「姪児を葦舟に入れて大海に流す」という神話から想像して、太古は人間を水葬にしたのかともする。 しかしこれは違って、アラブのナイル河のパピルス舟と同形の前部三角形、後部が角ばった扁平型の舟は、オーストラリアにも出土している。 さらに、南米ペルーのチチカカ湖にも残骸がみられるというから、古代海人族の有色人種は、まだ白人が文化度が低く野蛮人だった時代にも、 文化の高かった有色人種たちは、この葦船に乗って海流を利用して航海することを知っていたと想われる。 だからアラブの人たちは、日本だけでなく地球上の各地に流布して、それぞれの文化を築いていたらしい。
阿修羅
現在もこの阿修羅は、インドやアラブ共通の神々にて、ペルシャ拝火宗では、アフラ・マズダとし、仏としている。 しかしこれは、後の仏教側の作為で全く違う意味なのである。 「ア」というのは差別用語で、アの冠頭詞にシュラがアラブ語なのである。
日本ではコンピイラが海神ゆえ、「コンピラフネフネ追手に帆かけてシュラシュシュシュ」と唄に残っている。 巧く仏教川語にされてしまっているが、シュウラは今でいう起重機に当る。船の積荷をあげるクレーンでもある。 仏教側が日本に進駐してきて、延暦寺をを険しい山頂に建てた際は、清水建設も大林組のような建設会社は当時はなかった。 誰が造ったのかと言えば常識的に考えれば、強制的に駆り出された日本原住民である。 今でも行った人は良く解ると思うが、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院である。 今も当時も鉄鉱石が採れない日本は、鉄の鎖は作れなかった。だから、 イチビの樹皮で編んだ綱で修羅を曵っぱり上げる際、崖の岩で擦り減った綱が切れ、積んでいた巨石や大木が転がり、その下敷きになった。 さらには崖下に転落して、延べにすると何千人もの人間が下敷きになって死んだ。 こうした情景が修羅場であり、修羅の巷といった言葉を今に残しているのである。
ユネスコ世界文化遺産に登録され、観光収入で大いに儲かっている寺で結構なことであるが、 我ら日本原住民ご先祖様たちの、文字通り「血と汗と涙」の結晶で建てられた事を偲び、どうぞお参りの際には、一掬の花を手向けて頂きたいものである。
金毘羅に関して以前の記事を以下に重複するが再掲しておきます。
東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。 こうした残虐な実態をどう考えるのか。そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。 「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、 吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか? 「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」 というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。 ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、 曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。 この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、 「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。(注)修羅とは、現代の起重機の事。 いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。
信長が作った安土城
淡水魚好きな信長
仏教嫌いの信長
織田信長は幼少から尾張五条川の清州城で育ち成人した。そして海の無いため海の魚には縁がなく、川や池の魚を多く食して成人した。 だから子供の頃の味覚は大人になっても変わるものではない。 五条川で捕れるボラやフナを大いに食べた。また、長良川のアユが美味だと知れば、近くに岐阜城も建てている。 さらに淡水魚の王とも称される鰉(ひがい)や姫鱒の群がる琵琶湖畔の弁天涯に築城したのが安土城なのである。 岐阜城にしろ安土城にしろ、全く地理的戦略上の必要性から建てられたものではない。
信長が京に上って接待を受けた際、四条流の包丁方が、若狭湾で捕れた鯛の塩焼きや様々な料理を出したが、箸を付けてもらえず、 困惑した挙句、近くの小川で捕ってきた小鮒の味噌漬け焼きを出したところ、大いに美味だと喜ばれたという。 これは信長の淡水魚好きを現した逸話として有名である。
さて、この絢爛豪華と云われた安土城は、天正15年2月15日に焼払ったのは、講談では明智左馬之助こと明智秀光となっているが間違いである。 実際の放火犯は信長の次男の信雄(のぶかつ)なのである。 信雄は蒲生氏郷と共に、土山より出兵してきて、明智光秀が坂本へ引き上げた後、無人となった安土城には信長の奥方、奇蝶御前が残留していると知り、 「彼女こそ信長殺しの黒幕である」と思い込み、焼き殺すために火を付けたというのが真相である。 しかし今では、明智秀光が放火したもののごとく、現地では誤られてしまっているのである。
さて、信長の仏教嫌いで有名な「安土宗論」にも触れておく。 織田家というのは元々が拝火教だから、中国勢力の仏教とは対立の関係だった。 そして仏教には様々な流派が在って、浄土宗も日蓮が起こした日蓮宗も忌み嫌っていた。 そのため天正7年5月27日、双方の代表を呼んで対決させたのである。 信長としてはどちらが勝っても許す気などなく、共倒れを狙っていた。しかし浄土宗側は信長の意向を前もって察していて「全て上様の御意次第でございます」と 叩頭平伏した。ところが日蓮宗は僧兵まで伴って安土に乗り込んだものだから信長の逆鱗に触れ、宗論では浄土宗に勝ったが、 信長の武者共に叩きのめされて、京より追放となった。ここで哀れ日蓮宗は勢力争いで敗れ去ってしまったのてある。