新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

太古の時代世界を航海した葦舟 阿修羅とは 安土城

2019-06-16 10:22:37 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
 
 「姪児を葦舟に入れて大海に流す」という神話から想像して、太古は人間を水葬にしたのかともする。 しかしこれは違って、アラブのナイル河のパピルス舟と同形の前部三角形、後部が角ばった扁平型の舟は、オーストラリアにも出土している。 さらに、南米ペルーのチチカカ湖にも残骸がみられるというから、古代海人族の有色人種は、まだ白人が文化度が低く野蛮人だった時代にも、 文化の高かった有色人種たちは、この葦船に乗って海流を利用して航海することを知っていたと想われる。 だからアラブの人たちは、日本だけでなく地球上の各地に流布して、それぞれの文化を築いていたらしい。
 
 阿修羅 
現在もこの阿修羅は、インドやアラブ共通の神々にて、ペルシャ拝火宗では、アフラ・マズダとし、仏としている。 しかしこれは、後の仏教側の作為で全く違う意味なのである。 「ア」というのは差別用語で、アの冠頭詞にシュラがアラブ語なのである。
日本ではコンピイラが海神ゆえ、「コンピラフネフネ追手に帆かけてシュラシュシュシュ」と唄に残っている。 巧く仏教川語にされてしまっているが、シュウラは今でいう起重機に当る。船の積荷をあげるクレーンでもある。 仏教側が日本に進駐してきて、延暦寺をを険しい山頂に建てた際は、清水建設も大林組のような建設会社は当時はなかった。 誰が造ったのかと言えば常識的に考えれば、強制的に駆り出された日本原住民である。 今でも行った人は良く解ると思うが、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院である。 今も当時も鉄鉱石が採れない日本は、鉄の鎖は作れなかった。だから、 イチビの樹皮で編んだ綱で修羅を曵っぱり上げる際、崖の岩で擦り減った綱が切れ、積んでいた巨石や大木が転がり、その下敷きになった。 さらには崖下に転落して、延べにすると何千人もの人間が下敷きになって死んだ。 こうした情景が修羅場であり、修羅の巷といった言葉を今に残しているのである。
ユネスコ世界文化遺産に登録され、観光収入で大いに儲かっている寺で結構なことであるが、 我ら日本原住民ご先祖様たちの、文字通り「血と汗と涙」の結晶で建てられた事を偲び、どうぞお参りの際には、一掬の花を手向けて頂きたいものである。
金毘羅に関して以前の記事を以下に重複するが再掲しておきます。
 
東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。 こうした残虐な実態をどう考えるのか。そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。  「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、  吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか?  「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」 というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。 ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、  曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。   この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、  「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。(注)修羅とは、現代の起重機の事。  いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。
 
信長が作った安土城
淡水魚好きな信長
仏教嫌いの信長
織田信長は幼少から尾張五条川の清州城で育ち成人した。そして海の無いため海の魚には縁がなく、川や池の魚を多く食して成人した。 だから子供の頃の味覚は大人になっても変わるものではない。 五条川で捕れるボラやフナを大いに食べた。また、長良川のアユが美味だと知れば、近くに岐阜城も建てている。 さらに淡水魚の王とも称される鰉(ひがい)や姫鱒の群がる琵琶湖畔の弁天涯に築城したのが安土城なのである。 岐阜城にしろ安土城にしろ、全く地理的戦略上の必要性から建てられたものではない。
 
 信長が京に上って接待を受けた際、四条流の包丁方が、若狭湾で捕れた鯛の塩焼きや様々な料理を出したが、箸を付けてもらえず、 困惑した挙句、近くの小川で捕ってきた小鮒の味噌漬け焼きを出したところ、大いに美味だと喜ばれたという。 これは信長の淡水魚好きを現した逸話として有名である。
さて、この絢爛豪華と云われた安土城は、天正15年2月15日に焼払ったのは、講談では明智左馬之助こと明智秀光となっているが間違いである。 実際の放火犯は信長の次男の信雄(のぶかつ)なのである。 信雄は蒲生氏郷と共に、土山より出兵してきて、明智光秀が坂本へ引き上げた後、無人となった安土城には信長の奥方、奇蝶御前が残留していると知り、 「彼女こそ信長殺しの黒幕である」と思い込み、焼き殺すために火を付けたというのが真相である。 しかし今では、明智秀光が放火したもののごとく、現地では誤られてしまっているのである。
さて、信長の仏教嫌いで有名な「安土宗論」にも触れておく。 織田家というのは元々が拝火教だから、中国勢力の仏教とは対立の関係だった。 そして仏教には様々な流派が在って、浄土宗も日蓮が起こした日蓮宗も忌み嫌っていた。 そのため天正7年5月27日、双方の代表を呼んで対決させたのである。 信長としてはどちらが勝っても許す気などなく、共倒れを狙っていた。しかし浄土宗側は信長の意向を前もって察していて「全て上様の御意次第でございます」と 叩頭平伏した。ところが日蓮宗は僧兵まで伴って安土に乗り込んだものだから信長の逆鱗に触れ、宗論では浄土宗に勝ったが、 信長の武者共に叩きのめされて、京より追放となった。ここで哀れ日蓮宗は勢力争いで敗れ去ってしまったのてある。
 

謎の青葉城帝座の間 仙台の袋槍の秘密

2019-06-16 09:56:59 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
島原の乱に先立つこと五年、寛永十三年五月二十四日に伊達政宗は、七十歳で亡くなり、跡目は次男の忠宗がついでいた。 処で、青葉城の別名がある仙台城の大広間には、「上々段の間」又の名を、「帝座の間」ともよぶ、十六枚の菊飾りのついた御座所があった。  伊達家代々の殿様が、この大広間を用いるときは、その上々段にまず拝礼し、下った城主の段に座をしめ、絶対にそこへはあがらなかったという謎の御簾の問である。
 
これを「宮城県史」では、「豊臣秀吉の聚楽第の御座所を模して、そっくり同じに造営したもの」と説明するが、何故そうした御座所がもうけてあったかは、不明らしく言葉を濁している。
 これは、その聚楽第の解明が、今となってはもはや出来ていたいからだろう。  京の中央部、戻り橋先の十町四方の民家や社寺を強制的に取潰して、万博会場にも匹敵する宏大なものを秀吉が造営したのは、自分が即位し御座所とする為だったのが知られていないせいである。
 
このことは当時の奈良興福寺多聞院英俊も、「皇太子誠仁親王さまは、はしかでなくなられたというが、三十五歳の方が小児の病でなくなる筈はないから、秘かに伝えられるように殺されなすったか自害だろう。 が、もうこれで秀吉めが帝位につくのは、はっきり定ったようなものである」その日記にこうしたためて居る。
 しかし、まだ迷信が蔓延していた時代である。親王の怨霊がたたって天変地異が続き、秀吉の命さえも危いと脅された結果が、正親町帝の退位は強行したが、秀吉は自分では即位できず故親王の遺児をたて、 後陽成帝とし奉った。
 
しかし伊達家としては、この後またこうした不祥事が起きた節は、「この東北の城へお迎え奉って、柤伊達行朝以来の御奉公の心得を忘れるな」と、これを造営したものだろうとする説と、 原田甲斐が後西天皇のために作ったとする二通りがある。  しかし、御一新になると、新政府の首脳部となった薩長人は、旧幕時代は食うや食わずの軽輩で自分らの生国の事しか知らぬから、いと単純に、  (秀吉は反徳川ゆえ勤王だったろう)ぐらいに考え、彼が帝位を狙った不敬も知らず、豊国神社の再興を許し、「正一位」さえ贈り、 やがて国定教科書を作る時にも、明治軍部が秀吉の朝鮮征伐を自分らの都合で高く評価したから、どんどん義務教育で秀吉を賞めそやした。 また一般の人士も、「仙台や東北諸藩は維新戦争の時は、朝敵だったのだから、そこに帝の御座所とは何かの間違いではなかろうか」 と考えてしまい、そのため「伊達騒動」という討幕運動を、原田甲斐や伊達兵部は、徳川史観の引き続きで、そのまま悪臣にされてしまっている。
仙台の袋槍の謎
槍先とか槍首というのは、日本では二股とか三っ股も在るが、直槍が普通である。なのに仙台藩の武士達だけは戟とよぶのを樫の棒の先につけ、普段は袋に収めて、隠し戸棚に蔵っていたと言う。 ここに何故なのかという疑問がわいてくるが、歴史屋はこの疑問に、勉強不足で解らずなのか蓋をしている。 さて、大陸系の藤原王朝時代に「華城」(中華の城の意味)と呼ばれた多賀城の砦があったのは仙台だけである。だから此処は他と違う様相を呈している。
 
普通の武士達は、槍は長押にかけてあるが、仙台藩の武士達の家にはそうではなく袋に入った槍首が、それに差し込む樫の棒とは別個に蔵われていた。 といってもそれは日本式の槍先ではなく、凸型の中国の戟の尖端なのである。つまり棒の先にねじこんで冠せ、下にねじ釘を差し込んで固定させるものである。 つまり仙台藩士の家には、他と相違する中国製武器が代々伝わっているということは、八世紀に、勇敢に抵抗する日本原住民を討伐する為に建てられたアメリカのリオグランデ砦と同じように、 多賀城に進駐していた唐国兵の武器が残っていたということになる。
 
この頃の進駐軍の武器は、投石機の大石弓や袋槍の戟、日本刀と違う鋼製の青竜刀や両刃の剣だった。
これは<続日本紀>や<日本後記>に明確に記されている。 つまり、多賀城駐屯兵が土地の女に子を産ませたその子孫が、やがて後には仙台藩士となったと思われる。今では判らなくなっているが、江戸時代には、仙台には中国系の血が混じった人間が多いと、 誰もが知っていたことなのである。 そして仙台城だけが、何処の城だって樹木が青々と茂っているのに特に「青葉城」と呼ばれる訳も、かって東北へ追われた原住民が、アオと蔑まれ、 先住民達が多く住む土地の意味でセンダイといい、アオの城という意味で「青葉城」ともなった。
そして仙台城の本丸に十六枚の菊紋つきの上段の陰間が存在したり、伊達政宗が後西天皇の生母の妹を、銀二十貫で求め、仙台へ引取り倅忠宗の子供を産ませたのも、 大陸系皇室に対する今で言うシンパ的行為であろう。 それゆえ、その伊達綱宗が当主となり従兄に当たる後西天皇が、窮乏していた御所の為に、銀の無心に伝奏役の姉小路卿を使者に遣わせた。 しかしこの事が朝廷と結託して幕府に対し謀叛容疑となって、綱宗は「素行不良」の名目で閉門蟄居となった。
 
  後西天皇も、わずか十歳の次帝に強制的に譲位させられた。 そして、あろうことか仙洞御所に竹矢来を作って後西様を入れるのに、入費が嵩むからとけちって、今の京都御苑内に幽閉してしまった。  仙台人と京都人は同種の者と江戸表では警戒しての処置で、その当時での治安維持法である。  明治維新の際、仙台は大藩ゆえ、主となって結んだ奥羽越列藩同盟も、主軸の仙台が真っ先に錦旗に降伏して、為に東北を敗戦にさせたのも、 やはりどうも、それなりの血の流れによる訳であるらしい。
この伊達仙台藩は、政宗の時代、天下を狙っていた証拠がある。支倉常長を欧州へ派遣したのも、スペインから直接硝石の輸入を図った事が真相。
 
 しかしスペインのフェリッペ国王は、様々理由をつけ答えを引き延ばしたため、支倉はローマ法王にまで直訴したが雄図虚しく帰国せざるを得なかった。  帰国してみれば大阪合戦は終わっていて、徳川の天下となっていた。これが遠因で伊達騒動も起こり、幕府は伊達藩を取り潰そうとするが、原田甲斐らの犠牲で免れている。

日本ヤクザの発生史 神祇は仁義ではない

2019-06-16 09:33:57 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
かってこの日本列島へ、中国勢力が、国教として持ちこんできた仏教を強制信仰させるため各地に国分寺が作られた。 しかし、そんなものに見向きもせず、抵抗して反抗して始末の悪い日本原住民の騎馬民族系が東方系ゆえ「東方瑠璃光」の東光薬師を奉じさせた。 これは仏教は「西方極楽浄土」だが、原住民にも解り易くと「光は東方にもあり」としたものである。  がそれでも彼らは白頭山をしのび加賀の白山をもって「おしらさま」なる信仰を棄てなかった。
だから、やむなく仏教側は本地垂迹説がうみだされたのである。つまり仏陀が衆生を救済するために、各地に神と化身され現われたもうたのだから、 拝むのは一緒であると彼らを教化する為の神仏習合説である。
 
しかし騎馬系の源頼朝らと一緒に旗上げした拝火宗の、平の清盛一族より早くに日本の伊豆半島に漂着し定住していた、 古平氏である北条政子の時代が続いた鎌倉時代にあっては、仏教弾圧のため京の天皇や上皇を次々と配流にし、なむあみだと唱えることさえ禁じ、 逆に、「反本地垂迹説」までうちだした。つまり神が使いとして仏を遣わしたにすぎぬから、菩薩など拝むことはないとして、神社もカラ神つまり朝鮮半島からのものの他は、 みな平氏の民族色である赤色の、紅殻を塗って赤染めにしてしまった。
 北条九代が終って足利期になると「祗」とよばれる赤塗り社は弾圧差別された。祠堂の奉仕者は博士小太夫と蔑まれ、信徒や門徒は博徒と人外視されて、 犯行すれば橋のない川向こうの寄せ場へ入れられた。 後年、平姓を名のる織田信長は、彼らだけに商売を許し清洲を楽市とし無税にし、やがて課税のための諸国の関所も撤廃させた。 天下布武のため彼らは進んで各地を攻略してゆきヤ衆の名を広め、この者たちがやがて江戸時代になると、道の者となり、十手捕り縄を預かって、各地に定住する。 そして、捕り方を養うため、全国に博打場を開帳し、その寺銭(テラ銭)を当て、これがやくざとなっていくのだが、詳細は後段に譲るとして、
何度も続く山口組に代表される「やくざの抗争」についても触れておく。
 
 ここでヤクザの擁護論を開陳するつもりは無いし、勿論抗争事件で民間人の死傷等は論外である。 だが、 彼らが命がけで組織縄張りを守る行動の先には死や懲役覚悟の固い覚悟があるのだからヤクザどうしが殺し合いをする分には一向に差し支えは無い。 一方のカタギの世界だとて、企業間の乗っ取りや合併は権謀術策を駆使して熾烈な戦いを繰り広げ、そのための自殺も多い。これだとて間接殺人といえるだろう。 しかし、警察つまり国家権力のヤクザに対する暴対法のような悪法は指弾に値するだろう。  現行の法律で十分対応出来るのにこんな法律を作らなければ対抗できない現状は、警察権力の怠慢であるし、勝負あったという事である。
 
 そして暴力団員はゴルフをするな、部屋を貸すな、セキュリテーは受けるな等独裁国家でもあるまいし酷すぎる。 そのうち、道路を歩くな、息をするな、飯を食うなと始まりかねない。
 そもそもヤクザを暴力団という新語を造り、その範疇に味噌も糞も一緒くたに括ったのが間違いなのである。 ヤクザには賭博を生業とする博徒と、タカマチで商売をするテキヤが厳然と住み分け、その縄張りは双方侵さないという不文律があった。 やくざが表社会の様々な利権に関わるようになった原因は、彼らの収入源である、タカマチの商売と賭博権を取り上げたことに起因する。
そのくせ、政府のやっていることは競馬の寺銭25%、宝籤にいたっては、一兆円の売上げの中、政府総務省(籤に関連する各種天下り団体含む)、銀行、自治体などで五十三%以上ピンはねをしている。  従って庶民の射幸心を散々煽っておいて四十七%しか支払われていい。
 
こんな阿漕な商売はヤクザは絶対しないのである。何故なら江戸時代から現在モグリで開帳している博打の寺銭は五分と決まっている。  要は、オカミに寺銭が入るものは許可し、それ以外は認めないという誠に姑息な制度を作っているのが現政府自民党なのである。  自分達の取締の力不足を棚に上げ、ヤクザだけを悪と決め付ける現在の風潮を何と見るかである。  何故なら、表の世界、つまりカタギ社会の悪行は目を覆うばかりで、警察の不祥事は後を絶たないし、大企業の嘘や、誤魔化し、無責任、不正の隠蔽工作も近頃は目に余る。 さらに国会議員から、村の議員まで選挙違反、公費の乱費、女の問題等々その悪行と質の低下は数え上げればきりが無い。  全くこれは目糞鼻くその世界である。
 
     ヤクザの発生史
 さて、ここで少しヤクザの発生について考えて見たい。  江戸時代八代将軍吉宗の貞享二十年から、今で言うならハイウエーパトロール並の五街道目付という制度が作られ、この役目を担ったのが堂(道)の者と呼ばれていた拝火教徒の流れ遊芸人達である。 彼らは平氏の流れをくむ者であり、平氏の民族色は赤だから、目立つように赤い鞘の公刀と捕り縄を持たされ、街道目付となったのである。
そして、彼らに逮捕から裁判、処刑の一切の権限を与えたのである。  後には彼らは様々な土地に定着してヤクザとなり、日本全国の縄張りを決めて、博打のテラ銭で子分を養い、捕物の費用もそこから捻出したのである。 これは徳川幕府のズルイ政策で、人の嫌がるこうした謂わば「汚れ仕事」を彼らにさせ、その上給料も払わず、幕府の財政をけちったのである。
だからそれまで、徳川の御政道で差別されていて、日本各地の別所、つまり除地と呼ばれていた限定地に収容されていた者達が、同族が街道見回り目付となったものだから、  同族の助け合いの精神で、伝達をつけて貰い、各地から秘かに脱出して、仕事があって稼げる江戸や京、大阪へと次々と流入した。 彼らは街道や宿場で会うと、何処々の別所の人間だという、いわば同族の表明をするため神祇を切ったのである。 今は「仁義」という文字に変えられているが、敗戦後(昭和20年~30年代)のやくざのチンピラは粋がってこの仁義を(隠語でロズを通すという)よく切ったものである。 これが「花仁義」という。
「かよう大道、つま折りまして青天井、見晴らしの仁義失礼さんにございます。手前生国と発しますは関東に御座います。関東関東と申しましてもいささか広うござんす。 荒川関八州、水豊かに流れまして金波銀波も波高き花の大江戸、その名変わりまして大東京、手前生まれも育ちも東京神田に御座います。手前従いますは飯島連合会、立花一家にございます。 若頭務めます唐沢五郎若者、姓は笹島、名を剣史郎、若輩者に御座います。以後万端よろしくお頼み、お願い申し上げます」と、こんな具合である。
閑話休題、この先鞭をつけたのが誰あろう紀伊国屋なのである。
というのは、紀文(紀伊国屋)の生まれ住んでいた所は、紀州の湯浅別所でここは南北朝の頃、後醍醐天皇の南朝方の土地で、楠木正成や新田義貞らの残党が押し込められていた土地だから、 足利時代から「北朝の足利尊氏に敵対したふとどきな者達」と被差別地帯になっていた。  つまり奴隷扱いで死なせても構わない者達として、荒天の蜜柑船にに乗せられたが、船は難破し船主や船頭は死んだので、積荷の蜜柑も相馬で処分、金に変えて江戸へ出たのである。
 現在では紀文を蜜柑で大儲けしたと誤っているが、難破船で塩水を被った蜜柑を売ったとて高が知れている。  本当の所は江戸へ出てから、大火の際、復興の材木が高騰し、紀文は各地の山者も同族だから手付金なしの後払いで木材を集め、江戸へ運ばせて巨万の富をつんだのである。
 そして故郷の湯浅別所から次々との者達を呼び寄せ、金の力で寺人別も手に入れたのである。  産業も何も無い江戸の人口が130万を越えて当時世界一になった謎はここにある。
 こうしたヤクザの歴史は、古く、徳川幕府時代同様に、維新後も警察権が薩摩に移った後も新政府は「壮士」という美名で反政府運動に立ち向かわせ、大いに利用した。
さらに、第二次大戦の敗戦後も、疲弊した警察力を補うため、戦勝国でもない朝鮮人の横暴に、ヤクザや右翼を大いに利用した。 そして戦地から戻った特攻隊崩れや兵隊あがりが新興ヤクザとなり、安藤組の安藤昇に代表される「東興業」のように綺羅星の如く隆盛を誇った。  政治も反共の名の下に、彼らを利用した事実は、多くの書物に詳しく述べられている。
こうした歴史を俯瞰したとき、ヤクザに対する体制側と、それに迎合したマスコミの悪意と虚実に満ちた論評を真に受けて、差別に等しい現在の風潮に疑問を抱かざるを得ない。
従って、 ヤクザの反社会的行動(犯罪)を減らす特効薬として次の政策を実行すれば良い。 それは彼らの伝統職業であるタカマチの商売と賭博を認め、利益や寺銭は所得として申告させ、正当な課税をすればよいのである。