新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

江戸時代剣術試合はなかった 剣術試合の始め剣術試合はなぜ起こったのか 藤田東湖の影響

2019-06-11 09:59:46 | 新日本意外史 古代から現代まで
江戸時代剣術試合はなかった
剣術試合の始め
剣術試合はなぜ起こったのか
藤田東湖の影響
 
 
 
「剣術」といえば、双方が向き合い互いに木刀や竹刀をもって、叩き合いをする試合が、昔からあったように誤られているが、そんなことはない。 幕末に頼山陽のごとく、その子の頼美樹三郎が勤皇の志士として獄死したため、その余栄をもって明治時代には、絶大な信用を博してしまった。 このことを利用して、通俗史家が、「本朝編年史」を焼き直しした「日本政記」や、講談本本的内容で親しみやすく面白いからと、多くの人に広まった「日本外史」のごとき、 通俗史的読物の類が多く残され、後世を誤らせている。が、その一方では、安政二年十月二日の江戸大地震で圧死した藤田東湖のように、本当の事を書き残しおいてくれ、そのため 後世に益しているものもある。その東湖著の「回天詩史」によれば、
藤田東湖の「回天詩史」と「常陸帯」
 「試合剣術と袮して、双方向きあって木剣や竹刀で、お面お小手をやり出したのは、幕末の文政二年(1819)からの事で、水戸へ戸が崎熊太郎が乗りこんできて、 撃剣なるものを門人相手に披露したときには、水戸の侍たちは物議騒然として、これを罵りかつ嘲った」というのである。
 そしてまた、水戸で試合剣術が初めて行なわれたのは、江戸上屋敷にいた杉山子方が、その子の子元を岡田十松の撃剣館へ入門させたのが初めてで、藤田東湖が十四歳で習いだしたのが、 その文政二年だとある。つまり、水戸の武士というと、この四十五年後には天狗党の旗上げをしているため、昔から、剣術が盛んだったようにも思われがちだが、実際はこの後、 戸が畸熊太郎が五十俵で改めて招かれ、それから流行しだしたのであり、それが筑波山の旗上げへとなっていったものらしい。
 
さて藤田東湖はまたその著の「常陸帯」の中で、水戸へ試合剣術が持ちこまれてきたときに、
なぜ水戸家中の侍たちが、こぞってこれを嘲笑し非難したがという点に関して、身体髪膚これをみな父母に受く。あえて傷つけざるが孝行の始めなりとも教えられていたが、武士というものは殿さまより、丸抱えにして扶持を頂いているのゆえ、 自分の身体は自分のものであって、自分のものではないと考えるのが士道であった。だから戸ガ綺熊太郎やその門弟のような、主君持ちでない百姓上がりの非武士ならば、 殴り合い、叩き合いなどで怪我をしても、差し支えはないだろうが、なみの者つまりご扶持を賜わっている身分の者がそんな馬鹿げた真似ができるものかというので、戸が崎たちは、 撃剣を教えにきたが追い返されたのである。これは水戸だけが頑迷であったのではなく、どこの家中でも試合剣術などは、弓槍と違って卑しめられ、もって士道に悖るものとして、始めは排撃されたのである」と士道のあり方においてこれを説明している。
武士の刀は「公刀」
 しかし、ここに抜け落ちている事がある。藤田東湖にすれば、そんな事は判り切っているから書かずもがなのことと説明しなかったのだろう。  が、今日では無責任な講談や大衆小説に、歴史の方が引きずられてしまっているから、有耶無耶どころか、まるっきり誤り伝えられている。というのは、かつて豊臣秀吉が朝鮮征伐の前に国内の治安維持強化のため、「刀狩り」を断行し庶民の帯刀を禁止した時点から、 武士の刀というものは、「公刀」の扱いになったのである。
 
つまり扶持を貰っている主君を防衛する目的で、刀は公務として差す事になったのである。  これは岩波文庫にもはいっている大道寺友山の「武道初心集」の中にも、「刀というはすぐ折れたり曲がったりして使い物にならぬから、なるべく戦場には持って出るな。 どうしても用いたくば差し控えを家来や馬の口取りに帯びさせろ。そして家来は若党や小者にささせてゆくべきである」と言い、家来はみな移動刀架けであるというのが出ている。
 映画や芝居では毆さまの佩刀は背後の小姓が捧げもっようになっているが、実際は家来全部の帯びている刀が、もしものときの毆さまのスペア刀になるのである。そこで、「刀は武士の魂」というのは何も精神的な話ではなく、刀をさしている者はいつ何時でもそれを毆に渡せるよう心がけておらねばならぬのだから、 それについての心構えを言ったものであり、また武士は、刀をさしているからして扶持が頂け食してゆけるのだから、そうしたところで刀は武士の糧といった意味合いにもなる。
 
さて、武士の帯びる刀が、公刀であるという性質から、(殿の命令がなくては私に抜刀してはならぬ)という不文律が、ここに生まれてくる。 江戸時代に私闘が厳しく処罰されたのは、公刀を気ままに、私用に抜き放ってはいかぬからで、
「仇討免許状」という、大衆小説やそれを基にした映画の内容が流布されているが、007の「殺しのライセンス」じゃあるまいし、あれは嘘である。 本当は、殿様が出した「抜刀許可証」なので、内容は「この者が貴領地において、抜刀するのは〇〇の許可があってのもので、よしなに取り計らいたい」 という免許証だったのである。
 
また、「殿から何々の銘刀を拝領」というのも、万一のときにはこれを差し控えに用いるからお前に預けるという意味であって、刀を与えるという物質的な褒美ではない。 これから側近くに仕えさせてやるという恩恵の沙汰なのである。そこで、そうした刀を渡された者は、貰った物なら質へ入れても売ってもよいはずなのに、 あくまで大切に保管していたのである。つまり、鯉口三寸抜いたらお家は断絶、身は切腹というのは、大名といえども将軍家の家来で、刀架けの立場だったから、それへの罰則だったし、 その大名もやはり、己が家来へ課していた私用抜刀禁止の武家社会の法律であった。
 
そこで武士たる者は刀はさしているが、百姓上がりの剣術使いのごとく、やたらに抜けはしなかったし、また、絶対に許しがなくては斬り合いなど出来ぬというタブーかあるのにかかわらず、 「試合剣術」を持ちこんできたからして、不届きであると戸ガ綺熊太郎たちは、最初は水戸から追放されてしまったのである。
 では、何ゆえに、それがほどなく解禁というか、幕末の撃剣ブームになったかといえば、天保十一年清国では阿片戦争か起き、 「あの大国の清が白人国家に負けた」という情報に幕府は危機感を覚えたからである。だから、その二年後公儀より各藩へ海防の厳命が通達されたが、 硝石の解禁は出なかったことによる。
 
つまり、日本では鉄砲が舶来するとすぐ精巧な和製銃も作られたか、黒色火薬の七十五パーセントを占める大切な硝石を採掘できる鉱山がなく、 従って鉄砲に必要な火薬はもっぱら外国からの輸入に頼っていた。 だから、徳川家が鎖国の令を出したのも、切支丹禁止のためというのは表向きの政治的発表であって、硝石を他の大名が入手して天下を覆すなどということのできぬよう治安維持の必要上から、 幕府だけが長埼出島において独占輸入していたのである。
 
天保八年の大塩平八郎の蹶起は、徳川家が大坂方面の貯蔵硝石庫の鍵を、出先機関である大坂町奉行所天満与力に与えていたから、彼は職掌柄火薬を自由に使い、乱を起こすこともできたのである。 さて、この乱にこりたためか、列強が頻繁に日本に開国を迫る時節、徳川家は海防布令は出したものの、硝石の方は放出しなかった。 そこで各大名家は、大東亜戦末期のアッツ島やサイパンで玉砕した日本軍の司令官のように、「鉄砲はあっても弾薬がなくては射てず、役に立たない。かくなる上は、 斬りこみ隊でゆくしか他あるまい」となって、このため、みな大名家は、藩内に俄作りの道場や訓練所を作って、ここに初めて、試合剣術とか撃剣といったものが、公認されだし、流行しだしたのである。
 
 
つまり上士というか家柄の高い武士は、藤田東湖が書き残したように、きわめて保守的で、(やたら刀を抜き斬り合うのは士道に反する)という抜きがたい昔からの伝統精神があって、急場の戦力には間に合わないので、足軽クラスや郷士の若者などといった連中を集めて、速成で稽古をさせたのである。
 
そこで、こうなると、それまでは農家の百姓の二男三男に、草相撲ならぬ草剣術を教えていた連中が、今こそわか世の春とばかり、「出世したい者は当道場へきて入学金を払え」と、 募集広告するため生まれたのが、天保版「本朝武芸小伝」の類であるが、権威をもたせるために、「当流は由緒正しく、戦国時代の何某から始まったものである」式の箔をつけて誇張した。 新選組の近藤勇や土方歳三たちも、草深い日野から、「天然理心流」を由緒ある古武道だと宣伝して、江戸へ出られのもこの訳である。
 
 そしてこういった類は今でいえば、「各種学校入学手引き」のような木版刷りのものゆえ、明治になっても多く残っていた。ところが明治九年の公刀佩用禁止令がでていらい、剣術はすたれてしまい、わずかに見世物としてしか使用されなくなったのに、 山田次郎吉あたりが発憤して、「権威あるものとして復活させるため」にはと、 やむをえず「撃剣叢談」あたりを信頼できるものとして、さも戦国時代から剣豪がいたように世に伝えた。
 
これが名著といわれる大正十四年刊の「日本剣道史」なのである。そこで上泉村生まれの上泉伊勢守信綱も、後に戸沢山城守白雲斎あたりと共に、「立川文庫」の立役者にされてしまったのである。 こうした訳で、剣豪や剣術ファンには申し訳ないが、現実は厳しくそんなに面白おかしくはないのである。
現在日本中に剣道所があり、柔道と双璧を成す日本武道である。この剣道は姿勢もよくなるし、反射神経も鍛えられ、体にはよい運動である。 だから、こうした歴史の真実を頭に入れて励んで頂きたいものである。
 
 

新撰組初代局長 芹沢鴨

2019-06-11 09:10:50 | 新日本意外史 古代から現代まで
 本名、木村継次。水戸藩那珂湊芹沢村郷士出身。  幕末水戸藩へ、京所司代酒井若狭守を飛び越えて直接水戸京屋敷へ攘夷の宣旨が下された。
 よって直ぐさま秘かに水戸のお城へもたらされた。  が、これを察知した江戸の大公儀から、順当でないからと返却を命じられ、 その為水戸城は大騒動になった。そして家中では攘夷を叫ぶ激党とそれに反対する鎮党の反目が、日増しに昴まり刃を交えるような事も起き出した。   当時、近習役を勤め「返却など、もっての他である」と強硬派の一人だった斉藤留三は、この坩堝に巻き込まれていた。
  従って「用心の為」といった目的で、撃剣のできる者を召抱えることとなった。    継次は兄が私学校文武館で師範役をしていたので、そこで稽古役をしていたのだが「士分に取立てるゆえ、然るべき者を」と、その那珂湊芹沢村二百石の知行所を 持つ斉藤から、館の方へ推挙の依頼があり、出来れば兄の木村三穂之助をとの申し出だったが、「手前の代わりに弟の木村継次を」と身代わりに推され、  奉公していたのである。若党と言えば聞こえは良いが用心棒である。
 
 しかし、勅諚を返却するのに反対な斉藤留三は切腹して、憤死してしまった。  遅れて駆けつけた継次は驚いたが、 城の大手門も裏手も、鎮党の目付に塞がれているため、軽輩の継次なら城外へ 出られようと、水戸の執政大場一真斎に使いを頼まれた。   この時、後年有名になる「尽忠報国」の四文字を柄に刻んだ鉄扇を渡される。  これは斉藤留三が国を憂える赤誠を鑿に託した物で、これが大場に渡り、愛用して いたものである。
 これを身の証として持って、長岡の宿場へ早馬で使いに出た。  と言うのは、この宿場の旅籠には、   ◎内を整え外夷の侮りを受けぬようにとの、畏き御諚を賜った水戸が、いくら井伊大老の恫喝を受けたからとて、返却はならぬ。 ◎御為ごかしに江戸へ勅諚を差し出そうとする鎮党の腰抜けは君側の奸だ。
◎この長岡を押さえておけば、江戸へ勅諚を奉戴しょうとする者達を通らせないため、断固防衛する。      と、こうした考えの若者が集まっていたからである。  しかし、大場の書面の中身とは、  「御三家の水戸が大公儀に逆らってはまずいと、鎮党の意見が勝ち、執政大場は 城内にて謹慎の沙汰が出た。よって長岡の宿場に頓集している者達を総召捕りの ため、徒目付国友忠之介率いる役人が向かうので解散せよ」 というものだった。
 
 
この後、 幹部の関鉄之助らが来て、「同じ家中で斬り合いなど軽挙妄動は慎もう。実は もう勅諚は別の者の手で江戸小石川の上屋敷に移されている」となった。   これでは居残っていても無駄だからと、皆長岡から引き上げてしまた。  この時、継次は別棟で酒でも呑んで寝過ごしたか、逃げ遅れてしまったらしい。  そして召捕りに来た国友忠之介に見つかり、彼を斬り倒してしまった。  継次が徒目付国友忠之介を長岡で殺したのは二月五日。
 その五日後江戸へ逃げてきたが行く当てが無く、そこで神田駿河台の旗本 鵜殿甚左衛門邸へ転がり込んだ。鵜殿は水戸の支藩宍戸一万石松平大炊頭の伯父に 当たるから、安政の大獄の時水戸派と目され駿河町奉行の職を追われ、今では 小普請入りとなっていた。
継次が此処に来たという訳は、同郷の平山五郎に匿って貰うためでる。
 
  しかし、何日かする内、鵜殿に見つかり、水戸の様子を知悉していたので、「木村の弟というは、長岡でお徒目付を斬り殺した男で、行方を探索されている男だろう、もし、此処に居ると判れば、小石川の水戸屋敷から討っ手が掛かろうが」と、平山は注意された。    そこで此処にも居れなくなり、前の郡奉行金子孫次郎が出府していて、そこに長岡屯集の残党が集まって居るので、その隠宅に移る事になった。    この金子孫次郎というのは、奥祐筆から郡奉行になった二百石取りの身分で、 亡くなった前主人斉藤留三より格式が高い人と聞かされ、気後れしたか、平山から 渡された金で酒を飲み、女を買って寝過ごしてしまつた。  慌てて翌朝駆けつけたが、この一党の「桜田門の変」に間に合わずだった。
 継次にしてみれば、大老襲撃の事など聞いていなかったし、自分は寝過ごして 翌朝駆けつけただけである。
 だから事件を聞いてびっくり仰天。  他に行く当てもないから、又鵜殿邸に平山を頼って逃げ込んできた。  処が、井伊大老のため、駿河町奉行の職から追われ、恨み骨髄に徹していた鵜殿は すっかり歓んでしまい、「良くやった。其の方こそ水戸人の華だ」となった。    とんでもない誤解だが、鵜殿としても継次が関係ないのを知らぬ訳はなく、 有り体は「政治的利用」の何物でもないだろう。            
 
 芹沢、水戸の為に京へ行く  
そうこうする内、ある日鵜殿に呼ばれ、  「京へ行ってくれ。わしが浪人奉行として伴っていく浪人組に加わって上洛する のだ」と、藪から棒に言われた。  「明朝早立ちだ。公儀からは山岡鉄太郎や松岡萬がつく。その方は水戸のために行くのだ」と命令された。    文久三年二月八日。木曽路を経て、半月掛かりで京へ上がった浪士隊は、壬生村の 新徳寺、更祥寺、地蔵寺の三寺を宿舎に割り当てられた。しかし寺の宿坊では 不便だろうと「八木源之丞持家」というのに鵜殿の命令で継次だけ移された。  この頃は「これまで通りではまずい」と鵜殿が継次の村の名を姓に、その村に 多い野鴨から名をとって、芹沢鴨と改名されていた。
 芹沢が水戸京屋敷に行くと、「錦山」の号を持つ儒者上がりの新見錦や、鵜殿家 に居た平山五郎、平間重助といった水戸人がもう集まっていて、桜田門義挙唯一の生き残りとしての足下の知名度は高い。ひとつ今後は浪士組の頭株となり、常陸の国に忠を尽くして報いて貰いたい」  京屋敷取締役山口徳之進に言われた。
 
手前ごとき郷士あがりの軽輩者が・・・・」と固辞したが、  「水戸にあっては家名により上士下士の差別ははっきり付けられているが京へくれば別個な話し。此処は姓や苗字でなくその人間自体の値打ちが全てを決める 土地柄。戸ヶ崎熊太郎流の剣をよくされる貴方が、先ず水戸人の頭分となり、 ついで浪人組三百も手足のごとく使いこなし、そっくり水戸の別働隊に仕上げる 事こそ、常陸御領内に生を受けし者の、常陸国へ尽くすが御奉公」と、 山口からこんこんと言い聞かされた。     さて、水戸屋敷から戻ると壬生はえらい騒ぎになっていた。  清川八郎一味が独断で勤皇の志を御所へ上奏したのを、京所司代が知り、浪人組 をすぐさま江戸へ引き上げさせようと画策しているというのである。  これには鵜殿も激昂し、  「水戸人以外もこの際は一人でも多く糾合して、せっかく伴ってきた者を散らさ んようにせい」と命令された。
 そこで芹沢は、文武館で兄三穂之介の門弟だった平間重助を呼び、  「牛込二十騎町の天然理心流は、八王子千人同心の捕物用棒術が岡田十松流から変わったもので、わが神道無念流とは同じ流れだ。だから六番隊の近藤勇、土方 歳三といった連中に、気兼ねはいらんから移って来るように云ってこい」と、 鵜殿の言い付け通り残留者の確保にかかった。      新撰組の誕生  
  文久三年三月二十五日、水戸斉昭の跡を継いだ慶篤は御所より、  「上洛中の将軍家茂に代わって関東支配」の勅諚を賜り東下りした。  が、世嗣の左衛門佐は京へ残され、大場一真斎、山口徳之進がこれを守った。   芹沢は水戸人八名に、近藤勇らを加えた十六名をどうにか百を越す別働隊に 仕立て上げた。「新選組」と隊名も決まり、隊規も作った。       浅黄袖口白縁とりだんだら染めの揃いの羽織も、大丸呉服店から染め上がってきた。  こうなると、入隊志願の若者も増え、芹沢は大いに多忙だった。  遊び好きの新見錦に、息抜きに島原や祇園に誘われたが、酒は付き合ったが女遊びはぴたりと止めた。芹沢の心境としては、  (わしらが使っている水戸屋敷からの下賜金は、常陸三十五万石の民百姓の汗みずく の金、それで女など抱けよう筈はない)と心を鬼にしたのだろう。      だから水戸派の若者も近藤一派の連中も、  「さすが芹沢さんは桜田門生き残り。誠の志士とはああした御方であろう」 評判が良く、黒谷の守護職会津屋敷でも「芹沢のような身持ちの良い者ならば」 極めて受けが良く、やがて家老田中土佐から、
「昼は仙洞御所前、夜は禁裡御所南門」と御所警備を命じられ、芹沢はすっかり張りきって昼夜を問わず詰めきっていた。  ところが八月十八日、政変が起こった。
 薩摩や中川宮の手によって長州兵が堺町御門の警備を解かれた上追放となり、三条中納言以下七卿を奉じて都落ちをした。そこで、これまで長州と仲の良かった水戸へも、弾圧の手がのびてた。  機を見るに敏な大場一真斎は、直ぐさま若殿を守って京を脱出し、山口も江戸へ 引き上げてしまった。
 
この結果、新選組の水戸人は当惑した。  水戸屋敷からの資金が断たれ、黒谷の会津屋敷からの、表向きの御用金だけでは、 今や二百を越えた新選組を賄ってゆけなかったからである。  芹沢としても、この政変にはどうしょうもなく、儒者上がりの新見を信用して 相談した。が、新見とて格別の当てがある筈もない。
  そこで「切り取り強盗、武士の慣い。ひとつやりますか」となった。   この夜から、新見黙認のもとに水戸派の連中の荒稼ぎが始まったが、芹沢は昼夜 御所の門外に立ち、尽忠報国の鉄扇を握って指揮をとっていたから、それらのこと は迂闊にも知らなかった。しかし土方歳三はその一切を調べていた。  この当時の会津の意向は、水戸人が主流を占める新選組では安心出来ない。 もし彼らを一掃出来るなら、近藤勇一派に全てを一任してもいい、というものであった。
土方歳三、水戸一派を粛清する
 
そしてすでに水戸派追い落としの為の支度金が土方歳三に渡されていた。  近藤としては、八木屋敷へ引き取られてから、芹沢に呑ませて貰い、奢って貰った恩もあり、何より近藤は芹沢の真面目な人柄や、御所に尽くす勤皇精神に感化されてもいたので、彼を殺すことには反対だった。
  しかし土方は水戸派一掃を強引に実行したのである。    その夜、土方の奢りという事で、芹沢鴨、平山五郎、平間重助らは馴染みの芸妓を 連れて宿舎に戻ってきた。しかし芹沢は初心を貫いて酒を呑むだけで戻り、 菱屋の後家の梅と別棟で寝んだ。
  だから、頃合いを計って忍び込んだ土方歳三と沖田総司に、すっかり前後不覚に 眠りこけていた芹沢は、滅多やたらに突きまくられて死んだ。同じ頃、原田左之助と山南敬助の二人が、一番隊宿舎で芸妓と寝ていた平山五郎 をなますのように斬り刻んで殺した。   【補記】  この時、平間重助だけは素早く縁下へ逃げ込み、土方らの引揚げた後、芹沢の髪毛と尽忠報国の鉄扇を形見に持ち出し、那珂湊の文武館へ逃げた。  そして翌元治元年六月、  「水戸天狗党」の乱が起きると、平間はその鉄扇を竹竿に付けて常州野州を転戦 した。そこで芹沢鴨がまだ生きていて、天狗党に加わったものと間違われてしまっ たのか、今となると「天狗党くずれ芹沢鴨」と年代が逆に誤って書かれた本もある。
 又、芹沢と一緒に殺された梅なる女は、菱屋の主人が脱藩浪人の押し込みに襲われ 殺された後、また何度も狙ってくるのを怖がって匿ってくれと来たのを、芹沢が 八木屋敷に置いていた後家さんである。
今となっては推測するしかないが、二人は互いに好きあっていたのかも知れない。  維新という大きな時代の流れの中で翻弄され、殺されて逝った二人は哀れである。合掌。