江戸時代剣術試合はなかった
剣術試合の始め
剣術試合はなぜ起こったのか
藤田東湖の影響
「剣術」といえば、双方が向き合い互いに木刀や竹刀をもって、叩き合いをする試合が、昔からあったように誤られているが、そんなことはない。 幕末に頼山陽のごとく、その子の頼美樹三郎が勤皇の志士として獄死したため、その余栄をもって明治時代には、絶大な信用を博してしまった。 このことを利用して、通俗史家が、「本朝編年史」を焼き直しした「日本政記」や、講談本本的内容で親しみやすく面白いからと、多くの人に広まった「日本外史」のごとき、 通俗史的読物の類が多く残され、後世を誤らせている。が、その一方では、安政二年十月二日の江戸大地震で圧死した藤田東湖のように、本当の事を書き残しおいてくれ、そのため 後世に益しているものもある。その東湖著の「回天詩史」によれば、
藤田東湖の「回天詩史」と「常陸帯」
「試合剣術と袮して、双方向きあって木剣や竹刀で、お面お小手をやり出したのは、幕末の文政二年(1819)からの事で、水戸へ戸が崎熊太郎が乗りこんできて、 撃剣なるものを門人相手に披露したときには、水戸の侍たちは物議騒然として、これを罵りかつ嘲った」というのである。
そしてまた、水戸で試合剣術が初めて行なわれたのは、江戸上屋敷にいた杉山子方が、その子の子元を岡田十松の撃剣館へ入門させたのが初めてで、藤田東湖が十四歳で習いだしたのが、 その文政二年だとある。つまり、水戸の武士というと、この四十五年後には天狗党の旗上げをしているため、昔から、剣術が盛んだったようにも思われがちだが、実際はこの後、 戸が畸熊太郎が五十俵で改めて招かれ、それから流行しだしたのであり、それが筑波山の旗上げへとなっていったものらしい。
さて藤田東湖はまたその著の「常陸帯」の中で、水戸へ試合剣術が持ちこまれてきたときに、
なぜ水戸家中の侍たちが、こぞってこれを嘲笑し非難したがという点に関して、身体髪膚これをみな父母に受く。あえて傷つけざるが孝行の始めなりとも教えられていたが、武士というものは殿さまより、丸抱えにして扶持を頂いているのゆえ、 自分の身体は自分のものであって、自分のものではないと考えるのが士道であった。だから戸ガ綺熊太郎やその門弟のような、主君持ちでない百姓上がりの非武士ならば、 殴り合い、叩き合いなどで怪我をしても、差し支えはないだろうが、なみの者つまりご扶持を賜わっている身分の者がそんな馬鹿げた真似ができるものかというので、戸が崎たちは、 撃剣を教えにきたが追い返されたのである。これは水戸だけが頑迷であったのではなく、どこの家中でも試合剣術などは、弓槍と違って卑しめられ、もって士道に悖るものとして、始めは排撃されたのである」と士道のあり方においてこれを説明している。
武士の刀は「公刀」
しかし、ここに抜け落ちている事がある。藤田東湖にすれば、そんな事は判り切っているから書かずもがなのことと説明しなかったのだろう。 が、今日では無責任な講談や大衆小説に、歴史の方が引きずられてしまっているから、有耶無耶どころか、まるっきり誤り伝えられている。というのは、かつて豊臣秀吉が朝鮮征伐の前に国内の治安維持強化のため、「刀狩り」を断行し庶民の帯刀を禁止した時点から、 武士の刀というものは、「公刀」の扱いになったのである。
つまり扶持を貰っている主君を防衛する目的で、刀は公務として差す事になったのである。 これは岩波文庫にもはいっている大道寺友山の「武道初心集」の中にも、「刀というはすぐ折れたり曲がったりして使い物にならぬから、なるべく戦場には持って出るな。 どうしても用いたくば差し控えを家来や馬の口取りに帯びさせろ。そして家来は若党や小者にささせてゆくべきである」と言い、家来はみな移動刀架けであるというのが出ている。
映画や芝居では毆さまの佩刀は背後の小姓が捧げもっようになっているが、実際は家来全部の帯びている刀が、もしものときの毆さまのスペア刀になるのである。そこで、「刀は武士の魂」というのは何も精神的な話ではなく、刀をさしている者はいつ何時でもそれを毆に渡せるよう心がけておらねばならぬのだから、 それについての心構えを言ったものであり、また武士は、刀をさしているからして扶持が頂け食してゆけるのだから、そうしたところで刀は武士の糧といった意味合いにもなる。
さて、武士の帯びる刀が、公刀であるという性質から、(殿の命令がなくては私に抜刀してはならぬ)という不文律が、ここに生まれてくる。 江戸時代に私闘が厳しく処罰されたのは、公刀を気ままに、私用に抜き放ってはいかぬからで、
「仇討免許状」という、大衆小説やそれを基にした映画の内容が流布されているが、007の「殺しのライセンス」じゃあるまいし、あれは嘘である。 本当は、殿様が出した「抜刀許可証」なので、内容は「この者が貴領地において、抜刀するのは〇〇の許可があってのもので、よしなに取り計らいたい」 という免許証だったのである。
また、「殿から何々の銘刀を拝領」というのも、万一のときにはこれを差し控えに用いるからお前に預けるという意味であって、刀を与えるという物質的な褒美ではない。 これから側近くに仕えさせてやるという恩恵の沙汰なのである。そこで、そうした刀を渡された者は、貰った物なら質へ入れても売ってもよいはずなのに、 あくまで大切に保管していたのである。つまり、鯉口三寸抜いたらお家は断絶、身は切腹というのは、大名といえども将軍家の家来で、刀架けの立場だったから、それへの罰則だったし、 その大名もやはり、己が家来へ課していた私用抜刀禁止の武家社会の法律であった。
そこで武士たる者は刀はさしているが、百姓上がりの剣術使いのごとく、やたらに抜けはしなかったし、また、絶対に許しがなくては斬り合いなど出来ぬというタブーかあるのにかかわらず、 「試合剣術」を持ちこんできたからして、不届きであると戸ガ綺熊太郎たちは、最初は水戸から追放されてしまったのである。
では、何ゆえに、それがほどなく解禁というか、幕末の撃剣ブームになったかといえば、天保十一年清国では阿片戦争か起き、 「あの大国の清が白人国家に負けた」という情報に幕府は危機感を覚えたからである。だから、その二年後公儀より各藩へ海防の厳命が通達されたが、 硝石の解禁は出なかったことによる。
つまり、日本では鉄砲が舶来するとすぐ精巧な和製銃も作られたか、黒色火薬の七十五パーセントを占める大切な硝石を採掘できる鉱山がなく、 従って鉄砲に必要な火薬はもっぱら外国からの輸入に頼っていた。 だから、徳川家が鎖国の令を出したのも、切支丹禁止のためというのは表向きの政治的発表であって、硝石を他の大名が入手して天下を覆すなどということのできぬよう治安維持の必要上から、 幕府だけが長埼出島において独占輸入していたのである。
天保八年の大塩平八郎の蹶起は、徳川家が大坂方面の貯蔵硝石庫の鍵を、出先機関である大坂町奉行所天満与力に与えていたから、彼は職掌柄火薬を自由に使い、乱を起こすこともできたのである。 さて、この乱にこりたためか、列強が頻繁に日本に開国を迫る時節、徳川家は海防布令は出したものの、硝石の方は放出しなかった。 そこで各大名家は、大東亜戦末期のアッツ島やサイパンで玉砕した日本軍の司令官のように、「鉄砲はあっても弾薬がなくては射てず、役に立たない。かくなる上は、 斬りこみ隊でゆくしか他あるまい」となって、このため、みな大名家は、藩内に俄作りの道場や訓練所を作って、ここに初めて、試合剣術とか撃剣といったものが、公認されだし、流行しだしたのである。
つまり上士というか家柄の高い武士は、藤田東湖が書き残したように、きわめて保守的で、(やたら刀を抜き斬り合うのは士道に反する)という抜きがたい昔からの伝統精神があって、急場の戦力には間に合わないので、足軽クラスや郷士の若者などといった連中を集めて、速成で稽古をさせたのである。
そこで、こうなると、それまでは農家の百姓の二男三男に、草相撲ならぬ草剣術を教えていた連中が、今こそわか世の春とばかり、「出世したい者は当道場へきて入学金を払え」と、 募集広告するため生まれたのが、天保版「本朝武芸小伝」の類であるが、権威をもたせるために、「当流は由緒正しく、戦国時代の何某から始まったものである」式の箔をつけて誇張した。 新選組の近藤勇や土方歳三たちも、草深い日野から、「天然理心流」を由緒ある古武道だと宣伝して、江戸へ出られのもこの訳である。
そしてこういった類は今でいえば、「各種学校入学手引き」のような木版刷りのものゆえ、明治になっても多く残っていた。ところが明治九年の公刀佩用禁止令がでていらい、剣術はすたれてしまい、わずかに見世物としてしか使用されなくなったのに、 山田次郎吉あたりが発憤して、「権威あるものとして復活させるため」にはと、 やむをえず「撃剣叢談」あたりを信頼できるものとして、さも戦国時代から剣豪がいたように世に伝えた。
これが名著といわれる大正十四年刊の「日本剣道史」なのである。そこで上泉村生まれの上泉伊勢守信綱も、後に戸沢山城守白雲斎あたりと共に、「立川文庫」の立役者にされてしまったのである。 こうした訳で、剣豪や剣術ファンには申し訳ないが、現実は厳しくそんなに面白おかしくはないのである。
現在日本中に剣道所があり、柔道と双璧を成す日本武道である。この剣道は姿勢もよくなるし、反射神経も鍛えられ、体にはよい運動である。 だから、こうした歴史の真実を頭に入れて励んで頂きたいものである。