新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

韓国問題を歴史から掘り起こす 国辱的歴史学者

2019-06-15 08:38:59 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
大分以前の話だが、国士館高校の腕白坊主共が先制攻撃のためか、朝鮮人高校生徒をぶん殴っては問題を起こした事があるが、在日の朝鮮文化人達も今やしきりと、 「日本の中の朝鮮文化」とか、「われらの中の朝鮮」をうたって、事前宣撫工作みたいな傾向を示しているやにも思われ、獄内の金嬉老でさえ、出刃包丁を写真にとらせて、 「真相をあばくぞ」とすごみをきかせ、そのため気の毒にも看守さん一人が自殺にまで追いこまれている。さらには、かって国外的にも故大島渚監督の、 「絞首刑」は、日本で差別待遇をうけ絞首刑になった哀れな朝鮮少年の悲劇を、ひろく海外キャンペーンして効果をあげている。
 
 
つまり、われらの中のコマとは、コマスタジアムではなく朝鮮の古名コマであるが、これに対し金達寿は、はっきりと、 「古代日本文化は帰化人を通じ朝鮮から多くのものを学んでいる‥‥と日本の歴史家たちはとく。が帰化人などというものは古代の、少なくとも七世紀以前の日本には一人もいなかった‥‥何故かなら、 彼らこそ古代日本を作ったそのもの自身、だったからに他ならぬからである」 とまで言い切って発表している。確かに、「いにしえの奈良の都」のナラが、朝鮮語の国を意味する「ナラ」と同じであることも、私は認めるのに反対はしない。しかし、 「日本の歴史家はデタラメである」とここまで中外に喝破されては立つ瀬がない。 私は戦国史専門で十五六世紀を主に研究しているから古代史は埒外である。
 
 とはいうものの、ロンドンデリーの囲み物連載にまで堂々と、「Korean culture induced Japan」(コリアによって日本は作られた)式のものを書かれて、日本の歴史家は阿呆や何も知りよらんと、 銭もうけの本ばかり作っとる、とまでケイベツされては黙っていられぬ。
まことに不得手な古代史だが、義をみてせざるは勇なきなりで、これに反論を加えたい。とは云うものの、しかし日本の歴史家も、もうすこし眼をさましてもらいたい。 なにしろ1970年6月9日の読売新聞では、大きな見出しで、 「わが国へきてまだ二年しかたっていない、二十六歳のハンガリー青年が、これまで日本歴史学会でも解明できなかった吾国最古の漢詩集「懐風藻」の編集者を研究中に発見し、 近く日本語で学会に発表する」と報道されていたが、オハヨウ、コンニチワくらいしかいえぬ青年に、日本歴史学会でも手がつけられていなかったものを解明されたとは、 これは国辱以外の何ものでもないというしかない。
 
 
これがもし英国あたりだったら、王立学士院会の大問題になって、その方面の研究者は詰問され学位まで剥奪されてしまうのである。なにしろ歴史学は天文学ではない。 空の新星なら素人の青少年に発見されても恥ずかしくないが、「懐風藻」のように昔からの物を放っておいたのは怠慢である。これは手がつけられなかったのではなく、 手をつけても一文も儲からんものゆえ歴史学者は知らん顔をしていただけだろう。  とはいえ、こんなオサムイ話はない。だいたい日本の歴史家なるものは、「歴史学」そのものを知っているのだろうかと疑いたくなる。  十八世紀に入ってヴォルテールが、それまでのスーパーマンや神人や英雄たちの古い話を‥‥歴史とする考えをすてるよう提説し、 「人間の群生形態が国家になってゆくのは、風土寒暖や民族の風習によって形成される」と唱えたモンテスキューによって、 「真実の歴史」こそ「歴史学」であると見直されてから、キゾーは階級制交替発展説。ヘーゲルは弁証法による歴史証明論。
 
これがミシュレからトインビーに至る、郷土史学の徹底的解明による専門分野の集成となった、という今日の「歴史学」となり、その実証的記述法としては、英国のスコットの歴史小説が、 レシ(記録体)の元祖とされた。
だからして日本で発行される世界文学全集の類でも、ドキホーテしかり、赤と黒しかり、戦争と平和にしろ、小説が歴史そのものの観を呈し、歴史を扱っていない文学書はないような有様で、オーギュスタンも、 「歴史、それは歴史小説家の書くもの。私共は彼らの記述に資す方法論を解明するのみ」とまでいっている。 しかし日本には、「時代小説作家」というのはいるが、歴史小説家があまりいないせいか、ハンガリーの二十六歳の青年に、とんだ赤恥をかかされるようなドンな目にもあったのだろう。
日本人を虐待したのは誰なのか。 東大寺、大仏建立で死んだのは日本人
さて、われらの中のコマは、馬を駒とよび、ポックリから駒下駄になり、彼らからの迫害が、「コマっちゃうな」として残っている。 金達寿のいうように朝鮮のクダラ人が、奈良朝だけでなく、朝鮮の新笠姫のうみ奉った御方が、開発された当時の平安京いまの京を都にした当初は、彼らクダラ人以外の原住日本人たちは、 人間でないような扱いかたをされたのではないかとも想えるのは、なにしろ私らは今日ですら「くだらでない」の言葉を無心に、「クダラねえ」とか「くだらない奴」と使って、 自分らの先祖が嘲られた罵言とも知らず、時たまはよく使用しているせいもある。
 
 
 そして、かつて吾々が義務教育として強制的に学ばされた、「小学国史、尋常科用」に、 「われら日本臣民は、つねに和気清麻呂のような心がけを持つことを忘れてはならない」 と書かれ、国民精神の手本とされた和気氏たるや戦後になって解明されたところでは、「百済人純蛇の裔」であるとされる。 第二次大戦後、日本に進駐してきて、お壕端の第一生命ビルを日本御座所にしていたマッカーサーが、いまダイジェスト社ビル前の和気清麻呂像だけを、他の像は撤去を命じたのに拘らず残しておいたのも、 あれは、(先輩の占領軍司令官に敬意を表してか)と判ってくると、阿呆らしくてものもいえぬ。
このクダラ人たちが、「今来ノカミ」として日本へ持ち込んできたのが、平野四神で、「三代実録」によれば、 「平野今来神正二位が、従一位」それが「祝詞式」の記録では、その今来ノ神様が、「皇大御神(スメラノオオカミ)」になったという。 「今来」というのは、のちの大和の国の高市郡のことだが、発音通り、「今来たばかり最新到来のクダラ人の神」のことであろう。だから、 「日本神祇史」などをみると、「玉海」からの引用で、「宮内省に坐す神は園神一座、韓(カラ)神社二座の三座なり」と明記されている。  また金達寿は、中島利一郎著をひき、 「大仏殿をこしらえた行基大僧正や、比叡山のてっぺんに延暦寺をたてた最澄上人。
 
 
東大寺を建立した良弁和尚が、みな朝鮮人であったことを、いまだに知らぬ日本人が多いのは情けない」
責任は怠惰にして研究心に欠如したわが歴史家にこそ帰せられるべきなのに、氏は何も知らされずにきた日本人を、真っ向から責めるのである。  しかし、そんな事をいわれたところで、「どうもおみそれ申しまして、済みません」とは私はいわない。云えはしないのだ。
何故なら、今日の奈良の大仏は松永弾正に焼かれたあと、豊臣秀頼によって修復され、また江戸時代にも改築されたものだが、行基大僧正らによって鋳造された時点、 起重機も電気溶接もガスバーナーも何もなく、すべてを人間の二本の手でやらなければならなかった時、あれだけ見上げるばかり巨大な物を作る場合には、どれだけ多くの人間が溶鉱炉の業火の中へ落ちて死んだか‥‥。 行基やそのブレーンは朝鮮人であったとしても、そこで使役された労務者は誰だったのか良く考えて貰いたい。
 
 まさか当時の朝鮮に、いまの清水建設や大林組のような建設会社があったとは思えぬ。 といって行基たちが、朝鮮から徴用で人を集めてくる筈もなく、また半島の季節労務者が、当時のことゆえ出稼ぎにきたとも考えられぬ。
何万人と集められ鞭打たれ、赤々と燃えるルツボの中へ足ふみはずし、次々と、「ヒェイッ」と悲鳴をあげ、火中に生きながら呑みこまれていった何千人の者たち。 もちろん労災保険もなかったこの人間共は、いったい何処の誰だったのであろうか。
 
十世紀の今でさえケーブルカーにのらなければ、とても登ってゆけぬ比叡の山頂に、大きな石や材木を担わされ延々と蟻のような行列を作って、這い上がってゆき、 すこしでももたつけば鞭や棒で乱打され、見せしめのため石で撲り殺された多くの人々。逃亡を防ぐために縄をつけられていた故、あの比叡の山の崖で一人でも足を滑らせたら、何十人も一度に曳きずられるよう、 「ワアッ」断末魔の悲鳴をあげて墜落し、粉々に谷底に死んでいったろう人々。
 
 東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。 こうした残虐な実態をどう考えるのか。そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。 「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、  吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか? 「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」 というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。 ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、  曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。
 
この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、  「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。(注)修羅とは、現代の起重機の事。
 いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。  なにしろ日本人は、原爆を落としてよこしたトルーマンの手先が進駐してきても、レジスタンスどころか何の仕返しもできず、 「過ちはくりかえしません」と自らの手で原爆記念碑をたてるようなまねをしたり、 「ヘイ・ウェルカム・ユゥ」と、いまだに基地とよぶスペシャル・ランドで、一回50ドルで日本ムスメを公然と彼らに抱かせているのは、みな行基や最澄らの時点におい て、「占領軍にさからったら、どんな目に逢わされるか、よぉ覚えておけ」と散々にしごかれ、徹底して恐怖をしみこませられたためではなかろうか。
 
つまり日本人の、体制べったり志向とか、「長い物にはまかれろ」といった、ご無理ごもっともの奴隷根性を、今や国民性になってしまうまで浸透させたのは、彼らのせいでなくてなんであろうかと、それをいいたい。 「エエコーラ、エエコーラ、もう一つエエコーラ」といったヴォルガの舟唄が、かつての日本人に愛好されたり、アンクルトム達の、「黒人霊歌」が日本でもてはやされ、 亡国流浪ジプシーの「フラメンコ」が流行する下地もそこにあるのではないだろうか。
 
福岡徹の『軍神』をみると、旅順戦の日本軍は、「私らは消耗品ですから踏んで通って下さいと応招兵達は、児玉大将が見廻りにくると反抗ではなく、動けぬ身体をその靴の下におこうとした」といった場面がある。  最近もイオウ島の洞窟で、手つかずの一升瓶の水をそのままに、かわきと飢えで死んでいった日本兵の白骨の山が、遺骨蒐集隊によって発見されたと報道され哀れ人々の涙を誘ったものである。
 
 なんというべきか、この従順さ、そして命令されれば、 「死んで帰れと励まされ」の唄通りに挺身するけなげさ。しかし一旦だめとなって無条件降服してしまうと、またしても、「アメリカさんのためならエンヤコラ」と、火中の栗をひろうどころか、 六分間で一億一心総火の玉となってしまおうとも、あの憎っくきかつての敵さんにさえ、お仕えしようというその忠義ぶり。これは涙なくしては語れもしない。 つまり、こうした家畜人ヤポンスキーに、吾々を仕込んでしまったことを考えてくれるなら、 「加藤清正がきれいな女をもっていった」 「島津豊久が陶工を薩摩へ伴っていった」 「大震災のとき、町会自警団に撲殺された」 「伊藤博文によって、日韓併合を強行された」といった非難も勘弁してほしいものだが、そんなに非難するのなら、 世界一汚い国と言われた朝鮮に、橋や鉄道、ダムや火力発電所、上下水道のインフラの建設、学校をたくさん作り、高等教育のためソウル帝国大学を作り、ハングルも必修科目にした。 身分制度の撤廃もした。食料を増産して人口も増やしました。さらに、これら日本からの財政援助は大変な額で、普通植民地経営は収奪なのに、逆に援助をしました。 これらが現在韓国繁栄の基礎となっているわけですが、こうした事実を自国民に一切教えず隠しこんでいるのも、そちら様の自由ですから、余計なことだったのなら謝りましょう。
 
 
 朝鮮征伐のときに此方が荒らしたことばかりを、しきりにいうが、秀吉の急死による引きあげで休戦協定もできずの撤兵だったから、取り残され虐待された日本人がいかに多かったかを、 日本の歴史家は忙しいから、現地のそちらで、ぜひとも調べて頂きたいものである。 「日韓併合」も、あの時ああしなければ、韓露併合だったのではあるまいかと思うし、日本の自警団や町会のオッサンが権力側の手先になるのは、 かつてのクダラ人の教育というかシツケだったことも判ってほしいものである。  箱根権現神社も伊豆山神社も、コマのカラ神さまだというのならよくも参拝しよう。
 
だから北朝鮮(昔の高句麗)と、韓国(昔の新羅)が核弾頭を隠して朝鮮統一をはたしたら、東アジアでは中国、ロシアに次ぐ「核大国」になる。 北の老獪なロケットマンが、ICBMや核を放棄するなどという期待は大きな錯覚です。 そうなれば、向こうがまた日本に攻めてくるかもしれない。そうなった時はどうぞお手柔らかにと、今からせつに頼んでおきたい。
三橋貴明著「愚韓新論」(飛鳥新社) 以下に一部引用させて頂くと、
 1965年に日韓基本条約を締結して、わが国は韓国に対し無償で3億ドル、有償で  2億ドル、さらに民間借款として3億ドルを供与した。この金額は、当時の韓国の国家予算の3年分にも匹敵した。 しかも、日本はそれ以前、1951年9月8日に締結したサンフランシスコ講和条約により、1945年8月15日の敗戦までわが国が支那大陸、朝鮮半島、台湾、樺太、南洋諸島などに保有していた膨大な在外資産を放棄している。その規模は、当時の  評価額で3795億円にものぼる。ちなみに、わが国の1944年のGDP(国内総生産)は745億円であった。日本は敗戦後に、実に自国のGDPの5倍にも及ぶ莫大な資産を、 「戦時賠償」として放棄したのである。
 
 朝鮮半島に日本が残した資産価値は、GHQの試算によると約60億ドル、1945年8月15日当時の為替レート(Iドル=15円)を適用すると、およそ891億2000万円に  も及んだ(2002年9月13日『産経新聞』「財産請求権行使なら北の支払い超過[経済協力]転換の要因か」)。 日本の在外資産放棄分の内、およそ4分の1が朝鮮半島だった訳である。 ちなみに敗戦当時の891億円を現在の物価指数で換算すると、その額は約17兆円である。
 それ以前に、日本は日清戦争で朝鮮半島を「独立させた」以降、大韓帝国(李氏朝鮮)に莫大な資金援助をしている。朝鮮半島を事実上の保護国化した1907年の第三次日韓協約以降、 1910年までだけで「毎年」2、3000万円の支援を実施しか。大韓帝国が1906年に作成した国家予算は748万円に過ぎなかったことを考えると、日本の支援規模に愕然とせざるを得ないだろう。 しかも、これはあくまで日本が韓国を併合する以前の支援に過ぎない。
 
 韓国併合(考えてみると、日韓併合という呼称は奇妙だ。日本が大韓帝国を併合した以ヒ、韓国併合と呼ぶべきだろう)後も、日本の朝鮮半島に対する支援は続いた。 朝鮮半島から得られる税収は1300万円から1500万円に過ぎなかったが、同じ時期に日本からの支援が2000万円を超すことも珍しくなかったのである。大韓帝国末期から併合初期にかけて、 朝鮮半島は日本からの支援なしでは政治や経済が成り立たない状況にあったことがわかる。
 崔基鎬『日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実』(祥伝社2004年)によると、朝鮮半島に対する支援の累計は、総額で20億7892万円にも及んだという。現在の価値 に換算すると、なんと約63兆円である。 (中略) 「こうした情報を韓国政府は国民にひた隠しにしている」というのだから、「如何に日本にお世話になったか」など、国民は全く知らない。 この本は、正確な資料にもとずいた大変優れた本である。
「嫌韓」の方も「親韓」の方も一度白紙の状態で韓国を知るうえでも一読することを推奨する。