新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

板倉勝該はサンカ  加賀騒動 大槻伝蔵

2019-06-05 21:47:38 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
板倉家の家紋 九曜巴紋
 
      
    「板倉勝該はサンカ」
     
 
       加賀騒動 大槻伝蔵
 
 
江戸城の刃傷史料として残されているのは七件となっている。 現代でも有名な浅野長矩が吉良義央に斬りつけ、殺人未遂となった事件は忠臣蔵として人口に膾炙されている。
時代順には以下のようになる。
寛永5(1628)年8月10日の豊島明重事件。→被害者:井上正就(老中)
貞享元(1684)年8月28日の稲葉正休事件。→被害者:堀田正俊(大老)
元禄14(1701)年3月14日の浅野長矩事件。→被害者:吉良義央(高家肝煎)
享保10(1725)年7月28日の水野忠恒事件。→被害者:毛利師就(長門長府藩主)
延享4(1747)年8月15日の板倉勝該事件。→被害者:細川宗孝(熊本藩主)
天明4(1784)年3月24日の佐野政言事件。→被害者:田沼意知(若年寄)
文政6(1823)年4月22日の松平外記事件。→被害者:旗本5名
 
さて、この中であまり知られて居ないが、徳川八代将軍吉宗が隠居してその子の紀州から入った家重が将軍となって三年目の延亨四年八月十五日の事。 旧暦では八月一日となる。  この日は「八朔」という祝いで、食料を作る八の民(海洋渡来系の民で、漁業や製塩造り)のための祝いで、当日は江戸城に総登城と定まっていた。 この行事は家康が江戸入部の時から、八の民が多く住む江戸の民の為に行われていた。
そして事件はこの日に起こった。
 家康の古くからの家臣で板倉家というのがある。 この家は家康や秀忠の頃には、同じサンカ部族の出身ということで重用され、京の御所監視機関である京所司代を板倉勝重、息子の重宗と親子で勤めていた。
 しかし家康、秀忠が歿し、三代家光の時代からは、徳川の血筋が仏教徒系に変わると彼らサンカ部族出身者は遠ざけられ、板倉家も例外ではなく、その領地三州吉田を国替えで、 武州岩槻、そこから翌年も又も信濃埴科の坂城へ移封となった。
ついで又も移封で、今度はサンカが多く住む陸奥信夫郡の福島三万石に半知減封となった。
これには当時の殿様だった板倉勝該も家臣団もおおいに憤慨した。
これはこの当時、徳川吉宗が全国的にサンカの弾圧政策を断行していて、この進言者が肥後の太守細川宗孝だと知れたから、板倉勝該としては含むところがあった。
だから千代田城内総登城の八朔の日を選び、細川宗孝を「おのれッ」と柄まで通れとばかりに突き刺し、刺殺してのけた。 徳川史観では、諸説在るも「刃傷理由は判明せず」となっている。
しかし、一国一城の主が、命を棄ててまで復仇したということは、尋常ではなく、徳川の政策が吉宗の子の代になっても過酷なサンカ弾圧が治まらなかったことへの覚悟の一刺しであった。
 
そしてこの板倉重宗の慶長年間からの家臣団はやはりサンカ集団だったので、福島城没収後は彼らは亡君の想いを継ぎ、東北各地へ散らばってサンカ集団の中に溶け込みとなった。
 それゆえ、寛延元年三月には耶麻、小荒井。 翌二年には津軽大逃散。 三城潟三万人蜂起。 油井や白川35ケ村一揆。 信夫伊達67ケ村暴動。翌三年の耶麻から塙へかけての打ち壊しと、明治になるまで 溶け込み、居付きサンカの板倉浪人団が指揮する一揆が年中行事の如く毎年 繰返しては続き、板倉勝該の名をとって、勝該さま、「カッチャマ」の言葉を東北の山中では拝まれ語り継がれ、現代にも伝えている。 現在これらの反乱を百姓一揆と間違えているが、サンカの反乱なのである。
 耐え忍ぶということが信条のサンカの歴史の中で、一身を投げ捨ててまで細川殺しを敢えてした板倉の遺霊が、今でも偲ばれているのは驚きである。
     加賀騒動 大槻伝蔵
 
これは現在の歴史では、相変わらず改革派と守旧派の争いとなっているが全く違う。 真実は、朝鮮の血を引く吉宗将軍の子、家重の政策の問題なのである。 この当時朝鮮半島も大規模な旱魃で食糧不足が酷かった。
それゆえ、吉宗の血を引く家重が、幕府の収入増加を見込んで、二年前に加賀前田100万石を取り潰そうとしたが、 家臣である大槻伝蔵が、御家の為にと、一身に責めを負って、悪臣として処刑され、何とか取り潰しは免れた。
その時の、幕府への冥加金というかオトシマエの金額が壱万両だった。 家重は同じ朝鮮の血をひくために、この将軍御手元金を見舞金として朝鮮へ届けさせている。  記録では宝暦五年七月一日の事となっている。
そのくせ幕府では二年後の宝暦七年の、関八州大洪水、東北大飢饉に対して一文も出していない。
 他国を厚遇し、自国民に対して冷酷な態度を取った家重を名君だ等と持ち上げている書物もあるが、とんでもない間違いである。  こういう棄民というか、棄て殺し政策がとられていた実態が判らないのだろう。
(注)竹内式部は日本史では以下のようになっているが何故に「幕府の忌憚にふれ」たのかの謎解きは出来ていない。
(勤王家。越後生。名は敬持。幕府の忌諱に触れ、明和四年八丈島に流されたが、船中病を発し、三宅島に歿す、54才。明治24年贈正四位。)
実際は、この幕府の態度を見かねた竹内式部が、
「将軍が朝鮮よりで、関東東北の餓死者を省みないのは不届きだ」と京の御所へ訴え出た。
 この時聴聞していたというだけで、時の京所司代松平輝高によって正親町三条公積らの堂上公卿17人に咎を与え、全員を停官、隠居処分にした。
 勿論、反体制ということで竹内は重追放にされ八丈島に流罪にされ、死なされてしまったのが実際のところである。 竹内はサンカを救うため命がけで頑張ったのでゆえ、同じサンカではないかと想う。 しかし皇国史観では竹内を勤皇の志士扱いで今は何も判らぬ。
竹内が始末された年には、山県大貳達も捕らえられ獄門首となってる。
 
日本史では江戸幕府に対する謀反などの罪で山県大貳、藤井右門、兄の昌樹らが捕えられ、処刑された倒幕思想の先駆けとなる事件。 幕府に対し最期まで大義名分を説き王政復古を唱えたとされる。となっているが、本当は山県もサンカで、徳川のサンカ狩りが酷いための倒幕運動で、江戸時代の家康、秀忠時代までのサンカは「やっと逃げ回る生活から解放される」と、 ホット安堵したのもつかの間で、仏教徒の血を引く家光以降は、毎年のようにサンカ狩が断行され、  その過酷さゆえに、各地の居付き、溶け込みサンカの隆起が多発したというのが、徳川300年の隠された歴史なのである。
 

日本民族「はち族」の考察

2019-06-05 21:05:29 | 新日本意外史 古代から現代まで
日本民族「はち族」の考察

日本民族「はち族」の考察
幕末に流行し、現在、誰でもが知っている十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がある。
二人の主人公、弥次郎兵衛と、喜多八の名前は実に意味深で、このヤの意味は、「八」ヤで海洋民族を指し、喜多八のキは、北を意味し、つまり北方から来た騎馬民族を指す。
徳川体制で弾圧され、双方の民族が故意に対立させられていたのを、過去の怨念を捨て「日本原住民が団結して」新しい時代を作ろうとした革命運動が「明治維新」なのである。
明治維新の詳細は、2018年8月30日の記事が以下にあるので、併読して頂きたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CC%EF%BC%A1%B4%EE%C2%BF%C6%BB%C3%E6%B5%AD&sk=1
鉢開きの意味
さて、今では文字通りに解釈して、頭の鉢ひらきの人頭とする。この「ハチ」は安国寺文書によく出てくる鉢ひらきという熟語ゆへ、(藤吉郎、さりとて八の者にて・・・が有名)
別に「これは間違いだ」と異議を唱える説もでていない。
だが鉢とは凹んだもので頭は凸である。
大陸人の藤原氏の人々が、片っ端から漢字をもってきて当て字にして、日本の真実の歴史を判らなくしてしまったこれも、その一例なのである。
鉢は名古屋でいう塩尻、伊勢ではアマジリという。つまり八とよばれ海を渡ってきて日本に住み着いた古代海人族のことなのである。
 その八をひらくとは、反仏派の彼らを転宗させて、改めて仏教徒にし、心をひらかせる事なのです。
 安国寺のある備後福山では、寺の下の谷一帯は今も「別所」の地名がその儘なのであります。
 つまり八の者たちが討伐されて連行され、奴隷市場で売りさばかれたり、寺へ寄進された者達を、安国寺では寺奴隷として崖下に住まわせていましたが、どうしても転宗しない者たちも居た。
だから転宗せざるは処刑してまで、片つ端から鉢ひらきしたのです。
だがやむなく仏教に転んでも、奴隷の末裔ゆえ、安国寺は今ではは衰微してしまったが、その別所の地名だけは変らず残っているのです。
 ここの県道をバスでおりると、黒潮がぶつかってきて鯛が水中から浮き上る鞆の浦なのです。
 人見山へ移るまで15代将軍足利義昭が仮御所にしていた古い寺もあり、水面には彩色された中華風の仏閣も見えます。関ヶ原役で安国寺が潰されるまでは仏教系租借地だったのでありましょう。
 「鉢叩き」といわれ、持った鉢を叩き喜捨を貰う者と説明する歴史書もありますが、大変な間違いで、王朝時代は鬼への豆まきみたいに、
鉢の者は頭を叩かれて、その代償に食物の施しをうけていたものなのです。なにしろ今と違い食物のないハングリーな時代でした。
 後年、これが鬼にボールを投げ、ウーウーとなかせる遊びとなります。
 岡山や広島は昔の「中ツ国」で黒住、つまり中国系が多く住んでいた土地だから、ここへ連れこまれ囲地収容され、徹底的に苛め抜かれた吾ら八の先祖は噫無情というしかない。





鉢合わせの意味 「八」が正しい 八の意味とは

2019-06-05 18:41:34 | 新日本意外史 古代から現代まで

現在この言葉は、ばったり知り合いや仲間どうしが逢ったり、暗闇で突然突き当ったりする表現に何気なく使われているが、実際はまったく意味が違う。
何故なら鉢が八の当て字だからなのである。
騎馬民族の四つどうしが顔をつき合せても「ハチ合わせ」とは言わない。馬の鼻つら合せとも言わない。西南から黒潮暖流で流されてきて、日本の太平洋岸に接岸して上陸したのが、
縄文日本原住民でこれが後の、八の民になる。だから八の民どうしだけが行き合った時にのみ、「鉢合せ」というのでして、なにも双方の、おでこの額をぶっつけ合う事ではないのです。
大陸系の豪いさまは牛舎に乗ってふんぞり返っていたので、原住民たちは蔭で彼らを「牛」と云っていた。だから彼ら権力者たちが何か悪だくみをしている様子を、
牛の角からとって「角突き合わせて・・・・」と云っていた。
さて、貞享四年末の「生類憐れみの令」が発布される前、騎馬民族系の製革業者が皮需要が多くなって大いに儲かっていた。
彼らは反仏派だったため、徳川綱吉は彼らを弾圧しようとした。そのための(猫を追うより皿をひけ)と江戸の番太郎達でさえ六尺棒で、当時は犬殺しをしていたゆえ、
「いろはかるた」にも「犬も歩けば棒にあたる」とあるくらいで、彼らが多く住んでいた、四谷と中野へ嫌がらせとして犬の隔離屋敷を構えました。
そしてこの当時、水野十郎左衛門で有名な「旗本神祇組」とか「白柄組」という革屋のガードマンになって江戸中をのし歩いていた、御目見得格以上の旗本二千人が江戸では追放された。
日本全国的には数十万が法令で追われたのですが、「江戸以外何処へでも行け」という勝手な所払いではなく、別所とか院内、山所とよばれた除地へ強制収容されたのです。
これが幕末の天保の大飢饉で、山中では食してゆく物がなくなってしまい、やむなく飢えはてて近くの街道へおりてきました。そして「てまえ、生国と発しまするは……」と、
相手も同じ黄色人種で見分けがつかないから、相手が四つの騎馬民族系かの区別をつける為で、昔は限定居住で生国でその人種が判るから訊いたのである。
 つまりこれが「神祇を切る」(調べあう)事でしたが、日本人は過去や歴史にはロマンを求めたがるので、今では「仁義を切る」と綺麗事にしています。
が要は、同族は討たずの「同門同火の禁」の掟から、うっかり同じ宗旨の者どうしが鉢合せしてはいけないから、まず自分から名のりあげ、八の者である事を先に伝え、
同族どうしであると断わってヤーさんの先祖は一宿一飯の厄介になるのです。

「八」の本当の意味
日本では、一、二、三、四を中国語から取ってイアルサンスウ、と云い、これが算数として文部科学省推薦の学校教育使に使われている。
そして、イアルサンスゥウリュチパーからとって、八は「パア」だと馬鹿にされ、体制の云う事を聞かぬ「反徒」の意味で「鉢屋」とか「ヤ」ともよび、「八幡」「ヤ衆」とよばれる天(海あま)の王朝人の事。
 騎馬民族の末裔のことを「四ッ」と呼ぶのは馬が四つ足だから、それから来ている事だとは理解できるでしょう。しかし拝火宗徒である「祗」の者を何故に「八ッ」と呼ぶのかは、いまださだかではありません。
 江戸時代の随筆家、天野信景は、その〈塩尻百巻〉の中で、非農耕の騎馬系の飼戸(四戸ともかく)に比べ、農業の他に漁業労働も課役されていたアマの王朝の末孫は、遊牧民族ではなく土地に定着していたゆえ、
その末孫も数多く、四ツの倍ぐらいゆえ、それで「八ッ」とよぶと解明している。
 今より四世紀前の尾張の彼の解明ですし、それに一般に知られている「八」の記録としましては、「安国寺文書」の中の「さりとて藤吉郎は八の者にて候はば……」とあるのを、紺屋の白袴の歴史屋が、
意味がまったくわからず、明治以前は何々はと言わず書くのでも、何々わだったのも知らず、「さりとて藤吉郎ははの者」と、その将来を高く買われていたなど珍解釈しているくらいの処です。
 また同じ尾張藩士でアマの王朝の直系をひき、その姓も天野を名のった元禄時代の信景の歴史観の方が昭和の歴史屋より正しいようです。
そもそも「八」は甲骨文字で二本の線で表わすもので、五、六世紀に岡山方面で使われ、西暦六六三年の自村江の戦いの後には、強制的に国字にされた漢字にもその儘で取り入れられていますが、
唐本国では現在のように数字ではなくて、「別、反、片、辺 半」といった意味。つまり、左右に二つに分かれている字体からして、これは、「相反するもの」つまり、
占領軍に対して、祖国を失ってすぐ帰順帰化したクダラ人のように素直でない徒輩。つまり「まつろわぬ連中」とか、相入れない反体制の分離派として「八」の文字を当てて、「パア」つまり愚かな輩
として奴隷にしたのが、どうも鉢屋者の本当の処のようであります。