新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

銭儲け太閤記 でたらめな秀吉伝説 箱根の関所は出入国管理所だった

2019-06-03 12:18:57 | 古代から現代史まで
 
      銭儲け太閤記
 
 (注)昔は中国から輸入した銅や鉄製の粗悪な貨幣が全国に流通していた(これをビタせんという)。戦国期は銀が主流で秀吉は日本に多く産出した金を貨幣として流通させようとしたが、 失敗した。だから家康は江戸幕府を開いた際、箱根以東は金本位で一両は四朱、一朱は四分と四進法。 箱根以西は銀本位制で十進法を採用。だから一般の庶民は「銭、銭」と言い「金儲け」などとは言わなかったのである。   現代でも「守銭奴」とか、北島三郎の歌に、漁師が「銭の重さを数えても」とあるくらいである。後段に「箱根の関所の役割」を記したので併せて読んで頂きたい。
 
 
 
      でたらめな秀吉伝説
秀古は金儲けの生れつきの天才である。 が、講談では武勇抜群の豪傑が天下をとるようになっている。個人の腕力などは知れたもので、今も昔も金作りが巧くてガバつと儲けて分配する者でないと天下はつかめない。 なのに俗にいわれる秀吉伝説ときたら、金儲けにはふれず、まことしやかな嘘ばかりである。 たとえば…………  秀吉は尾張中村の百姓弥右ヱ門の子で、弥右ヱ門は以前織田信長の鉄砲足軽をしていた。  そして秀吉は顔がサルに似ていたから、幼名を小ザルとよばれたり、日吉権現のお使いがサルといわれたから、日吉丸ともよばれていた。などとする…………だから。  「少年のころに家出して、武家奉公を志し、遠江と当時よばれた静岡へ行き、今川義元幕下で久能城主をつとめていた松下加兵衛につかえた……これらのことは豊臣太閤素状記という本にもでている」 などと、嘘ばっかりである。
 
 
「さて秀吉は、九州征伐の終わった天正十八年に、松下を三万一千石の大名にして報恩した。利害関係でのみ結びついている戦国時代の主従の美談として、心あたたまるものがある」というの は、日本史探訪にでる国学院教授某の本である。そして、「秀吉は、忠君愛国の精神の持ち主だった。聚楽第をたてるや、後陽成帝をお迎えしたほどである」というのは、戦前の旧制高校の教科書にされていた黒板勝美著『国史通論』の一節である。  ほかもまあ似たり寄ったりだが、これらは、どれもみなうそっぱちなでたらめなのである。どうして、こんないいかげんな話が生まれたかといえば、幕末にでた、『絵本太閤記』のたぐいをそのままうのみにしたためだろう。
 
 これはつまり『西遊記』をよんで、かっての中国には、「孫悟空とよぶ、サル面の豪傑がいた」と信じたり、 「猪八戒なる白ブタの大勇士もいた」と本当にするようなものであるらしい。
 つまり、お話というのはおもしろければよろしく、針小棒大。いろいろエスカレートする。 そうしたお話では耳の中へしまいこんでいた小さな鉄棒を、ワンタッチで大きくして振り回してもよいが、ほんとうの事実なるものはそうではないのである。  さて、江戸時代に、「士、農、工、商」といった分類の仕方をしたから一般の大衆つまり侍でない者は、みな百姓だったとするようだが、実際はそういう事はありえなかった。  封建時代にあっても田畑をもつ者しか耕せなかったのが実情。 では秀吉の生家はなんであったかといえば、木こりかまき売りだった。
 通説の、父が鉄砲足軽だったというのも、これまたうそらしい。  なぜかというと、鉄砲伝来は天文十二年(1543年)で、これが九州でも大友家で武器として採用しだしたのは、天文二十年と記録に残っている。 だから尾張まで伝わってくるには、それから五年ぐらいはかかろう。  となると秀吉が二十歳のころの時代になる。  それでは子どものときに死別した弥右ヱ門が、鉄砲足軽であるわけはない。それから、当時、  「遠江」とよばれたのは今の静岡ではなく、浜松市である。
 
  駅前のバスにのって「頭陀寺」へゆくと、昔の小さな城あとは、今では幼稚園になっているが、 その向こうのたんぼの中に畳四枚ほどの竹やぶがあって、「松下加兵衛屋敷跡」の棒杭がある。  秀吉が奉公していたのは、ここに頭陀寺十二坊という薬師寺派の大きな僧院がめったころで、 松下は今でいえばその僧院のガードマンのボスだった。さて、であるからして、  (浜松はそのころ、今川の勢力範囲だから、その家来だったろう)というのも早とちりである。  のちの浜松城はそのころの引馬城の飯尾豊前守は、今川の幕下にあったが、松下は宗旨違いで直接の家来ではない。薬師寺の寺侍の大将のようなものだから、サラリーは寺から貰っていた。  そこで桶狭間合戦で織田信長のため、今川義元が討たれたの後のことだが、「手引きして殺させたのは飯尾らしい」と疑われた豊前守が、
「私ではありもうさん。宗旨違いの松下が怪しいのでござる」と、頭陀寺を襲って焼いてしまった。そこで松下は久能山へ逃げこんでいたが、 「あだを討たして下され」と、徳川家康に仕えてから、今川義元の子の氏真を攻めた。  それゆえ、のち秀吉から久能山の三千石は貰ったが、すぐ家康へこれを提供し、その隠居所にして貰い、関ヶ原合戦でも家康側にたって豊臣を攻めている。 この方が本当なのである。
 
 
 松下と秀吉との関係は実際はこういうところだから、前述の歴史家のとく説はみな事実誤認としかいいようがないようである。  また、秀吉が勤皇だというのも、おへそでお茶をわかしたいような話である。 (注)明治新政府の高官といっても、下賤の出が多く、ろくに歴史も知らず、「豊臣は反徳川だから勤皇だったろうと」 正一位の追位をしているぐらいのものである。          そのころ、奈良興福寺多聞院に、英俊和尚とよぶ筆まめな人がいて、毎日々々のことを日記につけていた。今も伝わっているが、その中にも、 「正親町天皇の皇太子誠仁親王さまが、ハシカにかかって一日でなくなられたというが、三十五歳の親王が子どもの病気で死なれるはずはない。 秀吉に殺されたか自害されたのだろう。かねて秀吉は自分は前帝と持萩中納言の娘の間に生まれた正統な皇位継承者だ、といいはって居るから して、これで次の帝はもはや、秀吉に決まったようなものだ」と書いている。  また秀吉は恐れ多い話だが、
「自分はこんな古くさくむさい御所をつぐ気はないから、聚楽第とよぶのをこしらえる」  と、大阪万博なみの規模をもつのを、京のまん中の十丁四方の人家を強制的に取りこわして建設にかかった。 そこで正親町帝が無念がられて、「あんなやつに皇位を奪われるのは、まことに残念である」  と絶食して自害なさろうとハンスト始められた、ところが秀吉は御所へのりこみ、
「こら女官どもッ、おかみの口をこじあけてでも、何かを食していただかんと責任はそのほうらに及び、みな丸裸にして御所の外塀へぶら下げるぞ」とおどかした。  びっくりした女官たちは、ヒイヒイ泣き叫んで、むりやりに帝に重湯をすすめ奉った。  さて、秀吉は強引に帝位を奪うわけだったが、死んだ誠仁親王の亡霊がでて、落雷や火事が各所に起き、自分の命もあぶなかろうと、公卿の山科言経らにおどかされ、 「それでは困る」と、やむなく誠仁親王の忘れ形身の後陽成帝を御位につけ、 (本来ならば、ここが新御所になるわけでしたが、これまで付けてはあげられません。
 
ただ見せて上げるだけですよ)  と天正十六年(一五八八)四月十四日から五目問、ご滞在を願っただけの話。こんな勤皇のしかたがあるのだろうか。つまり、これまでの秀吉伝説は、 正確な史料からすると、みなデタラメなのである。まやかしに過ぎない。  秀吉は、ただ希代な銭儲けの天才みたいな男で、それで巧く金で、天下をとったのにすぎない。  といって、それは悪いというのではない。今でも、儲けのこつは、それはおおいに利用できるだろうからである。
                箱根の関所     「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際の PR用の宣伝唱歌なのである。江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」で、 険は険でも、権力の権で、つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。 日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。  そして余分を持っていれば没収されたものである。  箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
 
  日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前  「手形の由来」に記したが、此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。  そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、  豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。  さて有名な春日局は前の夫、稲葉正盛との間に産んだ子供、稲葉正勝を可愛がっていた。 そこで我が子可愛さのあまり、ここ小田原十万石の城主だった大久保忠隣を除封し、阿部正次を藩主にさせた。 これはいきなりやるのもえげつないので阿部はクッションの役目で、その後春日局は家康に頼んで四年目に吾が子稲葉正勝を小田原城主にさせている。 これは小田原が管轄する箱根の関所は膨大な金銀没収ができ莫大な利益があればこそである。
 
  そて、 江戸時代の刃傷第二号は、貞享元年(1684)八月二十八日。  春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺した。稲葉はその前日、  「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、  自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。  にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産を独り占めとは怪しからん。ゆえにわしは成敗してくれる」と、父正則の代からの家老どもを呼んで、  頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、  「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、 遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、自分も寄ってたかって斬り殺されている。  つまり殿様が危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代わり殿も、  「家来が困らぬように責任を持つこと」といったのが、誠の武士道精神であった。                    まわし」とは相撲の褌ではない    さて、こうした訳で三島の宿場は次々と散財する泊まりの遊び客で大繁盛し、また大混雑だった。  だから女郎衆も客から客へといそがしくマワシを取るとも言えないから客には「お化粧直しに一寸」といって  別の客の男のところへ行ったから、現代でも唄に残っているように「三島女郎衆は化粧が長い、化粧が長けりゃノーエ」の唄になって伝わっている。   余談になるが昭和三十年、四十年代のキャバレー華やかし頃も、大店となればホステスは在籍300人とか、800人以上もいて、 売れっ子ともなれば客の指名でホールを忙しく走り回っていた。 この時も彼女たちは別の客から指名が入ると「一寸おトイレに」(オトイレを音入れにもじって「録音してきます」等と言っていた女も居た)と言って席を離れたもので、 粋人の客は、遊び慣れているので、 マワシをとられているのが分かっても大様に構えていて、野暮は言わなかったものである。これを「粋な男の痩せ我慢」という。  
 

日本民族は「蛮族」ではない 百済人が唐国の傭兵となる 薩摩と琉球、唐国の関係 「サンカ解釈の間違い」

2019-06-03 10:03:42 | 古代から現代史まで

日本民族は「蛮族」ではない

「サンカ解釈の間違い」

 百済人が唐国の傭兵となる

 薩摩と琉球、唐国の関係

 

掲載の地図を見て頂ければ解るように、近頃何かと日本に対して問題を起こしている韓国の古代は三韓に分かれて、激しく対立していた歴史がある。 朝鮮半島の国家形成史を見ると、日本の弥生時代には、箕氏朝鮮が成立していた。 ついで後述するが、馬韓、弁韓、辰韓と三韓時代を経て新羅ができ、次に高麗と続き日本の室町、戦国、江戸時代にかけて李氏朝鮮となる。 朝鮮半島国家は古来より争い多く、中国から冊封を受け続けその属国の時代が長かった。 明治四十三年、日本が大韓帝国を併合するが、大東亜戦争に負けるまでの三十五年間は実質「日本国」だったのである。

さて、現在はおこがましくも朝鮮民主主義人民共和国を名乗っているが、金日成、金正日、金正恩と三代続く、 独裁国家王朝とも謂うべき北朝鮮になっている高麗は、日本の古墳時代にあたっては(弁韓)と呼ばれていた。 朝鮮南部にあって中国に面していた百済は(馬韓)で、日本海に面していた新羅は(新韓)となっていた。

現在の高麗は(平安堂、黄海道、戍鏡道)となっていて、北朝鮮の版図。新羅は(慶尚道)、百済は(全羅道)となっていて韓国の版図になっている。 そしてかって韓国では光州事件があって、慶尚道出身の全斗換大統領が全羅道出身の金大中大統領を逮捕し、後に特赦されたが死刑判決を出したことがあった。 日本の奈良時代は実質百済が日本に君臨していた当時は、新羅系を「蛮族」として扱い討伐したのである。 今でも「クダラないやつ」「クダラないことを言うな」とよく使われるほど、当時の百済勢力は、新羅系、高麗系は勿論、海洋渡来系民族にも過酷な政策で君臨していたことの証拠である。 「クダラにあらざれば人にあらず」とばかり、日本人を虐めたのである。 韓国は、歴代大統領は全てと云っていいほど次の体制から糾弾されている。これは現代に至るも三韓時代争いが続いていると見るべきだろう。 だから先述した全大統領と金大統領の争いも百済と新羅の争いが現代にも影響しているのである。 現在はその頃の仇討であり内ゲバだといっていい。

さて、こうして百済によって「蛮族」として討伐され、追われて山に逃げ込んだ新羅系をサンカとした説がまかり通っている。 また、かつての言語相似によった安田徳太郎説も、サンカは陸路日本流入説で、ネパール周辺のカピヴァストウ人に、インドのサカ族が混じり合って南下してきたから、 これがサカより来たからサンカとなったとします。  そしてマウリア王朝滅亡の後で黒海方面より北西部を支配したものの、やがてサカ族は衰運を辿り、その王族の一人の釈迦のとく仏教を宣伝尖兵として北東方へ民族の大移動をなしたとします。

 またサンカをインド語のサンガー派仏教布教師や、アラブのサーングー社の奉仕大よりとする説もありますが、アラブからシルクロードを通って地球を横断のコースを辿ったなどというのは妄想である。  よって常識的にアラブやインドを通っての陸路ではなく、海路、即ち黒潮に運ばれてきたとみるなら、山の民の彼ら山窩などに、生魚が常食で水田耕作のできる古代海人族がなる筈はなく、単なる語呂合せとみざるをえません。  戦勝国唐軍進駐によって母国を失った百済軍団が、生き残るため唐に帰化帰順してクシャトリア(戦士)として、 傭兵団になり藤原王朝御抱え軍団となりますが、後の武士団の発生は絶対に彼等ではありません。「蛮賊」として彼らに追われ山へ匿れた新羅高麗系がそれで、十一世紀初頭からの人間狩りで、 防人としてで九州へやられ、そこで実戦をくり返し、十二世紀の源頼朝の文治革命をへて武士階級は確立されるのです。

 

 江戸時代に「源氏屋」といえばアイマイ屋とか千三つ屋といったような差別をなしたのも、こうした過去の来歴があったればこそで、「山窩と源氏武士は同祖同類」とみられていたからなのです。  そして古代海人族はアとかアミと呼ばれ、「アミ元」に人頭税を払って漁業製塩業の塩尻になったか、奴百姓とされて年貢米納入課役を強制されて、どうにか生かしておいて貰えて今日になったのでしょう。 奴隷となってもご先祖様たちは頑張って子孫を増やしたので、現在も、サンカ系日本人や、海洋渡来系日本人の数は多く、人口の七割から八割を占めている。

次に薩摩藩を例に高麗と中国の関係を考察してみる

  江戸時代、全くお国替えの無かった土地は幾つかある。  仙台、加賀、長州藩などだが、何といっても関が原で負けたのに減封もされず幕末まで其の儘だった代表格は薩摩藩である。   現代と違って江戸時代は日本を大和民族一つ、即ち単一民族とは徳川幕府も見ていなかったから、別個の他民族が多い土地へ大名を移しては反乱が多く、統治不能との配慮からなのである。   薩摩は朝鮮の三韓時代、即ち高麗(弁韓)、百済(馬韓)、新羅(新韓)から朝鮮半島に近い土地ゆえ、百済系住民の多い土地だという歴史書もある。

しかし<大宝律令>時代には年間200人もの壮丁を御所は貢進させ、儀式の時には御所の門外に彼らを 四つん這いにさせワンワン吠えさせて、今の楽器の代わりともいう鳴物代わりの役を命ぜられていた、 という 記録もあるし、高麗系住民は藤原系(中国の唐)の体制から、後に蛮族として反体制部族として扱われてもいたのだから、高麗系が正しい。   毎年200人からの薩摩人がこの後どうするかと言えば、当時の大陸系体制である御所が、旅費や日当を払ってくれる筈も無く、楽器代わりの使役が終わると彼らは無常にも放り出され、 故郷である薩摩へ乞食のように途中物乞いをしながらでも必死に帰って行ったのである。

これが毎年のことだからすっかり習い性というか、遺伝子に組み込まれてか、後年、島津勢は関が原で、西軍敗退と聞くや味方陣地の中を強行突破で、必死猛死に薩摩へ帰っている。 強烈な帰巣本能である。  この時徳川家康は「薩摩ホイトは勘弁ならん」と怒り、島津家の取り潰しを考えていたらしいが、前述のように高麗系住民の住む場所は薩摩だけではなく、日本各地に多く、彼らが一致団結して反徳川に回るのは 得策でないと諦めた経緯がある。  さて、薩摩の高麗焼き陶器を、秀吉の朝鮮出兵の折、島津家久が連れ戻ってきた帰化朝鮮人達の子孫の作であると 発表している歴史書もあるが、高麗焼きというのはずっとその前から島津家のお家芸なのである。

 

そして薩摩の唐国即ち大陸嫌いは筋金入りで、その理由は薩摩の本国、即ち高麗が唐国によって滅亡させられたからである。  なしろ唐によって朝鮮半島全部が席巻されるまでは、陳や隋の時代の頃に大陸から薩摩半島に漂着した者も多く、それらの者たちを沖永良部や各離島へ送り込み、 ずっと子孫末代まで薩摩の奴隷として使役していたのは有名である。  また沖縄の「久米の子」の子孫が「さしの側」として守護していた中山王の琉球王朝を攻め、圧政を敷いていたのも琉球が中国系とみての仕返し、意趣晴らしの感がある。  

徳川綱吉の神仏混合令発布以降、島津家は自国領内に止む無く曹洞宗やその他の寺院の建立は許可したが、日本の仏教の本元とも云う「一向宗」の本願寺派だけは、説教僧を送り込んでくるからとの理由で、 江戸期は勿論明治なっても薩摩入国は絶対不許可だった。

 また後年、「薩摩木綿」の名称で、中国や朝鮮産の布地を、日本で国産品が出回る様になったが、それは家康の開いた江戸幕府初期の頃で  薩摩は一手販売で儲けていたのを、一向宗が綿の木を輸入して、日本原住民を仏教に転宗した者たちにのみ紡がせ織らせたから、   薩摩木綿が売れなくなり、ゆえに一向宗を特に憎んだという説もある。   薩摩は王朝時代は軽蔑されて高麗狗とさえ扱われ「さつまほいと」と差別されていた怨念が先祖伝来染み付き、  鹿児島の小原郡西国分町駅の西側にある古墳は、今でこそ「隼人塚」と呼ばれているが、昔は「ホイト塚」だったそうである。   しかし薩摩は明治維新の一方の雄となり、勝てば官軍である。そんな恰好の悪い呼び名を許すはずも無く、  明治以降は「薩摩隼人」は蔑称ではなく、勇ましい美名と今は変わっている。