新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本人は馬鹿と阿保の絡み合い 阿保(アホ)の由来

2019-06-25 11:34:34 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
故、鶴田浩二の歌に「この世は馬鹿と阿保の絡み合い、何から何まで真っ暗闇だ」と、誠に悲しく退廃的な一曲がある。 日本人の過去の怨嗟を表していて誠に示唆的である。
さて、この言葉は普通、阿房とかアホの三太等と使用している。九州ではアホの房太という。ザイゴの金太郎ともいう。女人へはメンタ、バイタ(売女)、カズメとよぶ蔑称に使われている。 一方の「馬鹿」というのも、馬も鹿も四つ足の獣ゆえ、騎馬民族への侮蔑用語なのである。
中国勢力の藤原王朝期は〈大宝律令〉の法律を制定し、「」として、、雑戸、家人、、でした。
 
 しかし北朝(中国勢力)が勝って足利時代となると、南朝方(朝鮮勢力)だった地方の者はみな反体制の輩として被差別した。 今でも楠、新田、足助、脇坂、湯浅、菊池といった地名が、みな昔の除地には残っております。 「奉行」とよぶ役名を作り、彼らの地域を、地方によってその呼び名は異なるが、散(山)所、別所、院地、院内、垣内、界外と命名した。 その限定地内に強制的に収容をして阿呆扱いして、その子孫をとして酷使したのが日本歴史なのです。
(注) 歴史辞典には室町時代の職制で将軍家のお産を司るとある。〈吾妻鏡〉の寿永3年7月20日に梶原景時が、出産の奉行をしたからと引用して、まじめに説明をしている。 梶原景時や足利時代でも評定衆の中座や二階堂のれっきとした武者衆が、産婆さんや助産婦の奉行をするのはおかしいと歴史屋は思わないのだろうか。
実態は、足利時代に前体制の北条の残党や幕府創業の邪魔をした南朝方の者達を捕えて隔離して、、別所と区別した。つまりや山所、別所の奉行のことで、 その区別制度の実施を司った奉行の事なのである。歴史家が横着なのか、頭が悪い証拠である。
 
そうでもないことには足利末期まで、れっきとした武者が代々にわたって奉行、しかも、さしつぎとよぶ予備の奉行までが、ずっと置かれていたのは、 いくらなんでも将軍家専用の出産係では、全く辻褄が合わないことになる。 真実は何かといえば、足利時代中期からはインドのカースト制度を導入し、被差別制度をとったので、 ゲットーともいえる、囲い地へ強制的に送り込む役目の長官が「奉行」なのである。
 
 岐阜では「他外」として、タアケとよぶのですが(信長の事をタアケ殿と呼んだという言い伝えがあるのも、ここからきている)、 王朝時代の囲地に足利時代の南朝方の子孫のを加えると全人口の六割か七割もいたのである。山中に匿れているのを加えれば85%にもなる。 その中より美しい娘や働きのよいのは、豪いさまの妾にされ、その他は娼婦にされていた。男は下人として囲地から出されたが、それでも日本人の八割は阿呆となります。
 
 
これが半減したのは、8代将軍吉宗が享保二十年に「五街道目付」に彼らの中の旅商人や旅芸人といった外へでている連中に、朱鞘の公刀と捕縄を渡し御上御用を命じた時からです。 「伝達」を同信心ゆえつけて貰い、囲地のから次々と脱出。江戸や京坂、名古屋や博多に入りこんで、銭をだし町人別を求めて商人や職人になってしまったのです。 それでも、は南朝方の騎馬民族の白山信仰者ときめつけていた世間では軽くみて、「しろと(白人)は何をやらせても、くろと(黒徒、仏教徒)にはかなわぬ」となし、 今ではこれが、「素人、玄人」と区別されています。玄人とは原住民、つまり最初からの日本人の意味であるとしているが、仏教をもちこんできた坊主共の、 墨染めの衣のグループが日本原住民という事はありません。明らかにこれは作為で全くの逆である。各寺の説教に誤られて、は帰化人の溜り場と、まったく反対にされ今日に及んでいます。
 

おけらになっちゃつた おけらの由来

2019-06-25 09:14:26 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
オケラ虫という名で、土中の昆虫の事だが、日本各地にはオケラ祭りといって火縄を氏子にくばる鎖守が多くある。 言葉として「競馬で負けてオケラになっちゃった」とか「オケラ街道まっしぐら」等と使うが、その意味としては、「全然なくなった」事を意味する。 だがこの言葉の本当の意味と、オケラは土中に住む小型モグラのような可愛らしい虫なのに、何故こうした言葉を使うのかという謎である。
 
テレビ時代劇では武家屋敷には表札が出ている場面が度々出て来る。裏長屋の木戸口にさえ居住者の名が出ている。 大通りに面した商家の「越後屋」や「越前屋」等の大看板は間違いではないが、武家屋敷や長屋の表札は間違いである。 昔は郵便配達や宅配便など今のように多くはなかった。明治になって、戸籍で人口を把握し、強制的に徴税書や徴兵令状を送り付けるための、お上の都合で始まったに過ぎない。
 さて家というのは、土台をかためて、その上に建てる物なりといった考えは明治の末からです。 田舎では大正期に入ってもまだ地下に穴を掘って住居にし、地上には来客の時に莚をしいて坐らせる出(ディ)とよぶものの上に支え棒をたて、 左右立てかけの屋根をのせていたのは、菊池山哉の「日本の特殊の研究」の本にも、信州や甲州各地の実例が写真入りで多く掲出されて残っています。
 
 だから地上に家をもったり立身出世する事を、「陽のあたる場所へでる」などと言うのです。  〈延喜式〉にでてくる「編戸の民」を編んだ莚を戸の代りにしていたように誤っていますが、あれとても穴の上に莚をかけるのを、おかみより特に許された哀れな奴隷課役百姓のことであります。  藤原王朝時代には先住日本人のことを「根」とよんでいました。反体制派として絶えず警戒していたので、彼らを討伐し、みな殺しにしてしまうのを「根の国へ」とか「根絶やし」と称しました。 有名な青森のネブタ祭りも、討伐した原住民を、大きな穴を掘らせて、生き埋めにし、穴に草木で蓋をした。その上から生き残った者たちに踏ませたのが始まりなのである。
 
 穴の中には家族や子供も入っているから、強制的にやらされても、人情としてドシドシと踏めないから、 今もその名残で「はねこ」と呼ばれる者たちの踊りは、ひょこひょこと頼りない踊りになっているのである。
 岩手県の閉伊(夷)郡のごとく集団で追いこんで一の戸、二の戸、三戸、八戸と関所を作って出てこられぬようにするのも「根蓋」という。 おかみの命令で討伐軍の司令官坂上田村麻呂の絵を飾り立て、前記のように今はネブタ祭が盛んである。  「土蜘蛛」などと歴史書にはでてきますが、大和朝廷に従わない連中の元祖というか、私共のご先祖の穴居縄文日本人は、次々と討伐され降参したのは〈延喜式〉にあるように、 種モミを当てがわれて強制的に奴隷課役を命じられた。それを拒んで穴にもぐりこんで匿れているのは、大戦中の米軍の火炎放射器で焼き殺すように、 火のついた藁束を放りこまれて蒸し焼きとされて、みな残酷な全滅作戦で虐殺された。 それゆえ完全に処理したという表現が「オケラにした」なのであり、吾ら原住民の先祖たちが虐殺された歴史の悲しい言葉なのであります。