新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

鬼も十八、番茶も出花 正説 桃太郎童話

2019-06-22 13:00:25 | 新日本意外史 古代から現代まで

   「鬼も十八、番茶も出花」

 鬼でも年ごろになれば少しは美しく見え、番茶でもいれたばかりは香りがある。 器量が悪くても年ごろになれば少しは娘らしい魅力が出てくるということのたとえ。 これが国語辞典や諺辞典の類に出ている意味である。 しかしこれは全くの間違いである。
先ず、 そもそもこの日本には鉄鉱石が太古から現代まで一片も採掘されていない。 それなのに角を生やした、赤鬼、青鬼の絵では鬼が太い鉄棒を持っている。鉄資源の無い日本で鉄棒など作れるはずが無い。
 
 この鬼という概念は、大陸人が日本列島へ仏教と漢字を持って進駐してきた際、 日本原住民の教化に、各地で使った「地獄図絵」の絵画からの所産に過ぎない。  大陸人の坊主共は、原住民を集め、中国語など全く理解できないから、  手っ取り早く目から入って強烈な印象を与える極彩色のこの絵を見せ、   「仏教の御仏を信じるものは、死んでからあの世では極楽へ行ける。しかし信じなければこんな恐ろしい地獄で赤鬼青鬼に苛められ、火の海や血の池でもがき苦しむのである」 と脅しに使ったのである。 そして日本で言う鬼という存在は「隠忍」つまり辺鄙な地に追われ匿れて堪え忍ばなけれは生きていけなかった憐れな差別された日本原住民の餓鬼の姿なのである。     
 
 さてこの「鬼も十八、番茶も出花」というのは浅井古松軒も書き残している「人馬の市」 という奴隷のせり売りの際に、各地の寺から原住民を青とも蔑称していたので、この青の子女として、馬と共に数珠繋ぎにされた娘達は、街道を歩かされ馬糞と砂埃で汚れ放題だから 当時「オニ娘も十八近くは、よく磨けば客のひける女郎になりまっせ」 と、せりにかける際の掛け声として、少しでも寺から買った値段より高く売って儲けようとする女衒の呼び声なのである。
 
「今はむさ苦しい娘だけれど、よく磨けば色白だし、こりゃとんだ掘り出し物になりまっせ」と  娼家へ娘を売り飛ばす為の口上として、女売りの女衒が必ず使うせりふなのである。昔、奈良の興福寺の塔頭の末寺に所蔵されていた「法相経」に次のように書かれている。難解な白文で経典風になっているが約すと次のような内容になる。
 
「オニとは王仁とも書く。仏教側より見れば、東光寺派の原住民共に馴染みやすい宗旨をもって国ごとに国分寺を建立し、仏恩を与えようとするも、敢えて拒む徒輩にて始末に負えず、よって仏罰を与えんと増悪を持って折伏を祈るものとする。よって和訓にてはオニは憎さも憎しの『憎』の文字を当てる」 これの写しが南都七大寺の全てに有ったという。  平安時代には、仏教の坊主共がこの経文を大声で唱えながら、春日神木を担ぎ出して、普段はお互いに反目しあっていたのがこの時ばかりは全仏教が一致団結し、従来の係争は 一切不問にして、大挙して京を襲た。    そして平家一門の邸宅を悉く焼討ちした。
 
  だから平氏はやむなく今の神戸の福原に遷都したのである。 だから悔しがった平清盛は、「春日神木をたてし御輿の僧兵共を、皆が確認しているゆえ、奈良興福寺を塔頭もろとも探索せよ。たとえ代々藤原寺として御所の氏寺にりと雖も、日頃は他宗と仲違いをして、互いに私兵である僧兵を繰り出して確執しあっていたのを取りやめ、何故に揃って皆が謀議しあって吾が平氏一門を狙うのかこの証拠を集めて皆運んで来い」と平重盛に命じた。
 
そして平氏の軍勢が奈良へ向かったのは、延暦寺宗徒と戦い、比叡山の天嶮に逃げ込まれて 戦果なく、折角の軍勢をどうするべきかと、清盛に伺いをたてたという古文が治承二年十月五日付けで 残っている。   前政権の藤原王朝の氏寺だから、火を放って焼き尽くす前に経文や文書類は、漢字の読める者が 皆検閲して怪しそうなものは末寺の分まで、寺の長持に放り込ませ、兵たちに担がせて悉く押収したという。 処が、翌年七月に平重盛は病没してしまった。  そして翌治承四年は、高倉帝の弟宮の以仁王が、平清盛の娘の徳子が産んだ三歳の安徳帝を平氏が人皇八十一代天皇として立てる。
 
 これに怒り不服として以仁王が、自分こそが正統な皇位継承者であると宣言し、平氏追討の令旨を源行家たちに秘かに出した。   同年五月二十三日に奈良興福寺僧兵共は、奪われた経典や文書を取り戻すため、源頼政に加勢する。だが宇治川を挟んで平氏と対戦するが敗れる。よって頼政は平等院で討ち死にする。   ついで、源頼朝が伊豆の北条氏を頼って平氏追討の挙兵となり、富士川を挟んでの大会戦となるのだが、「オニはニク」の写経類の行方は現在一切不明の儘だが、 オニがニクなら二九の十八で意味の辻褄は合う。
 桃太郎 伝説 御伽噺 考察 
 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きまた。   おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
  「おや、これは良いおみやげになるわ」おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと、 中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。
 
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」   子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。 桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。   桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。そしてある日、桃太郎が言いました。「ぼく、鬼ヶ島(おにがしま)へ行って、わるい鬼を退治します」 そして、おばあさんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出かけました。   旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」  「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」  「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」   イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
 
そして、こんどはサルに出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」  「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」  「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」   そしてこんどは、キジに出会いました。  「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」  「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」  「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」   こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。 鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村からぬすんだ宝物やごちそうをならべて、酒盛りの真っ最中です。  「みんな、ぬかるなよ。それ、かかれ!」イヌは鬼のおしりにかみつき、サルは鬼のせなかをひっかき、キジはくちばしで鬼の目をつつきました。   そして桃太郎も、刀をふり回して大あばれです。
とうとう鬼の親分が、  「まいったぁ、まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」  と、手をついてあやまりました。   桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。   おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。 そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。お終い。
 
これが、一般的な物語の筋書きである。   桃太郎は善で、悪いやつは鬼と言うことになっている。  だがこれは善玉と悪玉が完全に逆になっている。
 
 さて、ここからこの面妖な昔話を解剖すると、日本で「中ッ国」と呼ばれるのは現在の中国地方の岡山。  中国大陸で隋を滅ぼした唐が朝鮮半島の百済も滅ぼした。  この当時の日本は百済人が立てた奈良王朝時代である。百済人たちは「朝鮮半島本国の一大事」とばかりに、  二万七千とも三万人とも言われる日本原住民をかり集め、派遣軍を半島へ送り込んだが白村江の戦いで大敗する。   勢いに乗って唐の軍勢は、九州から本州へと進軍した。  そして唐を「籐」と替字し「藤原氏」と称した。そして当時から「ズイズイズッコロバシ」と今も残るように、日本にも滅ぼした隋の人間は沢山来ていたので、彼らには同じトウでも「桃」の字を充てて区別していた。  (昔の日本は四季のはっきりとした、公害も無く、まして岡山地方は美しく住みやすく、黄塵の吹き荒れる大陸人にとっては  この世のパラダイスとも写ったろう。これを「桃源郷」という)    だから占領軍である桃(唐)から生まれた桃太郎は凛々しい貴公子で、偉い様なのである。  当時のことゆえ、吉備で獲れたキビを与えたとも考えられるが、おそらくはコウリャンだったろう。   新羅系の猿(サルリ、サルメ)、高麗の犬(コマイヌ)、百済の偵察を意味するキージーに食料を配給して、  隠忍(オニ、鬼)と呼ばれていた、我ら御先祖の日本原住民(唐体制に従わぬ民)を討伐し、彼らが生産していた穀物や干魚、荒塩などを、宝物として略奪してきた、という話なのである。 こうした真実を教えないで、幼児時代から一般庶民の洗脳教育に童話の絵本が広まってる。 サンカが多く住むと言う東海地方は太平洋戦争後、昭和30年代でも大人は、桃太郎の絵本などは絶対自分の子供に  見せないし「わしらの頭に、角が生えているか・・・・・」と、本当の意味は判っていたらしい。