退学や留年のため36名だった。うち一人親の生徒が4割、両親ともなくし祖母に養育されているものも一人いた。欠席・遅刻の生徒も多数いて、家庭訪問は欠かせない。不登校がちで、今でいう引きこもり型の生徒は吃音症だった。山が好きで、山には行くが学校には行かないという生徒もいた。あまりにも欠席・遅刻が多いので、授業をやりくりしてある生徒の家に行った。家人は「昨晩友達の家に遊びに行き帰ってきていない」という。能天気!、教えてもらってその友達の家まで行き、家族の了承を得て部屋に入ると、友達は学校に行き、彼は布団にくるまっていたのにはさすがに驚いた!
家庭の複雑さのゆえに退学を申し出た2名の生徒を引き留めることができなかったのは残念であった。ある時なんどは、杖を振り回して追いかけている男の前をD子が走っていた場面に遭遇した。DVの父親から母子共々で逃げている事情は聴いていたが、突然のことに驚いた。お引き取りいただくよう説得するのには一苦労した。
それでも34名は3年に進級し、担任はそのまま持ち上がった。5月、就学旅行で九州方面に出かけた。映画になりそうなシッチャカメッチャカな旅行であった。生徒の船室へ降りていくと何組もの麻雀グループができていたようだ。ようだというのは、喫煙の煙でかすんでいるからよく見えない(在学中に喫煙に手を染めなかった生徒はおそらく2割にも満たないだろうと思う)。芋づる式に喫煙指導の対象にするにはあまりに多数過ぎるので、他の教員も見て見ぬふりをせざるを得ないからだ。さらに夜中の枕投げは、布団投げになっていったようだ。2枚ほどの布団は屋根の上で朝を迎え、雨に濡れていた。旅館の人から教員が大目玉を食ったのは言うまでもない。犯人はわがクラスの一員だったので、私も隅の方で小さくなっていた。行程の途中で海の見える風景を見て、はしゃいで3人ほどがパンツ一丁で5月の海に飛び込んだ。門限を守らず、酒臭い息をして帰ってきたグループには思わず、頭をはつった。反発して旅館の入り口で暴力沙汰になりかねないところだった。よく帰って来れたもんだと思う。
進路が大変だった。工業高校なので、就職先との関係は安定的に築かれているが、工芸科はあまり確実にとってくれるところはない。木工会社や、古い伝統家具職人とか、技術専門校へ行く者もいるが、百貨店や警備会社というものもいる。中で一人4年制大学へ進学した生徒がいたのには感心した。紆余曲折があったのだろう、還暦後の同窓会でさもありなんと納得するような生き様の者もいたが、上述した欠席遅刻の多かった男子が、市会議員になっていたのには言葉失った・・・。
(現在は工業高校と商業高校を再編整備し、市立堺高校として、就職率の良い高校という評価が定着していると聞く。上述のようなシッチャカ メッチャカ な生徒の存在は、時代の影響だろうと思っている)
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