新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日韓同祖論を斬る

2019-06-14 11:08:56 | 新日本意外史 古代から現代まで
皇室の紋である、十六弁の菊を始め、総ての家紋はアラブからであるとは〈天皇アラブ渡来説〉にも明白であるが、大正期までは太古に皇祖は朝鮮からという史論が軍部御用の歴史だった時期があった。 当時は清国と戦うのには朝鮮半島を合併領有せねばならぬというのが、時の明治軍部の至上命題でした。 そこで政府の御用学者として、星野恒に軍命令で、研究費というか稿料というか明治二十年代で五千円と言う、現今では五千万円の交付金で、東大史学会雑誌11号に発表させました。
 
 これが有名な「本邦の人種言語につき」の一文でして、全文が〈日本歴史資史料集大成〉の97頁より117頁に収録されています。明治に世直しとなり、それまでは無実の罪で誅された怨霊が、 迷ってでてきて祟りをせぬようにと封じこめしていた、人間以下の存在に過ぎなかった神や神社をば改めて、「現人神」さまなる信念に評価を加えて、 神とは拝むものなりといった義務教育を創始していた新政府としましては、従来は百済の古文書のみ紹介されてきて、 新羅や高麗のものはまったくかえりみられてこないのは、〈神皇正統記〉に、日本は三韓と同種の民なりと記載されし古書は、桓武の昔にみな焚書されてしまった結果であると発表させ、 日韓両国はもともとは、一にして他境ではなく、まったく別国のようになっだのは、天智帝の頃からであるとし、堂々と合併論の開き直りをした。
 
 「日韓の人種一言語同一なりというも、いささかも国体を汚すの嫌いなきのみならず、かえって吾が皇猷神算の広大深遠なりしを、窺うにたれり」と発表させ一世を愕かせたのである。
つまり、<釈日本紀〉に「任那新羅同種也」とあるように、今の慶尚道高霊県が「加羅任那」であったのは、〈東国輿地勝覧〉にもあるし、 その当時にあって「辛国」とよんでいたのが、何を隠そう新羅国であったからして、しまいには「からくに」とよび、唐国と後世では誤ってしまったものとした。 〈豊後風土記〉にある処の「新羅国神」や〈続日本後紀〉や〈延喜式〉にても(辛国)の二文字さえ冠称すれば〈忍穗耳のミコト〉は「新羅国神」であった事は間違いはないようであるとしました。
 となると〈古事記〉や〈日本書紀、神代下巻〉の「天照大神が、豊葦原瑞穂の国は、わが子孫の忍穂耳のミコトのしらしめ治める国なり」と天降したというのも、これなら判ってくるとあります。 〈新撰姓氏録〉の「右京皇別」にでてきます処の、「新良貴」の姓にして明瞭に新羅なのでして、「わが太古皇祖の新羅に国王であらせられたのは事実であって、これこそ真実な歴史的な一大要件」とし、 よって日韓両国語は発音こそ今では多少相違するものの、かつてはまったく同じでして、「みまなの地名が、御開城天皇」とならせたもうたと、同じく星野恒博士は力説します。
 
 
 そして〈倭訓栞〉に「朝鮮の読法、字にして助声。日本のテニヲを、向こうでは今は、オンモンとよぶ」、  よって、雲、道、郡、釜、熊のごときは、今も両国とも同一発音なのは同一民族のせいでもあり、王仁が詠じた難波津をよめる歌と、スサノオノミコトが八雲だつとよまれたのとが、 同調なのも彼我の語格が同一の為なれば、任那と新羅が争った崇神王朝には、吾国より塩乗律彦を将軍として派遣し鎮圧したのが、そもそも任那日本府の始まりで、 彼地より出でし皇統が彼地を統治したのたと致します。
 ついで星野説は、韓国は元来が我が旧国ゆえ言語風俗も昔はまったく同一ゆえ、よく服従したから、「安東将軍」と宋にも認められたのだと、「倭五王」の例を次々と援用しているのです。 そして、「王政改新、征韓の議やかましく、ついに江華島の事あり、よって今では敵国のごとくに視るけれど元来が同種にして、昔は隷属させていたのであるから、吾国人が属国としてみるは当然」と主張。
 
 
明治十五年七月二十三日に京城の日本公使館が暴動騒ぎにて襲撃をうけたとし、即日日本軍が朝鮮へ進駐した。 そして、武力を背景に講和条約を締結。翌年七月二十日に岩倉具視が死去。急ぎ八月三日に伊藤博文がヨーロッパから戻ってきたが、またもや十七年十二月には京城で暴動が勃発。 日本公使館が焼き討ちされる事態となった。
伊藤博文は内閣をつくり首相になると、それまでは政府批判だった新聞を、国有地払い下げや、新社屋建設に便宜を図ってやり、懐柔し、戦争止む無しの世論づくりに協力させた。   十八年十一月に入ると自由党大井憲太郎らが、会津小鉄ら博徒千名による朝鮮ヘの殴りこみを企画したとして一斉に逮捕。それを土佐派の自由党を弾圧する口実にしました。     
 なんとしても朝鮮を領有せねば大陸へ進出の足場がもてぬ、とする軍部の要望のもとに書かれた星野恆の、今なら一字一万円にあたる大論文です。 ゆえに日韓併合こそ当然の最良の途なりとして、「豊臣秀吉が八道を併呑せし余威あるをもつにあらずや。邦人の朝鮮を属国視するは皇祖の大御心数千年の後に到るまで深く人心にしみ消散せざるによる、 と言うてもよいのであろう」とし、「吾輩は右の諸証により断じて、上世は日韓一域なりと言わんとす。皇孫かつて新羅を統治し賜うというのも、  ニニギノミコトが西州宮へ移られたのと変りなき話。忍穗耳ミコトが辛国より御渡りあるというのも、神武天皇が日向を発して大倭に赴きたまうと異ならざるなり、 何故かというのに一地域を彼我往来あらせられる迄の御事なればなり。例えば松前氏が本州から海を渡ったとしても異国人のせいとせしや、 また黒田伯爵が北海道開拓長官となって赴任した時、北海道の人は彼を外国人の渡来として迎えたかという事である。
 
 
同一版図内にあっては、外国の称などないのは当然」と、 星野恆博士は〈日本歴史資史料集大成〉の115頁にものべていますが、これではコジツケと申しますか、ゴリ押しみたいなものでしたが、当時はこれが対外PRとして英文に翻訳されて、 在外各公使館に配布をし、事前に日韓同種同根をしきりに宣伝したものだから、金玉均を上海で殺しても問題にならず、東学党の乱のため、大鳥圭介が軍隊と共に京城入りをしても問題になりませんでした。 「朝鮮半島は、吾が日本と同一同種の民族の住む地域だが、清国は異国。よって領土権侵害なり」と朝鮮半島へ進駐してきている清国人を追払うために、武力行使をあえてしました。 これが日清戦争の始まりなのである。
日清戦争
日清戦争の原因は、中国にある広開上王碑文を削ったり歴史古文献を焚書するのが目的の一つであったとも言われるが、邪魔ものは討てと清国に向かって明治軍部は総力をあげて挑戦を敢行。 そしてあっという間に、成歓や牙山に進駐した清国軍を撃破。豊島沖で清国艦を撃沈。これにより明治二十七年八月一日に清国に宣戦布告。 平壌を占領、黄海海戦で清国北洋艦隊撃滅。十月二十六日には九連城を占領。翌月六日に大連湾を包囲。
 相撲の世界ではかつて指導してくれた恩人を土俵で突き落して勝つのを「恩を返す」と申しますが、星野恆の論文では朝鮮半島だけが皇祖発祥の地であったが、ついでに清国をも攻略です。  よって三国干渉も、日韓併合はそのままで問題にもされなかったのです。しかし前述したように、「朝鮮を属国視するは、皇祖の大御心」といくら大論文を発表しても、 属国にされた方は面白かろう筈はありません。安重根によって伊藤博文は元兇としてハルピンでついに暗殺されました。
 
 
しかし、やがてその次の、日露戦争も終りをつげる世となりますと、星野恆博士大論文の内容そのものが、「太古皇祖の新羅に主たる事実は、歴史上の一大要件」というのでは困ると、 昭和軍部になると、「星野恒の論文は、日韓併合に利せんとする為に発表されたにすぎぬものである」と、皇国史観の故黒板勝美博士によって抹消させてしまい、 今では〈日本歴史資史料集大成〉にしか収録されていません。 日本の歴史家が宮内省御用みたいに、権力べったりで、その時々の都合で変るこれはその好例の一つです。  日本の歴史屋さんには主体性がなく、軍部やおかみの言いなりに変えてしまうのは万国無比です。
 
つまりそれゆえリースでさえも日本人に「歴史学博士」の称号は不可、ときめつけたのでしょう。  しかし明治軍部は日清戦争の、あっけない大勝利におごってしまい、奴隷根性の国民全般に、「復讐」という観念をうえつけようとして、 三国干渉によって奪いそこねた遼東半島を取り戻すため、国民を戦争に駆り立てるため、「何とかして仇討の物語を探せ」となり、当時街頭で語っていた、デロレン祭文に目を付け、 『赤穂義士銘々伝』を桃中軒雲右衛門に、浪花節として語らせ広めさせ、日露戦争へと突き進んだのである。
 

韓国本位歴史は如何なものか 南北朝鮮に融和は厳禁

2019-06-14 09:37:19 | 新日本意外史 古代から現代まで

従来の日本史が唐書に合わせ下敷にし作られてきたのに朝鮮歴史書の〈三国史記〉や〈三国通紀〉が和訳されだしてからは、韓史を基にして考え直す思考発生は如何なものか。 日本と韓国歴史家の交流が始まってから、ますますもって黒潮や寒流を無視した、大陸渡来日本人説が広まりました。 しかも北朝鮮側と違い韓国史学は極めて自由な立場で、日本列島歴史を韓国だけの立場からのみ解明説明しようとし、古代史研究の人々はその朴蒼岩説に全面的信頼を寄せている。

そもそも、一国の歴史というのは、その国の権力者が偽史を作成するのに対して、周囲の国々の歴史を付け合せて、その誤りを訂正してゆくものですが、 日韓併合の際に伊藤博文が現地へ赴き殆んどを統治上の必要から朝鮮の歴史書は、強制的に没収焚書しました。 だから朴史観は、初めて照合できるものが出現と感謝されます。
 しかしこの、韓国史観でゆきますと、日本列島を支配したのは中国勢力ではなく、ずっと隣接した朝鮮半島だったのだ、としてしまうのが困りものである。
 
 白村江の敗戦で唐軍の郭将軍、劉将軍らが九州から、男っ気なしの奈良時代の御所へ入ってきたのが西暦六六四年から。高麗が唐軍によって滅ぼされた六六八年を経て3年後、 百済系の中大兄皇子の天智帝が崩御なさると、次の皇位をつがれる大友皇子の弘文帝を仆したのは、どう考えても高麗や百済亡国の朝鮮半島の勢力ではなく、 大化改新のフィクサーだった藤原鎌足の率いていた岡山の華夏王朝なのである。つまり唐でない事には、六六九年から唐より又も二千余の軍が追加進駐してきているのだから、 辻つまが合わぬのに、まったくこれを無視しているのです。これは困ります。
 
 弘文帝が殺されて天武帝に代わられた後も、朝鮮半島で唯一国、まだ反唐勢力を辛うじて保っていた新羅との関係は順調で、この頃までに既に亡国の民である高麗人らを東北へ移住を強い、 彼らによって東国から陸奥は開発されたものとします。天武帝のバックアップは鎌足の死後とはいえ渡来唐人及び従前より岡山にいた桃原と名のる鉄剣集団ゆえ、 大陸で敵対していた新羅と仲よくする訳はなく高麗人を関東へ追放したら、次は新羅人も同じ運命で、いまの群馬、埼玉辺りと想われる。
 
 韓国史観には全くでてきませんが、黒潮暖流で安房の小湊や尾張一の江、津島から明石や淡路島に漂着し、定住していた古代海人族らを、遙か東北へ追い出しだのは、 アメリカで非農耕の狩猟氏族のイッデアンを居留地へ追いこみ、彼らが馴れぬコーン栽培を渋々しだし、どうにか荒地が耕地になると司政官が取り上げ、 もっと奥地へ移転命令。拒めば騎兵隊が突入し皆殺しの西部劇と同じことです。
 韓国史観は、西暦七〇七年天智王未余勇の第四女元明女帝が即位なさると、奥羽開発政策が積極化したとし、佐伯石碣を征越後蝦夷将軍に任命し、巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍にし、境土拡張を下命とします。
 
つまり開拓でき農地化されたのを没取して王土とし、さらに荒野へ武力で追いたてて、そこを新居留地にさせたのが本当です。 だから〈古事記〉ができたと伝承される七百十二年の翌年には出羽も国守をおかれる迄になったのです。 が、それでも出羽三山の密教の修験者たちが、みな揃いも揃って、「望海」「懐海」と海を懐かしんで、海号を誰もがつけるのも、彼ら古代海人族が追われていった例証ではないでしょうか。
韓国は日本列島とは違い黒潮が直突してこないせいか、海流無視しすぎるのは困りものです。また関東六国の富民一千戸を移すというのも、彼らに強制的に新農地を当てがい年貢を取りたてる為に、 分散して農奴を使わせるよう送りこんだのであるし、尾張の一揆を起した七十四戸を席田雨近に命じて、美濃山中の山奥へ送りこんだが反抗したというのも〈続日本紀〉に出ております。
〈文徳実録巻四〉には、美濃席田郡に妖しき者らの反乱あるを、新美濃の国務次官の介となった藤原高房が武力討伐したのは天長四年。 ようやく彼らが飛騨へ追われたのが七一五年ゆえ、八二七年迄も一世紀の余もレジスタンスを続けたのは、大陸系に対する山中へ入られたゆえの、 海人族ら日本原住民たちの抵抗とみるべきでしょう。 尾張は「塩尻」美濃は[ヒタ]とよばれ日本原住系八の者の根拠地である。
 
 日本の原住民をすべて朝鮮半島から釜山経由で流れこんだ韓国人としてしまう史観では、西暦七一六年に駿河、相模、上総といった黒潮暖流で接岸した定着民さえ海人族でなくなってしまいます。彼らを武蔵へ移住させ高麗郡となったのだから、彼らは高麗人であったとしてしまいますのは承服できません。これは大間違いだと指摘する。
なにしろ武蔵は前から高麗語の「主」のムと、城の「サシ」の土地で、つまり前からの高麗系騎馬民族の本貫の土地です。 なのにそこへ仲の悪い異種の海人族千七百九十九人を奴として放りこんだというのでは、夷をもって夷を制させる為の苛酷な政策でしょう。
 
やはり百済系の元正女帝につぎ元明女帝がたつと、東海道、東山道、北陸道の内で農耕地帯に一変した肥沃な土地を官土として召し上げるため、その二百戸を出羽へ強制移住させた。 まったく西部劇のカスター将軍のインデアン弾圧時代と同じ具合です。実際の国家権力は唐からの人々が握っていたのに、百済系の女帝を次々とたてていたのも、 憎まれ役を押しつける為の毒をもって毒を制す六韜三略の兵法そのものです。
 韓国史観は、日本列島が馬韓・辰韓・弁韓の三韓時代の支配が長かったので、高麗・新羅・百済とその国名が変ってからも、まず唐勢力はまっ先に自分らに帰順帰化した百済系を操って、 古代海人族の天の王朝系を奴隷としている彼らを互いに潰し合いさせていたのを伏せているのではありませんか。
 「土毛」とよぶ、地面に毛のごとくはえる農耕物と、海中よりの魚介、海藻や塩だけが国富であった時代ゆえ、黒潮で西南から漂着した海人族の奴隷の奪い合いが共に国益に通じていたのでしょう。  またそれゆえ12世紀たった今日でも、私共のような古代海人族の血をひく奴隷の末裔が、今もこの日本の総人口の六割五分をも占めているのでしょう。 韓国史観では、百済が今の南朝鮮半島に位置していた国であったせいか、「摂津国に百済部を設け、彼らは厚遇された」としまして、大阪市生野区に当るそこは後の平清盛の本拠地なりと、 さも平氏までが百済系みたいに拡大解釈をします。
 
平家は古平氏北条にしろ新平氏にしろ、西南よりの海流によっての漂流者である事は〈東大寺社寺雑事記〉に「僧にならぬ三条囲地者には古来よりの定法にて、平の姓を賜る」とある日本史が正しいのです。天武帝の頃に陸続と、大陸からの食いつめ者が入ってきたものの、彼らは日本列島では「貴種」とされていた。 それゆえ、中国のロボットみたいな恰好だった奈良王朝において、百済系の敬須那利を甲斐国司や、義慈六世の孫にあたる余敬福を陸奥国司に任命されましたのも、持統女帝や孝謙女帝の保護政策ではなく、 弁髪の当時のフィクサーが美女は御所においたが、男は邪魔者で不要ゆえ遠く派遣しただけのことです。
 
 また手柄をあげて百済系体制を護持しようと言うので、余敬福は陸奥で海人族の奴隷使役で黄金九百両をえて献上している。それを孝謙百済女帝は唐へ送り、 機嫌とりに仏教のため奈良東大寺建立の資金に、次々と採鉱した金をあてた。銅は武蔵で新羅人金上元が銅脈をみつけ、よって元明女帝は年号を慶雲から和銅に改元して、 日本列島を銅鐸時代にとしてゆくのですが、「李氏朝鮮」の記録では、「申宗三十七年大司憲申瑛」の申告では銀の造練精製は日本へ技術者を遣わした。つまり日本へ教えたとします。 それはそうでしょうが、正倉院御物にも、古代海人族がもたらした銀器が現にあるのです。
 
 黒潮渡来サラセン細工と韓国製とでは、同じ銀細工でも模様や柄が違います。一見すぐ判ります。  韓国の歴史ですから自国本位になるのは、やむをえない事ですが、日本ではそれに対比できうる歴史家や史料が皆無なので、一方的にこうしたものが邦訳されて押し付けられてきては堪りません。  もはや対応できるのは吾々の常識しかありません。しかし庶民の何割かは新羅や高麗系の向こうの騎馬民族の血をひく白山王朝の子孫ですからして、こうした向こうの歴史に対し、 直ぐ納得合点したがる人々も多いのはやむをえないかもしれません。とは言え、これこそ危険思想で、わが日本の国体を危うくするものかも知れないと不安に想うのは、杞憂であればよいと考えさせられます。
日韓宣言20年に寄せて
さて、韓国のこうした御都合主義歴史に迎合する日本人が多い訳だが、現在に目を向けてみよう。
 1998年10月8日の日韓共同宣言から20年を迎えた。 「未来志向の関係発展」をうたったこの宣言を機に、両国の交流は進み、人の往来は3倍以上に増えて昨年は945万人に上った。  一方で従軍慰安婦など歴史問題での溝はなお深く「真の和解」に至っていないのが現状である。
 北朝鮮の非核化を巡る米朝父渉が動きだしている。北東アジアの安定や日本人拉致問題の解決には、日韓の連携が欠かせない、というが果たしてそうなのか。 また日本の植民地時代に動員された元徴用工への補償問題が再燃されている。 さらに、日本政府は65年の日韓請求権協定で解決済みとし、韓国側も同じ認識だったが、文氏は昨年8月、個人請求権は消滅していないとの見解を明らかにした。 巨額の賠償が認められれば、日本企業への打撃は計り知れない。 こうして次々と韓国は「解決済み問題」を吹っ掛けてきて、この国は、まさに疫病神である。
 
「未来志向の関係構築」とは程遠い。 両国が、如何に冷え切った関係でも日本の立場を貫き、高みから見下ろす姿勢で日本は微動だにしてはならないし、実際問題として、少なくとも戦後の韓国との関係で、 日本の国益になったことなど、何一つないのだから。
 
 (注)この項を記述している最中に、韓国最高裁は(2018年10月30日)、元徴用工の個人請求権を認定した。これにより新日鉄など数十の会社の賠償額はいか程になるのか見当もつかない。  日本政府は国際司法裁判所への提訴も辞さないというが、先行きは全く不透明である
 
 

江戸の実相 中条流(堕胎)から見える日本の人口問題

2019-06-14 09:13:04 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

中条帯刀が陣中外道(現代の外科で軍医にあたる)として太閤秀吉に随伴して有名だったのが、 泰平の世になり外科医の必要がなくなるにつれ、婦人科医をなす者が豊臣秀吉時代の彼の名をとって流派にした。 「やみの子は中条流でながしけり」と、堕胎専門に手術を施していたらしく江戸の川柳にも数多く残っている。

江戸の風俗の一端を知るにはこうした川柳が最適で、当時の庶民の日常生活や風刺精神が良く解る。 ポルノチックなものも多いが、以下に何点か紹介しておく。
〇おろすこと、もっとも至極薬研堀
(薬研堀は薬研ばばあの名で知られた子下ろし専門の中条流女医者の多かったところでもあった)
〇罪なこと中条蔵をまた一つ 〇中条は むごったらしい 蔵を建て (中絶で子供を殺すたびに儲かって仕方がないので、あっという間に蔵が建ったという、当時如何に堕胎が多かったかが判る)
〇日を呑んで月を流すは恋の道
(日とは「朔日丸という避妊薬」で「月とは月経」の事。男女の恋愛も妊娠すればこの様だという啓蒙的物)
〇文左衛門一夜日本の始皇帝
( 江戸中期、材木の御用商人として財を成した紀伊国屋文左衛門は夜毎吉原を買い占め、花魁や女郎を総揚げして大門を閉めさせて豪遊したという、酒池肉林をやっかんだ)
〇大黒を和尚布袋にして困り
(大黒とは坊さんの妻の俗称で、仏教は妻帯禁止だったから、秘密の存在だった。しかし誤って妊娠させて、布袋さんのようにお腹が膨らんだ状態を揶揄した)
〇泣かずんば泣かせて見しょう女悦丸
(長命丸,女悦丸などの塗り薬は,蛤の貝殻を入れ物として売っていた。これは昭和30年代までも富山の薬などは、貝殻容器を用いていた。不感症の女に今でいう媚薬を塗って、 ヒーヒー言わせたいという、男の自慢と願望)
〇とっさんとかかさまと寝て何をする
(子供は余計なことを言ってるんじゃない。早く寝ろと、江戸庶民の狭くて小さな住まいのSEX事情の悲哀が透けて見える)
さて、月さらえ六神丸という有名な堕胎薬が在って江戸期はこうした堕胎薬や堕胎技術は沢山あったが、明治政府は「富国強兵殖産興業」政策で産業戦士や兵隊になる人間を増やしたかった。 だから、人口増産に邪魔になる堕胎薬や堕胎技術の書物は強制的に集め焚書した為、今ではこうした川柳などからしか当時の様子を窺うしかないのである。
日本は今や世界でも類のない少子高齢化の国になってしまった。キリスト教圏の国は堕胎を厳しく禁じているが、日本は合法の為、生まれる子より堕胎数の方が多いという。 政府は堕胎数の統計を、故意か怠慢か取っていないが、推計はあって、それによると出生児の倍はいるといわれる、痛恨の事態である。 人口を増やし、豊かな生活を維持するには、フランスやスゥエーデンのような大胆な人口増産政策か移民を受け入れるか、安心して子供を産んで育てられる社会環境政策を執らなければならない。 しかし安倍政権はどちらも行っていない。対処療法の「外国人労働者法」や「入管法改正案」を少し緩めただけの姑息な政策でお茶を濁している。 だから、あと三十年もすれば労働生産性も下がり、地域は消失し、国の借金を返す人が居なくなるのだから、国債デフォルトとハイパーインフレが起こるリスクが高まるだろう。 その結果国は衰退し、かっての繁栄の見る影もない東洋に浮かぶ貧しい島国に転落するだろう。 さらに悪いことに、いまや日本は低欲望社会の到来である。 「女との交際は疎ましい」「結婚は煩わしい、一人で自由でいたい」「セックスは面倒くさい」「結婚しても子供は欲しくない」「家も車も要らない」 「スマホさえあればいい」と、こんな覇気も元気もない若者が多くなった。
我々戦前生まれや、団塊の世代の若い頃は「女は欲しい」「金も権力も名誉も欲しい」「いい車にのって女にもていた」「いい服を着て、美味いものを食って、いい酒も飲みたい」 と、欲望の塊で、そのために我武者羅に仕事をして出世競争に勝ち抜いてきた。 日本を愛すること人後に落ちない私としては、こんな状況を見るにつけ、焦燥感に駆られる。 こうした、衰退期に入った日本を蘇らせる政策を前記したように、何一つ打ち出せない安倍政権だから、これからの個人も企業も、自分で考え、必死に生き残りを図らなければならないだろう。 とはいえ、国民として傍観者ではいられないので、政府に歴史から学んでいただくためにも以下を提案し、ヒントにしてもらいたい。
「加藤光泰に学ぶ日本の人口問題」 2018/5/18 https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35049323.html
江戸時代の庶民の薬については、
 
2017/12/26 「良薬は口に苦しの語源」を読んでいただきたい。