新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

三島由紀夫の肉声発見される 彼はなぜ壮烈な切腹を選んだのか

2019-06-27 16:22:30 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

今年で三島由紀夫没後48年になる。  先日テレビで放映されていたが、何故彼のような優れた才能があのような 壮絶な死を選んだのかの分析は甘く、まるで本質を突いていなかた。 また、故三島由紀夫氏の遺書が発表されてもいる。私たちの年代の男にとっては 氏の市ガ谷での割腹自殺(実際の死因は日本刀による斬首だったが)の報道に 驚愕したもので、その遺書を今読み返すと氏の苦衷が読み取れ、心が痛む。

 文中には「全員あげて行動する機会は失われた」 「状況はわれわれに味方しなかった」とあり、氏の客観的な分析も窺える。 同時に日本の将来を憂い、当時の日本の姿を 「魂のとりかへしのつかぬ癌症状」と、とらえ、傍観しか出来なかった 「やむかたない痛憤」を少数の行動で代表しようとしたと、事件の動機を 語ってもいる。 そして、将来の日本が「少数者の理想が実現する」事の期待を述べ「天皇陛下万歳」と結ばれている。

  私の蔵書に氏のものは「宴のあと」「美の襲撃」「音楽」「肉体の校」 「金閣寺」「不道徳教育講座」「豊饒の海」位だが、流麗、華麗なその文書は 今でも大好きである。   頭脳明晰な氏は、自分の遺書が後世必ずや公開される事を読んでいただろう から、こうした美麗な内容になっているが、少し違った視点から、   ここで私なりの分析をしてみたい。 (私は三島氏と日本の高度成長期を疾けぬけた、同時代の同士として、 また、氏の理想に共鳴した一人として、ここに改めて”合掌”する。)   さらに先ごろ三島の死の九ヶ月前に対談した本人の録音テープが見つかった。

 そこにも複雑な氏の気持ちがにじみ出ていて「僕は油絵的に文章をみんな塗っちゃう。日本的な余白ってものができない」 川端康成の作品に対しては「恐いようなジャンプをします。僕には書けない」とも語っていた。 卑下しているようにも見れるが、日本語を自在に操る三島の華麗極まりない文章は今も愛読者が多い。 こうした心理の変遷に思いを馳せながらの考察を、再度してみたい。

 

何故悲惨な切腹を選んだのか 

 切腹についての有名な本に新渡戸稲造作桜井鴎村の「武士道」がある。 日本語版が出回ってから、迎合してあらゆる歴史上の知名な武将は、みな最期は 人手にかからず自決。しかもみな割腹となった。 そしてどれも言い合わせたように勇ましく、中には腹中から臓物をちぎって投げるのや、腹筋は横に裂けるから一文字なら切れるのに、柴田勝家などは縦割にしたり、丁重なのは十文字に切らせてしまった。 これは「武士道」の本の中にはっきりと、 「コンスタンチン大王の見たる徴・・・・・十字」と出ていて、さながら切腹の最高は十字切のようにも感じられたからだろう。   だが、そうした切方だけでなく、死せる子は眉目よかりの筆方で、皆死に方を美化しすぎてしまった撼みがある。

 さて、日露戦争終了後と共に、お役御免とばかり「武士道」の出版社裳華堂は無くなった。 しかし、単なる営利目的ならまだ売れるかもしれない「武士道」である。 だから解散した裳華堂の一人がその紙型を持ち出して独立した。   これが第十版以降の版元となる丁未出版社である。 大正三年の青島出兵からシべリア出兵。そうした時代が続いたから、やはり武士道や切腹は必要視され本は良く売れた。 だが、大正十二年九月の大震災で紙型は焼失した。 だから昭和十二年に研究社から、組み改めて刊行されるに際しては、新渡戸の未亡人の手紙を序につけ新装出版された。

 そして昭和二十年の敗戦の日まで、この「武士道」の本は星ひとつ二十銭の文庫本にまでなって広まった。 学徒出陣の恰好で営門を潜った二十歳の日の三島氏も、この本は持っていったろう。何しろ当時の学徒兵は一人残らずと云って良い程に、潔く死ぬためのテキストとして この本を読み、そして持って入隊したものだからである。  処が、彼は身体検査の結果、せっかく勇んで赴いたのに即日帰郷を言い渡された。この挫折が、彼をしてボデイビルをやらせたり、剣道にいそしむそんな型の男に自分を変貌させ、やがて二十余年後には「尚武の心」を説く作家にさえした。

 

 幼時に玩具をあまり買ってもらえなかった男が、成人してからプラモデルに凝り、子供みたいに 熱中するように、かって即日帰郷として、追い出されるようにして帰った記憶を持つ彼は、 「自衛隊」と名の変わった兵営へ出入りをし出した。勿論有名作家の彼のことゆえ、 「木戸御免」といった具合に、歓迎され大切にもてなされた。 もし兵制がはっきりしていなかった日本の明治初年や、又は南北戦争当時の米国なみに民間人から一躍抜擢され「大隊長」ぐらいにスカウトされたら、恐らく純粋な彼は、「はあッ」歓んで引き受けたに違いない。と書くと、まさかと否定する向きも多かろうが、   野坂昭如も「歌う直木賞作家」の看板で、歌とは程遠いガナリで一日十万円のギャラで、キャバレーに出演していたのだから、ノーベル賞候補作家といわれた彼が「ものかき大隊長」になったとしても、現代でも可笑しくも何とも無い。 処が、今の自衛隊は、新兵募集にはすこぶる熱心だが、隊長クラスの人材については関心が無く、あたら折角の好軍志望者を、部下協力者としてしか扱わなかった。

 つまりPRには利用したが、彼のひたむきな心情を無視したらしい。 これは彼として詰まらなかったろう。 これまで映画に出るといえば「からっ風野郎」では主演だったし、「人斬り」の田中新兵衛の役も回ってくる。 シャンソンを歌いたいといえばどうぞと舞台へだし、拍手喝采されできた彼としては、ただ利用されているような扱いに不満だったのだろう。    そこで、「それでは」といった考えが、やがて彼の言葉を借りれば、 「世界最小の軍備なき軍隊」となって誕生したものだろう。発会式の日、彼はたとえ少数 とはいえ、自分の率いる形のグループに満足して、晴々しく査閲をした。しかしである。

 

やがて隊員の彼らは、自分らにあてがわれたセンスの良い見事な隊服だけでは満足せず、服にマッチするユニークな内容、つまり精神面をも隊長である彼に求め出した。 これは彼としては期待などしていなかった事ではあるまいか。何しろ彼は、 (絶対服従して召集の時だけさあっと集まって分列行進をする・・・・彼の考案した制服に 似合えば良い青年)だけが欲しかったのであり、己の年齢の半ばにも満たない彼等を、「同志」として迎えたわけではなかったかもしれない。

 とはいえ、彼は一人だが学生は多く、やがて突き上げられていったのかも知れぬ。    さて、当時の盾の会の人気たるや凄まじく、何しろ彼は女子大生に圧倒的な人気があったから、文科系の大半は彼を卒論のテーマに選ぶといわれた。 だから、この会に入れた男子学生が如何に女子学生から羨望の目で見られたか、モテたか想像できよう。そうした結果が・・・・・・・ その作品は読まなくとも、作家としての名声に憧れる若者達から、入会希望が続々と寄せられてきた事である。  

 普通、会費や入会金を徴収する所ならこんな喜ばしい事は無い。しかし氏の会はそんなものは取っていなかった。それ処か、一人に付制服軍帽共で第一回の時でさえ4万円掛かったという。だから台所は苦しかったろう。といって、窮状を気の毒がって、氏の会へ寄付するような大会社もなかった。ペンは剣よりも強し、とも謂うが一本のペンでは会員一人の支度に 一枚8000円の原稿料で5枚書かねばならぬ。大変だったろうと同情を禁じえない。

  その内、各隊編成となって隊長制をとるようになってから、一応隊長へは5万円程度の月給にも似た手当て制となった。そして一般にも交通費として1万円位は支給されるように改定された後は、その経費は膨大なものになった。    だから夏頃からは1ヶ月の出費が300万から400万とも、密かに噂され出した。なのに9月頃になると、若干の手当てがつくらしいと噂が広まった為、さながら アルバイト気分で「来春大学へ入ったら入会したい」と高校生の申し込みが増え、隊長達が選考した採用予定候補者は、10月初めには100を越していたそうである。 100足らずの隊員を抱えているだけでも、四苦八苦なのに、それが倍加したらどう賄うかといった悩みは氏には在ったろう。いたわしい話である。つまり、 「あらゆる破局は、経済的破綻から生ずる」といわれるが、誰も指摘しないが、 これも一つの理由ではあるまいか。

  勿論20代の男は、受験に失敗したり女に逃げられても、それだけで、「くそ!」と忌々しがって 憤死できる。しかし45にもなると、一つや二つの腹立たしさは堪えてしまえる。よく、(若者は遺書を残すが、中年過ぎの自殺は何も言い残しも書き残しもしない) と言われるのはこの為で、理由が沢山ありすぎて、とても整理して言伝する気も無くなるのか、  又はそうするのさえ忌々しくなっての、どちらかであろう。    が、次の理由はどうも「葉隠」ではあるまいかとそんな気がしてならない。なにしろ「武士道」が昭和13年に、文庫本として刊行された後、直ぐその後を追うように   同じ文庫本から出たのが「葉隠」で昭和15年4月である。

  これを当時、双翼の書とか両輪の書と言って、入隊すれば「戦陣訓」だが、それ以前の若人の間では必読書とされていたのである。    だから氏もこの影響を非常に受けていて、 「武士道というは、死ぬ事と見つけたり。二つ一つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり」という葉隠聞書第一ノニの一節をよく口にして語っていたというから、  だからこれが起因となり「武士」をもって自認していた氏は、「死ぬ事と見つけたり」と壮絶な死を選んだのではなかろうか。

 さて、氏を自殺に追い込んだ誤った歴史を教えた歴史屋達は無責任な嘘をつき、あたら優秀な頭脳を失ってしまった。ここで彼らをこそ糾弾したい。 しかし私は天晴れな死に突入した、氏を非難する者ではない。  市井に、国を想い、国を愁うる人間は多い。しかし、この国を建て直す方法は”平成維新”しかないのだろう。三島由起夫氏は、46年前に現状の日本を予見し警鐘を鳴らしていた。しかし改革の方法を誤ったのだう。    ともあれ、新世紀へ入って早17年目に入り、この遺書の意味を改めて考えて見るのも今必要なのではあるまいか。

        「たれか一滴の涙をたむけざるや」(合掌)        

日本奴隷史 白銀海岸は日本の島原 天草四郎 天正少年使節

2019-06-27 11:03:03 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

 

アフリカには有名な「黄金海岸」がある。  

此処は何も金が採れたわけでも、それを積み出したからと付いた名称ではない。それは大陸奥地から捕らえられ、連れられてきた黒人の男女が、一かけらの黄金か、硝子の玉と交換に、遠いアメリカ大陸に売られていった、黒人奴隷の一大積み出し地だったゆえ、その名が伝わっているのである。 これは映画の「ルーツ」でも今は良く知られている。

だが「サイド・オブ・シルバー」つまり白銀海岸の名がある所が存在するのは、全く知られていない。 これは中世期の世界地図を見れば、ゴールドとシルバーの文字はどれにも載っている。 しかもそれは日本列島の九州の中程にある島原半島の突端から、口之津と呼ばれる原城の辺りである。 しかし、白銀と呼ばれてもそれは銀ではなく、火薬の七割を占める原料の硝石のキラキラした粉末だったらしい。

  黒色火薬というが、硝石が七割五分、硫黄一割五分、木灰一割を混ぜるため全体が黒くなるので、肝心なのは何といっても硝石で、これは昔も今も日本には一粒も産出されないものである。  余談になるが、スペインが開発した、強力な爆発力を持つ新チリ硝石が、織田信長爆殺に使われた詳細は「信長殺し光秀ではない」に詳細。  さて、当時此処を領していたのは後に長岡藤孝を変名する細川忠興だが、島原の三角湾には信長生前中は、京の出入りを見張るため丹波を領していた長岡の「長岡番所」と同じく 長岡番所を持っていて、そこでポルトガル人から硝石樽を仕入れていたのである。

そしてこの交易には日本から何を提出したかと言えば、人狩りをして集めてきた、日本原住民の男女なのである。 現在活字本として出回っている「細川家記」には、勿論こんな事は隠しこんで記されているはずもない。  いくら戦国時代といえ、硝石欲しさに同国人の老若男女がどんどん売られて行き、黒人奴隷と共に鎖に繋がれて死ぬまで、白人に酷使されていたとは多くの日本人は知らないだろう。
 
 戦国期は硝石欲しさに、切支丹大名と謂われる武将の中には、己の妻や娘まで売り払った者も居たという。  こうした「棄民」と呼ばれる国辱になるような存在は、日本では伏せてしまい、真実は隠しこまれている。だから一般の歴史書には出ないのである。 日本は明治になって、ボルネオやフィリピン、ハワイや米国本土、ブラジルなどに移民と称して大量の国民を送り出したが、実態は過酷な棄民以外の何ものでもない。後段では有馬で和蘭教科書として使用された「少年使節訪欧録」の抄訳の抜粋を記す。  
 
日本史では、「フランシスコザビエルが来日してから、おおいにキリスト教が広がり 切支丹大名も多くなり、信仰の為当時のルソンへ追われた高山右近の例もある」といったのが正史とされている。 しかし聖書の日本語訳の刊行も秀吉の晩年のことである。 大体が「ドリチナ・キリシタン」つまり「讃えんかな神を」といった一語だけで、言葉も意味も理解できぬのに布教など広がるはずが無い。  フロイスが残している記録でも、「入信してくる人間は信仰の為ではなく、教会は治外法権の 場所だから、人殺しや盗人が隠れ場所としてくるだけで、言語が通じぬゆえ教化は困難だ」 と記している。
 
 それなのにイエズス派が東洋で何故に布教したのかといえば、ヨーロッパがプロテスタンの新教に脅かされたカトリーコの旧教が、全てが魔女の仕業だと理由付けし、そしてその魔女は箒に跨って遠い東洋へ逃亡を図ったと神の御告げが有ったといい、この魔女を探し捕らえるためその任務を、白人へは布教できないアンドロのバスク人にさせたからでる。
このバスク人とは、かって有色人種がヨーロッパを支配していたが、バイキングなどで徐々に力をつけた白人種が、有色人をヨーロッパからアフリカ大陸に追い返した。その時一部の人間が、逃げ遅れてスペインのアンドロに残留して独特の文化を維持した者達の子孫である。  後年ナチス旋風が吹き荒れた時代になると、ゲルマン民族優秀説によって差別され、ユダヤ教会と共に、非白人とみなされるイエズス派の教会も、片っ端からゲシュタポに破壊占拠されている。
 
 
古代のインドにはアンドロの国名もあったし、バスク人はジプシーと同じく有色人種として差別されてきている。 ナポレオンでさえピレネー山脈越のアンドロから先はヨーロッパでは無いといい、今も偏見は生きている。  かってスペインのフランコはドイツと提携していたのに放任されていたのはそのせいである。  さて、日本に鉄砲が伝来されてから、器用な日本人は直ぐに真似をして生産できた。
 
  しかし、弾丸の鉛は採掘されたし、硫黄も豊富だし、木灰もいくらでも作れるが、肝心の硝石は一粒も産出さず、だから弾丸を飛ばす事は出来なかった。 従ってこの硝石を手に入れるため、戦国大名はイゼズス派の宣教師にすがり、自国民を奴隷として積み出したのが真相なのである。   歴史の本によれば当時の交易は、金屏風や甲冑刀剣漆器の類だった堂々と書かれている。 尤もらしく書かれているから、つい読み流してしまうが、それは向こうに住んでいる在留邦人用でしかない。 つまり奴隷の身分から必死に働き出世して、人並みの生活が出来るようになった者らが、故郷を懐かしみ忘れ難くて注文したのである。 直ぐ錆が出る日本刀や、ひびが入り割れやすい漆器や書画など白人が欲しがる訳は無い。  だから御朱印船などと恰好つけていても、日本からの輸出品は人間だったと理解すべきである。
 
  明治に入って、中国人の奴隷を積んだ英国のノルマント号が、日本近海で沈没し、400人以上も犠牲になって世上蒼然となり、多くの日本人が同情して涙したのも、人道上よりも、古来からそうした言い伝えが有った為、同病相哀れむ気持ちからだろう。
さて、天正遣欧使節のヨーロッパ巡路だが、長崎を出て、マカオ、マラッカ、インドのゴア、アフリカのモザンビーク、リスボン、マドリード、ムルシア、アリカンイからマリョルカ島、イタリアのリブォルノ、フイレンツ、ローマ、ボローニアと、とてつもない距離である。 こうした史実はいとも奇異にして驚嘆すべきものである。 使節の四少年が母国を出発したのは僅か十三歳の頃であり、九州の片田舎から、郷里を離れ雲煙万里の彼方なるヨーロッパまでたどり着いたということは、破天荒の壮挙と評するしかない。  動乱に明け暮れていた、九州の戦国大名がキリスト教の何たるかも解らず、何故にマドリードやローマへ派遣したかの謎は深い。
 
 この後慶長十七年には伊達政宗の家臣支倉常長が、太平洋廻り、メキシコ経由で 大西洋を渡りヨーロッパへ渡っているが、彼が何故にヨーロッパへ渡ったかの 詳細は伊達騒動と政宗の正体と合わせて以下を参照されたい。  これにも火薬原料が深く関わっていて、少年使節渡欧の意味も窺うことができる。            
 
 
   ミゲル===有馬晴信の甥で日本名清左  
 マルティーノ===大村純忠の一族  
  マンショ===大友宗麟の甥で日本名祐益  この三少年が天正11年に出発した。
 
そしてこの少年達のヨーロッパ見聞記に拠ると、   ミゲル「吾々の旅行中、行く先々で同じ日本人が数多く奴隷にされ、鉄の足かせをはかされ、鞭打たれて働かされているのは家畜並みで、見るに忍びがたい」 マンショ「僅かな値段にて、同国人をかかる遠隔な地に売り払う徒輩への怒りは尤もなれど、白人は文明人でありながら、同じ人間を何故に奴隷に致すのか」  マルティーノ「我らと同じ日本人が何処へ行っても多数目に付く。まだ子供までが首を鎖で繋がれ吾々を見て哀れみを訴える目ざしは辛くてならぬ。真っ黒な墨塗りのような奴隷の中で肌の白いみめよき日本娘たちが、秘所も丸出しで繋がれ、連れて行かれるのは目を覆いたかった。日本の女たちが転売されるてゆくのを正視できない。吾らの見た範囲でもヨーロッパ各地で五十万以下と言う事は無い。ポルトガル人の教会や神父が硝石と交換し、証文をつけてインドやアフリカに売っているのは何としたことだろう。    (注)当時の日本の人口は二千万人と推定されるから、五十万の奴隷とは残忍な実態である。 だからこの日本奴隷の血は、ポルトガルやパペルやバスク人に伝わっているし、日本語そのままの言葉も多いのである。 戦国期拝火教の末裔だった織田信長は、仏教を大弾圧し、比叡山の坊主共を3000人、また敵方の女といえども 数百人単位で殺している。 これを当時の人たちは「残酷だ」とは思わなかった。何故なら奴隷にして売れば 大変な儲けなのに、それを殺してしまうとは「誠に豪気なお方である」と賞賛している。ということは、当時も日本人の奴隷売買は盛んだったという証拠で、信長はそれを しなかった立派な武将だったといえる。  
        <日本軍の悲劇・火薬不足>
 
   日本は富国強兵政策を明治軍部が推し進めた際、当惑したのは火薬原料の硝石が国内では補給できないことだった。  だから本当は、弾薬が無くては戦が出来ぬという処を、「腹が減っては戦が出来ぬ」と変えて世間に流布させたのである。 そして国民は知らしむべからずで、事硝石に関しては口にすることも書く事も厳禁した。 代わりに、斬れもしない日本刀を持ち上げ、下士官でさえ銃は持たず昭和刀をぶら下げ、兵はゴボウ剣なのに、戦術ともいえない、斬り込み突入を繰返し玉砕を強いた。日本軍は兵は「消耗品」としか考えてなく、何しろ一銭五厘の赤紙一枚で幾らでも徴兵できるため、兵の命などは一顧だにしていなかったのである。
 
 戦後米軍が日本軍の武装解除をした際、彼らは准将クラスでも自動小銃を持つ米軍は、日本軍将校の拳銃があまりにも少ないのに怪しんだというが、全員に支給されていなかったからである。  日本の技術では、機関銃や自動小銃もいくらでも製造できたのに、明治製の旧式三八銃で一発ずつ撃つ単発で押し通したのも、弾薬原料の硝石が産出しないからである。  だから大戦中日本軍は、兵站の拙さは勿論、最後まで弾薬不足に悩まされ、食料も弾薬も満足に与えられず死んで逝った兵隊は哀れの一語に尽きる。   さて、徳富蘇峰は「大村由己」の書いた「九州動座記」の内容を書いているが、その中に「宣教師より硝石樽を入手せんため、大名小名はいうに及ばず、豪族の輩までが、己の下卑や郎党はおろか、自分の妻妾まで南蛮船に運ぶ。それを獣の如く縛って 船内に押し込むゆえ、泣き叫び喚くさま地獄の如し」と秀吉の共をして九州へ行った時の見聞録を「近世日本国民史」の初版本には入れている。  しかし二版からは憲兵隊の命令で削除され、現在に到ってる。
 
 日本国が昔から火薬原料に事欠いていたと広まっては、国民の戦意高揚に害があるからとの、理由で、隠しこんでしまったのである。 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、 彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。
 
 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に大遊郭を設置した。 この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。
 
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。
 
 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり  どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。 だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」 と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。