新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

敬語を使う不思議な日本人 占領軍最後の将軍マッカーサー 世直し(革命)の出来ない日本 庚申(こうしん)待ちとは何だったのか

2019-06-12 11:42:40 | 新日本意外史 古代から現代まで
敬語を使う不思議な日本人
隠されている「日本原住民史」
占領軍最後の将軍マッカーサー
世直し(革命)の出来ない日本
庚申(こうしん)待ちとは何だったのか
 
 
日本には尊敬語の一分類で、謙譲語がある。 これは尊敬語のいわば裏返しとなる形をしていてその眼目は、へりくだる意思を託する形の表現を、こちら側に使うことであちら側を立てる(高く置く)こととする。 例えば、あちら側での「おっしゃる」に対し、こちら側では「申し上げる」と使う。 世界の言語の中でも「まこと比類ない、日本語の難しさは、他国語には絶対にない敬語のせいである」と称されている。
 
アメリカにしろ何処でも、なんといっても白人と有色人の違いはすぐ一見して判別できるのに、他に比のないような日本列島では先住民族である現今の庶民も、 この列島に渡来してきた大陸人もみな同じ黄色人種だった。だから見分けがつかなかったのである。そこでうっかり話をしては後の咎めが怖ろしいと、 さも他意がないように可否を明確にせず無憲味な愛想笑いをしたり、後難を怖れて、叮寧な口をきいた昔の生活の知恵が、その習い性となってしまったのであるが、 はたして今となってはそれさえ知られてはいない。
日本では「本当の事をいえば身も蓋もない」と考えたがらないし、厭やなものは見たくなく判りたくないというのは人情として解る。
 
しかし、日本史の真実を死ぬ前にそっと本当のところが知りたいと願う人や、昔からどうしても引っ掛る謎があると気にする人もいるにはいるのである。
今でも「史実」「史伝」などと免罪符のごとくしたり、恰好よく体裁ぶって権勢や金力に仰合し、金儲けの手段としてのみ利用されてきたのが歴史のありかたにされているが、 臭い物には蓋をではなく、人間には過去の具象として真実を見詰める勇気が必要なのである。 民俗学へ転向してしまった柳田国男が、まつろわぬ国ツ神の末裔を山人だとしたのに対して、大江健三郎は故郷の村で聞き知った事柄から、『同時代ゲーム』を、 日本原住民族が大陸勢力に、追われ排除された、国ツ神の子孫の側より書きあげそくれたのは有難い。
戦に負けて一度も抵抗しなかった国の不思議
さて、日本は大東亜戦争に負け、本土に進駐してきた最後の将軍がマッカーサー元帥である。 強大な権力で日本に君臨したが、次第に本国の云う事を聞かなくなったとして、彼は解任された。しかし米国民はこれを大いに非難した。何故なら彼は次期大統領候補として 人気が在った為、政治的陰謀だと見なした為である。 その当時のワシントンポスト紙に「マッカーサー統治中日本では、近代史上稀有な反乱が絶無だったのは、彼の統治が偉大であった功績でもなく、素晴らしかったと惜しまれるものではない。
 
 何故ならば彼が統治してきた者たちは、かって大陸勢力によって統治支配の歴史が長く、島国ゆえ他へ逃亡は不可能で、叛乱すれば殺掠されるしかない過酷な運命におかれ、 権力に対しては絶対服従の国民性を今に伝えているに過ぎぬからである」と大統領補佐官筋のコラムがあった。 これは、元帥解任の批難への反撥だったらしい。
そういえば、八路とよばれていた中国共産党軍の第一線に立って勇猛に攻めこんでくるのは捕虜になった旧日本軍だった事実があった。 さらに、かつて豊臣秀吉の大軍勢を悩ましたのも「降倭」と呼ばれた旧日本武者なりと伝わっている。全く可笑しなな国民性である。
 
 だから旧軍部は「戦陣訓」で、生きて捕虜となるな、自決すべしと苛酷な軍律を日本兵に強制したのである。 日本兵は実に勇敢に戦うが、捕虜になると将棋の駒みたいに取られると、今度は親方星条旗でも向うの意の儘に使われる。いや進んで協力して好い子になろうとしたがる兵が多い。
こう書くと、反発する方も多いと思うが、真珠湾攻撃の特殊潜航艇の酒巻少尉は、日本人捕虜の第一号になった。普通の軍隊では捕虜になると、 尋問を受けた場合には、自らの氏名、階級、生年月日及び識別番号等を答えなければならない(ジュネーブ条約第三条約第17条第1項)となっている。 しかし彼は、それをあろうことか、日本海軍の暗号までペラペラしゃべっている。このため米国は暗号を解読して、山本五十六大将を撃墜死させることができた。 このためまさか「お前のお陰で山本を殺すことができた」とは言わなかったろうが、後に捕虜なのにワインを一本与えたという裏話がある。
 
 日本では戦死したと思って「軍神」に祭り上げ、美談としているが、実際は将校でさえこんなものなのである。
日本には「民草」という言葉があるけれど、民は陽のあたる側で、草はそうではない日陰者なのである。 ロスアンゼルス公共図書館にあったR・ケーラーの「研究・日本人」には、「日本人は密告を恥とはせず、むしろ義務に置きかえ、誰にしろボスとなった者へは絶対従順」と、 強制移住収容地での同胞見聞記を読んで納得できた。
日本人の多くは、正嫡の民でないゆえ自分らのことを平気で、「われら庶民」というが、こうしたことに疑問を持ったため、 改めて自分なりに納得のゆく常識方式で歴史なるものを見直してゆくようになったのが、この労多くして何も報われない道に進んだ経緯である。
 
といって別に奇をてらう訳ではなく、有るがままに判断してゆくだけなのに、これまで誰も何故手掛けえなかったのかと首を傾げたくもなった。片っ端から調べてゆくと多くの先輩が、 木村鷹太郎は、やりかけて放棄、飯田忠彦は記紀だけに頼って成らず、柳田国男は折囗信夫との間柄を公表されると迷惑を及ぼすとし民俗学の新分野に転向した。 白柳秀湖は家族を慮って右翼評論家に転向して終った。
記紀の内容は借信しかねる
 が、先人が踏みこんで惑わされた迷路は、高天原に降臨したもうた方たちが、きわめて数多く先住民族は僅少でみな誅殺抹消され、残りは同化したとする思向であったらしい。 しかしマッカーサー進駐当初でも日本の人口は8千万とみて、その1%の80万だった。それゆえ弥生時代で石斧や竹槍しか持たぬ先住民族に対し、鉄剣鉄矛の方たちも、 やはりそれ位の割合の比例ではなかったかと想像できる。「世直し」というが、明治のご一新を迎えるまで後段の「庚申待ち」の項にあるごとく、江戸の庶民の町人たちは根気よく辛抱強く、 60年目に一度ずつ太陰暦では廻ってくる庚申の年を、繰り返し気長に寄り合い待ち続けていたのではどうも食い違いすぎる。
 
 それと自村江の戦いの5年後の天智8年に「大唐、郭務棕ら二千余人を我に送る」の一章でも誤られるが、4年前の天智3年5月17日には、唐の朝散太夫郭将軍らは既にもう来ているのである。 自村江の戦いで日本軍を破っているのゆえ、さぞ勝ち誇って入城式をしたと思うのが常識である。 なのに日本史では「表函と献物とを進む」と記されている。 今も昔も外地で敗戦した兵が、許されてみな直ぐ戻ってくる訳はない。当時の百済人の奈良王朝は、男共は皆戦地へ出かけて空っぽだった筈である。 この「彼我」が、どうも逆転らしいのは、その年の2月9日に冠位二十六階制度が発布され、大陸人の弁髪に真似せんとして、髮を仲ばし始めは見苦しいゆえ、本来は戸外で被る帽子を室内でと変るのでも判り得る。
今の学校歴史が出来た明治22年は中国大陸進出の矢先ゆえ、「チャンコロなにするものぞ」と意気軒高の風潮が強く、 その当時の中国大陸の日本への影響や関連を一切排除してしまった。だから、そこで記紀の辻つまが合わなくなるのである。その癖、やがて日露戦争後の南満州鉄道時代からは、正倉院御物の硝子器までが鴨緑江経由で、天山山脈越えに、遥々と地球を横断するみたいな陸路を通ってきた、 とするような過ちをおかして憚らぬ。そしてシルクロードが何時ごろできたかの解明もなされていない。
 スメラをシューメールと今では故意に呼ぶが、ペルシャ湾からなら50万トンの大油送船でも、海流に乗れば、僅か20日で日本へくる現実を考えず無視しようとしている。 夏場の南西の風で日本に来るのと、冬場の北西の風とでは、燃費が三割も違うという事実は海運界では有名で、 風と海流の向きは一緒だから、これはそれほど海から来るのは、今考えるほど困難ではなかったという証拠でもある。
 
 
しかし歴史家が真実を伝えないのは日本だけではないらしい。ピカソの有名な壁画で知られる「ゲルニカ」の住民皆殺しにしてもそうである。  つまり歴史は権力や権勢が作ってしまうものだから、間違っていて当然であるとトインビーもいう。 「真実をのべるとは愚かしき」とパスカルも不滅の名言を残している。しかしヨーロッパならスペイン史家がごまかしても、ピレネー山脈越しにフランスで暴き、 ピカソが堂々と動かぬ証拠に壁に描いて虐殺の事実を暴いている。
 しかし日本ではそうした期待はもてない。私のような愚か者が庶民の一人の挽歌として綴るのみなのである。  非力で解明しえなかったが、〈旧事紀>と神話の対照によって、上古を歴史の中で把握しようとすれば日本国としての成立は淡海国しかないと考えている。
 
 
そして、あくまで仮説だが大和朝廷の次とされる飛鳥王朝が、所謂天の王朝ではなかったかと思えてならない。かつて蒋介石が重慶で日本に対して徹底抗戦を叫んだ時、 孔子孟子の春秋の時代が紀元前600年なのに遅れじと、軍部は紀元は2600年と遡らせて学校唱歌まで作ったものである。  そうした経緯を覚えているから迷いもするのだが、大陸に比して当時の日本はは開発途上国だったゆえ、飛鳥王朝と大和朝が、順序が逆にされているのではないかと思える。 耶馬台国であったとする説を唱える人もいるが、尾張の一の江から、琵琶湖の淡海国になっていったと見るしかないのである。それは16世紀の信長の進発コースにきわめて似ているが、 庚申待ちの拝火宗徒が信長のために進んで協力し、天下統一のその路線を敷いたのである。 徳川家康は騎馬系だから同族の猿女部族の語り部を利用し、先住系ついで拝火宗の地盤までつかんで己が時代を築きあげた。
 
 (猿女たちは反仏教の東方瑠璃光如、薬師神将十二人の一人の生まれ変わりが家康だと宣伝し、彼こそが新しい世を作ってくれる「光」なのだと全国を遊説して回った) 
さて資本家や地主の為にと購入した奴隷が勝手に死んでは労働力の損失だとし、牧師が神の御召しがあるまでは勝手な真似はしてはならぬと成めたのが、死ぬにも死ねない悲しさを歌って今では「黒人霊歌」として残っている。 が、古代ローマ帝国は、「市民」は元老院へゆき理由さえ明白にのべれば、牛や馬の動物にはない人問だけの特権として、苦くない毒人参人りのジュースが支給され、 それで身辺整理をすませてゆっくり永眠する事ができた。
 
そしてこの日本国は、昭和、平成、令和と続いたが世直し(維新)は出来ず高齢化、少子化で人口減少に歯止めはかからず、年金も事実上破綻で、膨大な国の借金で今や日本丸は泥船状態。 我ら日本原住民の末裔たちは生活苦に喘ぎローマのように自殺も出来ない「生殺し」状態である。大前研一氏はこの状態を「ゆでガエル国家」と称したが、正に正鵠を得ている。 先日もテレビで、世界的な投資家のジム・ロジャース氏が、日本への助言を求められ「日本から何処かの国へ移住すべきだ」と言っていた。大変な慧眼である。 だから暗いこの国の将来を案じつつ、この一文を書いている。
庚申待ちとは何だったのか?
先ず現在の定説を判りやすく解説してみましょう。
「コの申告」つまり庶民よりの密告より始まる。江戸期になり五戸ずつが集まって相談し、道教でこれをコウシン待ちとよび、おかみへ忠誠を誓う為の密訴の情報交換。 毎月五の日に集まる際に順ぐりに猿田彦や帝釈天、青面金剛を祀ったから、申つまりサルの日と江戸中期から変わり、その中に庶民金融のため頼母子講無尽がもたれるようにもなった。
これが現在の定説だが、実際は全く違う。そんな町民達の集りでは絶対になかったのである。その証拠に、 承和7年(840)2月陸奥守の良峰木連、前鎮守将軍匝瑳未守らへの勅の記録にあるのは、
「今月十八日の奏上には援兵二千人を出したとある。しかし奥州の者らは口々に庚申待ちと喚きあって騒然たる有様である。潰出の徒輩を押さえることが出来ぬと申すが、 これは六十年前の庚申の年には伊治砦麻呂が叛乱し、同類を指揮し清見潟まで何万と押しよせてきた宝亀十一年に当る。
 
そのまた丁度六十年前の養老四年には、 按察使上毛野広人が異類どもの乱に取りかこまれ官兵も皆殺しにあっている。更にその六十年前の斉明六年には、阿倍比羅夫が遠征したものの武力では戦いあたわず、 やむなく御馳走政策をとって引きあげてきただけである。つまり六十年ごとに廻ってくる庚申の年こそ、自分らには待ちのぞんできた巻き返しの年であると、異類共は、 前から待ち望んでいたのを注意すべし」と、明確にされているのである。
だから江戸期になっていても、口伝えのユーカラみたいに庶民達は60年ごとに廻ってくる大陰暦の庚申の年を、指折り算えて親から子へ、子から孫へと申し送って待ちわびていたのである。 それゆえ「異類」の呼称が町人、職人と変わっても相変らず、指折り算えては、「庚申待ち」をしていたのが本当のところである。 つまり表むきはサルの日と変えたり、無尽の集りと、おかみの目をごまかしつつも、今度の60年目は駄目でも次の60年目はと待望し、ついに成し遂げたのが明治維新なのである。 源氏の末裔の庶民が現代でも、蘇民には将来きっと福が来ると「蘇民将来ササ持って来い」とお祭りにして、御礼を配っているのと同じことである。