新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

武士は食わねど高楊枝

2019-06-18 16:47:30 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

これは江戸時代、関西発祥のカルタなのである。  この訳として現代の理解では、  

 ◎ 武士は貧しくて食事に困るときでも今食べたばかりのように装ってゆうゆうと楊枝を使う。  ◎ 武士はたとえ貧しくとも清貧に安んじ、気位が高いことをいう。また、やせがまんすることにもいう。 さらに以下のような全くトンチンカンな解説さえもある。

武士は、内職をしていても誇りがあるため、めったな弱音は吐けません。それで、実際には食べていなくとも、食後のように悠然と楊枝を使って満腹を装う姿を、「武士は食わねど高楊枝」といって表しました。武士の気位の高さを象徴していますね。現在の内職の起源は、江戸の武士にあると言われています。 こんな具合で、ウイキやデジタル辞典等に書かれているが、これは知ったかぶりの大間違い。
さてここからが本当の話になる。 江戸時代というのは、徳川の施政方針で御所を軽視して、天皇はじめ公家たちも大変に貧しかった。 そして二代将軍秀忠の娘の和子が入内した時の、所謂持参金の化粧料として一万石で御所の台所料は増えたといっても以前の二万石に足しても僅か三万石だったのである。
 
これで公家から下働きの諸官を養うのだから、天皇でさえ好きな酒などめったに飲めないほど苦しい台所事情だった。 一方の徳川家は、過酷な諸大名の取り潰しなどで四百万石も在った。  しかも御所を威圧するために、御三家を初めとして、各大名達に京屋敷を持たせ、武士たちを待機させていた。
 
 だが大阪には、米を銀に替えるため、大藩の蔵屋敷しか置いていなかった。つまり大阪は「町民の町」と謂われるように、武士の数は極めて少なかった。 それゆえに出来た、これは武士に対する悪口なのである。  「雑兵物語」という兵学者と称する者の本には、 「城が兵量攻めで囲まれたる時は、寄手に弱みを見せぬため、雑兵どもは、さも満腹しているように、これみよがしに長いツマ楊枝をくわえさせて、食料が十分にある如く恰好付けること」と、尤もらしい事が書かれている。
 
 これが現代信じられて上記したような解釈がまかり通っているのである。 しかし常識で考えてみるがいい。
篭城ともなれば、時は戦国時代である。望遠鏡も無かったのに、長くても口に咥えた爪楊枝などまさか城外の寄せ手に視えよう筈が無い。  江戸時代の兵学者とか兵法家と称して、講演料を稼ぐため廻っていた連中たるや 全くいい加減なものである。  こういう与太話を信じる歴史屋はどうかしている。  従って、このカルタは江戸期に大阪で出来たものだから、米をはじめ諸物価が年々高騰しても、武士たちの俸給は全く換わらず生活は火の車。  武士だ武士だと威張っていても、内実は苦しい世帯で内職に明け暮れていた武士階級を侮蔑した嘲笑ものなのである。