故、鶴田浩二の歌に「この世は馬鹿と阿保の絡み合い、何から何まで真っ暗闇だ」と、誠に悲しく退廃的な一曲がある。 日本人の過去の怨嗟を表していて誠に示唆的である。
さて、この言葉は普通、阿房とかアホの三太等と使用している。九州ではアホの房太という。ザイゴの金太郎ともいう。女人へはメンタ、バイタ(売女)、カズメとよぶ蔑称に使われている。 一方の「馬鹿」というのも、馬も鹿も四つ足の獣ゆえ、騎馬民族への侮蔑用語なのである。
中国勢力の藤原王朝期は〈大宝律令〉の法律を制定し、「」として、、雑戸、家人、、でした。
しかし北朝(中国勢力)が勝って足利時代となると、南朝方(朝鮮勢力)だった地方の者はみな反体制の輩として被差別した。 今でも楠、新田、足助、脇坂、湯浅、菊池といった地名が、みな昔の除地には残っております。 「奉行」とよぶ役名を作り、彼らの地域を、地方によってその呼び名は異なるが、散(山)所、別所、院地、院内、垣内、界外と命名した。 その限定地内に強制的に収容をして阿呆扱いして、その子孫をとして酷使したのが日本歴史なのです。
(注) 歴史辞典には室町時代の職制で将軍家のお産を司るとある。〈吾妻鏡〉の寿永3年7月20日に梶原景時が、出産の奉行をしたからと引用して、まじめに説明をしている。 梶原景時や足利時代でも評定衆の中座や二階堂のれっきとした武者衆が、産婆さんや助産婦の奉行をするのはおかしいと歴史屋は思わないのだろうか。
実態は、足利時代に前体制の北条の残党や幕府創業の邪魔をした南朝方の者達を捕えて隔離して、、別所と区別した。つまりや山所、別所の奉行のことで、 その区別制度の実施を司った奉行の事なのである。歴史家が横着なのか、頭が悪い証拠である。
そうでもないことには足利末期まで、れっきとした武者が代々にわたって奉行、しかも、さしつぎとよぶ予備の奉行までが、ずっと置かれていたのは、 いくらなんでも将軍家専用の出産係では、全く辻褄が合わないことになる。 真実は何かといえば、足利時代中期からはインドのカースト制度を導入し、被差別制度をとったので、 ゲットーともいえる、囲い地へ強制的に送り込む役目の長官が「奉行」なのである。
岐阜では「他外」として、タアケとよぶのですが(信長の事をタアケ殿と呼んだという言い伝えがあるのも、ここからきている)、 王朝時代の囲地に足利時代の南朝方の子孫のを加えると全人口の六割か七割もいたのである。山中に匿れているのを加えれば85%にもなる。 その中より美しい娘や働きのよいのは、豪いさまの妾にされ、その他は娼婦にされていた。男は下人として囲地から出されたが、それでも日本人の八割は阿呆となります。
これが半減したのは、8代将軍吉宗が享保二十年に「五街道目付」に彼らの中の旅商人や旅芸人といった外へでている連中に、朱鞘の公刀と捕縄を渡し御上御用を命じた時からです。 「伝達」を同信心ゆえつけて貰い、囲地のから次々と脱出。江戸や京坂、名古屋や博多に入りこんで、銭をだし町人別を求めて商人や職人になってしまったのです。 それでも、は南朝方の騎馬民族の白山信仰者ときめつけていた世間では軽くみて、「しろと(白人)は何をやらせても、くろと(黒徒、仏教徒)にはかなわぬ」となし、 今ではこれが、「素人、玄人」と区別されています。玄人とは原住民、つまり最初からの日本人の意味であるとしているが、仏教をもちこんできた坊主共の、 墨染めの衣のグループが日本原住民という事はありません。明らかにこれは作為で全くの逆である。各寺の説教に誤られて、は帰化人の溜り場と、まったく反対にされ今日に及んでいます。