日本民族は「蛮族」ではない
「サンカ解釈の間違い」
百済人が唐国の傭兵となる
薩摩と琉球、唐国の関係
掲載の地図を見て頂ければ解るように、近頃何かと日本に対して問題を起こしている韓国の古代は三韓に分かれて、激しく対立していた歴史がある。 朝鮮半島の国家形成史を見ると、日本の弥生時代には、箕氏朝鮮が成立していた。 ついで後述するが、馬韓、弁韓、辰韓と三韓時代を経て新羅ができ、次に高麗と続き日本の室町、戦国、江戸時代にかけて李氏朝鮮となる。 朝鮮半島国家は古来より争い多く、中国から冊封を受け続けその属国の時代が長かった。 明治四十三年、日本が大韓帝国を併合するが、大東亜戦争に負けるまでの三十五年間は実質「日本国」だったのである。
さて、現在はおこがましくも朝鮮民主主義人民共和国を名乗っているが、金日成、金正日、金正恩と三代続く、 独裁国家王朝とも謂うべき北朝鮮になっている高麗は、日本の古墳時代にあたっては(弁韓)と呼ばれていた。 朝鮮南部にあって中国に面していた百済は(馬韓)で、日本海に面していた新羅は(新韓)となっていた。
現在の高麗は(平安堂、黄海道、戍鏡道)となっていて、北朝鮮の版図。新羅は(慶尚道)、百済は(全羅道)となっていて韓国の版図になっている。 そしてかって韓国では光州事件があって、慶尚道出身の全斗換大統領が全羅道出身の金大中大統領を逮捕し、後に特赦されたが死刑判決を出したことがあった。 日本の奈良時代は実質百済が日本に君臨していた当時は、新羅系を「蛮族」として扱い討伐したのである。 今でも「クダラないやつ」「クダラないことを言うな」とよく使われるほど、当時の百済勢力は、新羅系、高麗系は勿論、海洋渡来系民族にも過酷な政策で君臨していたことの証拠である。 「クダラにあらざれば人にあらず」とばかり、日本人を虐めたのである。 韓国は、歴代大統領は全てと云っていいほど次の体制から糾弾されている。これは現代に至るも三韓時代争いが続いていると見るべきだろう。 だから先述した全大統領と金大統領の争いも百済と新羅の争いが現代にも影響しているのである。 現在はその頃の仇討であり内ゲバだといっていい。
さて、こうして百済によって「蛮族」として討伐され、追われて山に逃げ込んだ新羅系をサンカとした説がまかり通っている。 また、かつての言語相似によった安田徳太郎説も、サンカは陸路日本流入説で、ネパール周辺のカピヴァストウ人に、インドのサカ族が混じり合って南下してきたから、 これがサカより来たからサンカとなったとします。 そしてマウリア王朝滅亡の後で黒海方面より北西部を支配したものの、やがてサカ族は衰運を辿り、その王族の一人の釈迦のとく仏教を宣伝尖兵として北東方へ民族の大移動をなしたとします。
またサンカをインド語のサンガー派仏教布教師や、アラブのサーングー社の奉仕大よりとする説もありますが、アラブからシルクロードを通って地球を横断のコースを辿ったなどというのは妄想である。 よって常識的にアラブやインドを通っての陸路ではなく、海路、即ち黒潮に運ばれてきたとみるなら、山の民の彼ら山窩などに、生魚が常食で水田耕作のできる古代海人族がなる筈はなく、単なる語呂合せとみざるをえません。 戦勝国唐軍進駐によって母国を失った百済軍団が、生き残るため唐に帰化帰順してクシャトリア(戦士)として、 傭兵団になり藤原王朝御抱え軍団となりますが、後の武士団の発生は絶対に彼等ではありません。「蛮賊」として彼らに追われ山へ匿れた新羅高麗系がそれで、十一世紀初頭からの人間狩りで、 防人としてで九州へやられ、そこで実戦をくり返し、十二世紀の源頼朝の文治革命をへて武士階級は確立されるのです。
江戸時代に「源氏屋」といえばアイマイ屋とか千三つ屋といったような差別をなしたのも、こうした過去の来歴があったればこそで、「山窩と源氏武士は同祖同類」とみられていたからなのです。 そして古代海人族はアとかアミと呼ばれ、「アミ元」に人頭税を払って漁業製塩業の塩尻になったか、奴百姓とされて年貢米納入課役を強制されて、どうにか生かしておいて貰えて今日になったのでしょう。 奴隷となってもご先祖様たちは頑張って子孫を増やしたので、現在も、サンカ系日本人や、海洋渡来系日本人の数は多く、人口の七割から八割を占めている。
次に薩摩藩を例に高麗と中国の関係を考察してみる
江戸時代、全くお国替えの無かった土地は幾つかある。 仙台、加賀、長州藩などだが、何といっても関が原で負けたのに減封もされず幕末まで其の儘だった代表格は薩摩藩である。 現代と違って江戸時代は日本を大和民族一つ、即ち単一民族とは徳川幕府も見ていなかったから、別個の他民族が多い土地へ大名を移しては反乱が多く、統治不能との配慮からなのである。 薩摩は朝鮮の三韓時代、即ち高麗(弁韓)、百済(馬韓)、新羅(新韓)から朝鮮半島に近い土地ゆえ、百済系住民の多い土地だという歴史書もある。
しかし<大宝律令>時代には年間200人もの壮丁を御所は貢進させ、儀式の時には御所の門外に彼らを 四つん這いにさせワンワン吠えさせて、今の楽器の代わりともいう鳴物代わりの役を命ぜられていた、 という 記録もあるし、高麗系住民は藤原系(中国の唐)の体制から、後に蛮族として反体制部族として扱われてもいたのだから、高麗系が正しい。 毎年200人からの薩摩人がこの後どうするかと言えば、当時の大陸系体制である御所が、旅費や日当を払ってくれる筈も無く、楽器代わりの使役が終わると彼らは無常にも放り出され、 故郷である薩摩へ乞食のように途中物乞いをしながらでも必死に帰って行ったのである。
これが毎年のことだからすっかり習い性というか、遺伝子に組み込まれてか、後年、島津勢は関が原で、西軍敗退と聞くや味方陣地の中を強行突破で、必死猛死に薩摩へ帰っている。 強烈な帰巣本能である。 この時徳川家康は「薩摩ホイトは勘弁ならん」と怒り、島津家の取り潰しを考えていたらしいが、前述のように高麗系住民の住む場所は薩摩だけではなく、日本各地に多く、彼らが一致団結して反徳川に回るのは 得策でないと諦めた経緯がある。 さて、薩摩の高麗焼き陶器を、秀吉の朝鮮出兵の折、島津家久が連れ戻ってきた帰化朝鮮人達の子孫の作であると 発表している歴史書もあるが、高麗焼きというのはずっとその前から島津家のお家芸なのである。
そして薩摩の唐国即ち大陸嫌いは筋金入りで、その理由は薩摩の本国、即ち高麗が唐国によって滅亡させられたからである。 なしろ唐によって朝鮮半島全部が席巻されるまでは、陳や隋の時代の頃に大陸から薩摩半島に漂着した者も多く、それらの者たちを沖永良部や各離島へ送り込み、 ずっと子孫末代まで薩摩の奴隷として使役していたのは有名である。 また沖縄の「久米の子」の子孫が「さしの側」として守護していた中山王の琉球王朝を攻め、圧政を敷いていたのも琉球が中国系とみての仕返し、意趣晴らしの感がある。
徳川綱吉の神仏混合令発布以降、島津家は自国領内に止む無く曹洞宗やその他の寺院の建立は許可したが、日本の仏教の本元とも云う「一向宗」の本願寺派だけは、説教僧を送り込んでくるからとの理由で、 江戸期は勿論明治なっても薩摩入国は絶対不許可だった。
また後年、「薩摩木綿」の名称で、中国や朝鮮産の布地を、日本で国産品が出回る様になったが、それは家康の開いた江戸幕府初期の頃で 薩摩は一手販売で儲けていたのを、一向宗が綿の木を輸入して、日本原住民を仏教に転宗した者たちにのみ紡がせ織らせたから、 薩摩木綿が売れなくなり、ゆえに一向宗を特に憎んだという説もある。 薩摩は王朝時代は軽蔑されて高麗狗とさえ扱われ「さつまほいと」と差別されていた怨念が先祖伝来染み付き、 鹿児島の小原郡西国分町駅の西側にある古墳は、今でこそ「隼人塚」と呼ばれているが、昔は「ホイト塚」だったそうである。 しかし薩摩は明治維新の一方の雄となり、勝てば官軍である。そんな恰好の悪い呼び名を許すはずも無く、 明治以降は「薩摩隼人」は蔑称ではなく、勇ましい美名と今は変わっている。