新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

名古屋不思議考 愛知県史 太閤秀吉

2019-06-28 11:42:51 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
戦国時代末期、三河の古い豪族で三宅氏というのが居た。 この当時は没落していたが、その名が残っているのは『広済寺旧記』位のものであるが、百済国から日本へ渡ってきた部族が、備前の小島半島に上陸して、これの一族が南北朝時代に活躍して、中でも「備前三郎高徳」こと通称「児島高徳」は、今では架空の存在と歴史学上されているが、「桜の幹に十字の詩」として昔の修身の教科書に出ていたくらい著名な人物で、これは『赤松再興記』にも出ている話である。
 
さて、明治時代の故渡辺世祐の解明によれば、「大永四年に前南禅寺の九峰宗成筆の宇喜田能家像の賛にあるから、動かしがたい事実だが、備前の宇喜田家の先祖は児島高徳であり、その祖は遡れば百済よりの三宅氏である」となっている。
 
 だから、今でも三宅姓を名乗る者は美男美女として知られているが、備前の児島半島に上陸した三宅氏の一部が、南北朝の頃に蒲郡あたりから三河へ上陸し、これを『三宅系譜』では、「児島高徳がその子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡猿投町大字東広瀬と呼ばれた矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤立した天嶮の地を選び築城し、その後この西加茂一帯を制圧していた」となっていて、没落したのは三宅右衛門高清の時とある。
 
さて、三河の松平蔵人元康が改名して徳川家康になったとする『松平記』によると、落城の時、三宅氏の奥方が矢作川へ下りて巨巌の下へ隠れていたところ、唐国渡りの狆(犬のチン)が慕って吠えたからそれで運悪く見つかってしまったという話が書かれている。
だが、後の徳川家康が世良田二郎三郎を名乗っていた頃、三宅氏の勢いは凄まじく、本城は広瀬だったが、同じ猿投町大字殿貝津には、高清の弟三宅清宣の伊保城。さらに豊田市の梅坪三丁目にある、高清の伯父の「三宅右近太夫光貞の梅坪城」。そして同じく豊田市挙母町大字城本町には、三宅高清の義兄に当たる者の「挙母城」と、つまり四つの城が三宅氏には在ったのである。 尚、家康別人説として「本能寺の変 徳川家康と松平元康は別人だった」は以下に詳細 http://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=3
余談になるが、当時の三河には『稗組』という言葉があった。意味は三河の松平蔵人元康が、今川領の駿府で人質として住んでいたので、松平の本城である岡崎城には今川の侍衆が城代として輪番で常駐していた。そして彼らは領内の米麦粟の類まで皆取り上げて駿府へ送ってしまっていた。
 だから岡崎城の士分で武者帖に載っている者といえども、一握りの扶持米も貰えなかった。よってこうなっては稗でも食さねば生きていけぬと、戦のたびに狩り出される士分を辞めてしまい、俄か百姓になった者らを云う言葉なのである。この連中の中に石川四郎や平岩七之助らが居て、世良田二郎三郎に協力している事実があり、この一事をもってしても、徳川家康と松平元康が別人だった証拠になろう。
       一夜のうちに四城を落とす
こうした状況の中、世良田二郎三郎の一党は、この当時別個の勢力として活動していたから、石川四郎や平岩七之助らの松平の家臣らと共に、同じく東三河出身の鳥居忠吉やその倅の忠元、修験者上がりの酒井浄賢、大久保党の面々と、総勢三百をもって、様々な奇計を駆使して落としてしまった。
『愛知県史』では、「永禄三年、徳川氏に攻められ、城主三宅右衛門尉高貞は討死。城は陥落しこれより廃墟となる」となっているが、この時、城はいくらか亡失したが、実際には高貞が討死して落城したのは実はこの三年後のことである。
            【愛知県史】  
桶狭間合戦で世良田二郎三郎(徳川家康)が信長に協力した
現在、日本中の県が出している「県史」という本があり、これは江戸時代の藩史にも当たる。その中の愛知県史というのは、他と違い特殊である。 その特徴として、郷土が生んだ英雄、豊臣秀吉が藤吉郎時代、背に付けて戦場を駆け巡っていた際、○に八の字を入れた旗指物を名古屋の市章にしている点である。そして家康の第九子徳川義直が尾張徳川の始祖になった藩史を採用しているが、それでも「徳川」と「松平」を同一に扱わず、これを別個に扱っている特徴がある。
 
 また桶狭間合戦で今川義元を倒したのは、織田信長一個の奮戦ということに通史はなっている。 しかしお膝元の尾張徳川家では、 「信長を勝たせたのは徳川家の力である。神君家康公のお力添えとお導きによって織田は今川に勝ち、またわが徳川家も開運の元を開いたのだ」という観念がはっきりしていたから、天明二年に藩学明倫堂をおこし、細井平州が学館総裁になった時も、その後、文化八年に家田大峰が朱子学派を退け総裁になった時も、「永禄三年庚申の時こそ徳川家発祥の年」というのが極めてはっきりしていたらしく、室鳩巣が、 「その文書が簡易平実。条理を尽くす」と激賞した堀杏庵が、次子道隣を尾張宗春へ仕えさせる為名古屋へ来たときに著述したという『庚申闘記』にも、これは明白に書かれていることである。
   大岡越前の出版統制令は世界初       
『厳神史巻・重代記』によって名古屋武士道を抉剔する
 
だが、享保七年十一月に、大岡越前守忠相が日本最初の出版統制令をしき、「権現様の御儀は勿論全て御当家の御事の版行並びに写字本は、自今無用に仕るべく候」つまり、家康の事は一切触れてはならないと厳罰令をしいたのも、 市井の一般の出版業者を弾圧するためではなく、実は尾張の宗春公に対してであった。 (松平蔵人元康が名を変えたのが徳川家康だ)という通説を、徳川本家の御用学者林道春が『本朝編年史』で設定してしまった後なので、 「若き日の神君二郎三郎が深謀をもって、信長を今川義元の本陣へ導いて裏切らせ殺させた・・・・」 という尾張徳川家の所説は異端になるからして、林大学頭の朱子学派より苦情が出て、御三家とはいいながら、ついに一人も尾張からは江戸の将軍家にはなっていない。それどころか、その後は宗春の子孫には六十二万石は継がされず、田安や一橋からの養子が入って尾張領主になっている。
さて、尾張徳川家の書物奉行が、代々受書を出して、名古屋城幅下三の丸の書庫で厳重保管されていた門外不出の『厳神史巻・重代記』がある。
 
それによると、前記した大岡越前の布令に関して重代記中の『章善院目録』によれば、その法令が出された目的相手たるや、尾張七代宗春で、彼は筆墨や紙の一切を取り上げられて「行跡宜しからざるをもって謹慎処分」と閉門にされているのである。
故野村胡堂の『万五郎青春記』を初め、多くの大衆小説はみな「宗春は次男で部屋住みの頃、公儀にたいして大活躍をした。そのため紀州の吉宗と将軍職を争そって敗れた後は、遊蕩三昧で天下のご政道に盾をつき、元文四年に謹慎押込めにされたもの」とするが、実際は前将軍家宣が、その跡継ぎにしようとしたのは、彼の兄継友の方であり、宗春は次男でも部屋住みでもなく「通春」の幼名で十四歳の時から、奥州梁川三万石を継いでいたのである。
 
 
そして兄の死により享保十五年に尾張六十二万石の当主になると『温知知要』を先ず著述した。 彼は、自分は家康の玄孫にあたる正当な血脈であるという自負からか、当時まだ尾張三河には、家康の伝承が数多く残っているのを、侍臣や儒臣を動員してしらべさせ、今で言う郷土史家の持っている史料を殿様の権威で徹底的に集めさせたのである。ところが、
(松平家康は長頭だったのに徳川家康は丸顔だったとか、二人の家康は石ガ瀬と和田山で再度戦をしている)と、書物奉行堀田恒山名で発表したものが、「徳川家のご先祖が二人も居ては怪しからん」と、徳川宗家の忌憚に触れ、版木どころか筆墨や半紙までも取り上げた上で閉門に下されたのである。 このため同じ御三家でも水戸学派は『大日本史』の仕事で認められたが、名古屋学派は、おかしなことを書く、裏目だといった具合に遇された。
それゆえ維新に際しても、かって尾張の儒者で塙保己一の塾頭で盲目の師を助けて『群書類従』を編纂した石原正明が、
「本居宣長の古事記は、為にせんための手作りの歴史である」と例証をあげて論難したのが、当時の神学国学派に嫌われ、名古屋学派は黙殺されて今日に到っている。こうした隠された徳川史観を見直すため歴史で飯を食っている学者共はには猛省を促し、もっと勉強しろといいたい。
 
しかし、「名古屋は日本の真ん中で別嬪さんが多いのは日本一」とか「名古屋は日本の中京で」と謂われる素晴らしい土地なのである。 だから「尾張六十二万石を棒に振ってまで、真実を解明しようとした殿様の下で、幕末の田宮桂園に至まで、家中全体が反骨一途だった名古屋武士道」というものを尊敬するのは私だけだろうか。
(追記) 『名古屋史要』によると、この尾張という国は信長の頃から遊女を置かぬ土地柄であった。 だから、家康の末子義直が封ぜられて名古屋城を築くとき、九州の加藤清正らも築城の応援に入った。 しかし、こうした事情を知らずに入った女好きの清正らは弱りはて「これは不自由ではござらぬか」と談判され、やむなく慶長十二年に執政平岩親吉が、飛騨屋町(中区蒲焼町)に赤線地帯を許したが、名古屋城が出来上がると(はいそれまでよ)と国禁にしてしまった。 そして西暦1610年から131年目の享保16年の徳川宗春のとき、ようやくのことで解禁された。 この時の理由は「人の家婦に間媱(人妻のヨロメキ)他邦にも有りといえども、此地最も甚しく、人妻に梅毒はびこるは、これ娼家を禁ずる故なるべし」 とある。この本は名古屋市役所が尾張藩の史料によって、明治四十三年三月に発行したものである。 これをみると、売春を禁じた結果は今も昔も変わりがないようである。 尾張は、人目忍んで男が来たと喜ぶお国柄で、信長の母も浮気をし、実家の平手一族に殺されている。また若き頃の木下藤吉郎も妻の寧々と一緒になるそのなれ染めも強姦紛いの非常手段だったらしい。
秀吉の妻「ねね」の素性 ねねが藤吉郎と結ばれた謎 http://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=12
 
 
          名古屋不思議考
 戦国時代、信長から秀吉が権力をふるっていた頃を安土桃山時代とう。  この当時の公用語というのは勿論日本語ではあるが、名古屋弁だったのは 余り知られていないようである。 何故なら信長も秀吉も共に現在の愛知県生まれだから、権力者の使う言葉に どうしても馴染もうとするから、諸大名や陪臣も名古屋弁に慣れるため必死に 覚えたらしい。     ここに書いてある(ここにきぁあたる)  良くしてあげる(よーけしたるぎぁあ) 等と、これはごく一部だがこうした今に続く独特の名古屋弁には当時の大名達も随分と泣かされたらしく、 関が原の戦いで徳川に味方した一つの原因として、「又豊臣の天下になれば、難解な名古屋弁を使わなければならぬ。
 
あんな苦労はもう沢山だ」とばかりに、徳川に付いた連中も多かったという。   この名古屋弁は、当時日本へ来ていたイゼズス派宣教師のガブリエは、 「名古屋弁はアラブ語にとても似ている」と本国へ通信した報告書も残っている。  そしてこの尾張名古屋という土地は、特殊な地域で、幕末までは名古屋全体が 巨大な特殊だったことが窺われる。   (注)特殊とは、海洋渡来で太平洋沿岸に住み着いていた日本原住民で、 仏教や漢字を持ち込んできて強制的に統治した大陸勢力に反抗したため、 まつろわぬ民、として強制的に住まわせられていた民族の住んでいた場所を指す。
 
 現在平家等というのは間違いで、原住民が集団で強制的に居住させられた 場所で、規模の大小はあるものの、これは日本全国にあり、これが問題の遠因ともなっている。 さて、尾張名古屋は六十二万九千五百石で、徳川御三家の城下町でる。 しかしここは明治になるまで、何人も通行させてはいなかった。   東海道でも往還ともに名古屋城下は、参勤交代の大名行列といえども通行禁止だった。  岡崎や池鯉鮒、鳴海から「宮の渡し」と呼ばれた熱田の浜へ出て、そこから海上七里で 船で桑名へと渡る道順なのである。   そして慶安の由比正雪一党の討幕運動があって、一年後には承応の変と、倒幕事件が続いたため 慌てた幕府は幕府へ不満分子の京阪から江戸の往来を厳重に取り締まる必要に迫られ、東西街道の要衝である名古屋には特に厳重な目を光らせた。為に七つ過ぎになって薄暗くなると渡し舟に乗船する者の人相が見分け難いというので、 夜間の船は禁止にしてしまった。
 
 だがここは木曽川の川口に当たっていたから、大雨の日や、強風の時には、桑名へ 七里、四日市へ十里もあるため船は出せなかった。  そこで五里もある佐屋の渡しまで歩いていって、そこから桑名行きに乗ったり、東下りの際も、桑名から宮の渡しへ直行できるのは平穏な日だけで、 佐屋から加守、万馬、岩塚、そして宮の渡しへと、絶対に名古屋城下へは立ち寄らせなかった。  だから一般の旅人は勿論、大名行列などはさぞ大変だったろう。  こうしたことが書かれているのは尾張藩の侍だった天野信景の「塩尻百巻」を読めば 理解できる。   何故に名古屋城下を他国者の通行をさせなかったかと言えば、つまり秘境とか、平家の落人といえば、山奥の人目につかぬ場所と思いがちだが、  名古屋というのは当時でも江戸や京阪に次ぐ大都会だったが、実際は名古屋それ自体が巨大なだったのである。
 
    (注)以下の「徳川吉宗は名君じゃない」に、尾張宗春や名古屋人が、髷を結うことさえ許されず、   如何に過酷に扱われていたかの真相が明記してある。   http://blogs.yahoo.co.jp/jaotex555/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C6%C1%C0%EE%B5%C8%BD%A1&sk=0  
 
さて、足利時代の末期になると尾張の守護職斯波氏が今川に滅ぼさた。  そして今の名古屋城の辺りには、今川の軍勢が進駐軍として来ていた。  この当時の進駐軍は占領地の人間を兵力として自軍に徴用するものだが、今川はそうしなかった。何故なら 他の土地の者たちは、大陸から進駐してきた藤原氏の頃に、徹底的に奴隷化され、上の命令には絶対服従の掟が叩き込まれていたが、名古屋人は反骨精神旺盛で言う事を聞かない厄介な民族だったからである。
 
この傾向は大正、昭和時代の軍国時代までも続き、有名な「又も負けたか第三師団」と、日本陸軍の中で愛知県から徴兵された兵は、 弱兵の見本のように扱われていたのでも判る。  この意味は何も弱いことではなく、奴隷兵として、単純に命をかけてまで敢闘などしなかったからである。
 
 何しろ藤原時代には占領軍として、日本原住民を見下し、「身の終わり」とまで呼んでいた。これが「美濃」であり「尾張」なのである。 これは語呂合わせでも何でもなく、漢字を持ち込んできた彼らの「漢字のマジック」 なのである。
 
だからこの地を人間で無い者の住んでいる「人外の地」として、配流の土地として扱われていた程だから、藤原氏とは全く異種の民族が固まって住んでいる一種の開放地区のような土地柄だった。  というのは、昔は現在の地形と違い、愛知県の太平洋岸はもっと食い込んでいて南西からの黒潮暖流が名古屋湾から知多沖をどんどん流れていて、 今は国府宮の裸祭りで有名な愛知県海部郡津島も、その頃は海港として栄えていた。
 
 つまり今の愛知県や三重県は、南西から流れてくる暖流によって流され、運ばれててきた拝火教徒の難民が、次々と接岸上陸して、此処に彼らのタウンを作って住み着いていた。 この黒潮暖流の速さは6から12ノットもあり、いかだやアウトリガー付きの船でも 十分日本近海までやってこられることは現代潮流学でも証明されている。この西南方面からの古代海人族と今は呼ばれている人々は、北条時代を築いて、 北条政子は京の御所に根を張る大陸勢力を制圧し、上皇たちを佐渡島や各地に 配流している。 そして六波羅探題という京を取り締まる海洋系原住民の、いわば進駐軍司令部とも いうべき機関を南北に設置し、北条九代にわたって日本を統治した。
 
  しかし、その後に出来た足利政権というのは、がらりと変わり、大陸の当時の明国と提携といえば恰好がいいが、現在アメリカの属国となっていると同じように明国の属国となってしまう。 当時、日本へ毎年明国から使節がやってきて足利将軍を使節が謁見していた。日本史ではこれを朝貢外交といい、日本にとって大変な利益があったということになってる。
 
  だが日本から何を輸出して明から何を輸入したかが隠されている。  実態は当時日本に沢山採れていた金を、向こうからは鉄の粗悪なビタ銭を等量交換だった。  今も昔も鉄が全く採掘されない日本は、この銭を溶かして槍の穂先や弓矢の矢じりに作り変えていたのである。勿論、銭は通貨としても日本全国に流通された。しかし考えて見ると、例えば純金が10トンと鉄が10トンの等量だから、日本は大損である。
 
   北京の宮殿にこの日本からの金が山積みされているのを見たマルコポーロは 本国へリポートしているほどである。  また、明の使節を迎えた歴代の足利将軍家が、何十メートルも先から平伏しながらおでこを板廊下にコツンコツンと打ち付けるので、痛くて堪らぬから、もう少し回数を 減らして欲しいと願ったが、脚下されたという故事もある。  こうした事を例に取るまでもなく、決して対等外交でなかったことが判ろうものである。
 
  さて、閑話休題。   世界史を俯瞰すると、ヨーロッパの王侯貴族たちが、十字軍と称して現在のアラブへ攻め入り、略奪や 暴行はやりたい放題の時代があった。略奪した財物の半分はローマ法王へ献上し 残りは自分が盗るという取り決めで、おおいに荒らしまわった。 現地女への強姦も多く、この時の名残で現在のアラブ人は鼻が高くなったと謂われる程。  だからこの時多くの難民が海上へ逃れでて、前記したように海流に乗って、印度、ベトナム経由で紀州熊野灘、知多半島などに流れ着き、上陸し住み着いた。
 
 こうした者達は、新規外来人として京の三条へ集められ、そこの囲い地へ収容した。  そして寺の多い京だから、庶民から銭を巻き上げるため、今言う目玉商品にもあたる 客寄せを狙って、各寺の執事がきて、人間のセリにかけ、目の青いのや、真っ黒な肌の者達は三条の奴隷市場で高く売れたようである。
有名な達磨さんもインド系だが、言葉が判らず、大きな目をギョロつかせて 黙っていたのが有難く思われたのだろう。 面壁九年とこれをいうのである。 また、寺に買い取ってもらうことが出来なかった者は工人として親方に買われ、 武将の寵童として買われた者もいた。   こうした海洋渡来外来人に対しては、足利時代でも「平」の姓が被差別の姓として付けられた。  だから名古屋出身の信長にしろ秀吉は、このために平を姓としている。  つまり名古屋は他の秘境のように人里離れた山奥にひっそり隠れ住み、他と交渉を断っていたのと違い、堂々と大きな都市として存在していたので  徳川御三家の威力で統治し、他国者の通行を禁じたのである。