新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

続「八」の考察集大成 藤吉郎の素性  木下藤吉郎は「八」の部族の出身

2019-06-07 11:14:05 | 新日本意外史 古代から現代まで
続「八」の考察集大成
 
藤吉郎の素性   
 
木下藤吉郎は「八」の部族の出身
(注)徳川家康は純血日本民族の内、サンカ葵族の出身で、秀吉もやはり、サンカ木の陰族出身という説(鹿島 昇氏)もある。   従って、天下取りは、同じ純血日本原住民系の内ゲバだったことになるが、秀吉は天下平定後に、外来勢力仏教と手を結び、原住民を弾圧した。
 

 一方の家康は、原住系を団結させ手厚く保護して、関東に江戸幕府を建てた。だから関ケ原合戦というのは、西軍は外来系大名と、東は原住系大名の対決という図式が成り立つ。

 昭和三十四年七月広島大の河合正治氏が、『安国寺恵瓊』を吉川弘文館の人物叢書の一冊として刊行した。その口絵写真にグラビヤで、「安国寺自筆書状」を掲げ、その中の、 「藤吉郎さりとて八の者にて候」の原文を、最後の部分だけ「ハの者にて候」と注をし、本文四十六頁で「はの者にて候」と変え、「藤吉郎が後に天下をとるごとき人物であることを喝破。 この慧眼は驚くべきである」と書いている。そんなに安国寺がケイ眼ならば関ヶ原合戦に連座し、何故三条河原で打首にされてしまうのか、 という疑問は後廻しにして、『豊臣秀吉』という著書に前述の盗作先生は、これまた、堂々と河合氏のものそのままに、「藤吉郎、さりとてはの者にて候」と「八」を(は)に間違えたままで失敬して、 「秀吉は、なかなかの男だと、その前途を祝福したのである」と堂々と書いている。 初めの河合氏は知らずに間違えたとしても何故盗作先生までがご年輩なのに、 そっくりそのまま失敬するのだろうかと不思議でならぬ。
 
「紺屋の白袴」という言葉があるし、「論語よみの論語知らず」ともいうが、「盗作先生は歴史知らずの歴史屋」なのか。
 なにしろこの人あたりは戦時中に、 「天皇は神さまであられる。日本は皇紀二千六百年である。嗚呼‥‥」と平然と講義をして、多くの学生を教壇から見送って死なせたことに対して、戦後もなんら「自己の告発」をしていない老人である。  そういう人によって作られる歴史とは何か?  盗作盗用以前に、その存在の根拠をこそ、私は追求したい。また秀吉を例にとれば、『豊臣太閤素性記』のごとき幕末のよみ本をもって、講談でしかないことを周知しつつ、それをさも史料のごとく装わせて、 「生家は百姓」といいきる。しかし後述するが、八系統の原住系は非農耕人種である。
 
 
これの裏書資料は、当時日本へきていた者の見聞として、シュタインシェンの、『キリシタン大名』では「樵夫(きこり)の子」、『日本西教史』のクラセの著書では、 「秀吉は若きとき木こりにて柴木の細きを集め、これを市中に売り歩いた」という。また盗作先生は、その著に講談種そのままを用いて、なんらの躊躇もなく、 「羽柴という姓は、丹羽と柴田から取ったものである」と明記しているが、これが一般にはそのままで<歴史>ということになってしまうのが日本の現状である。 しかし木下藤吉郎が羽柴姓を名のった頃の他の武将たちの状態といえば。
柴田勝家は北陸の重鎮だったが、丹羽長秀は安土城でエンヤコラの土木工事の奉行の身分に過ぎない。 丹羽長秀が百万石と豪くなったのは秀吉がしてやったのである。つまり羽柴の命名は、スペインのトレド僧院の古文書保管室日本資料の一部にも、バートレの手紙として残っている。 「ハシェバウリイ」といった綴りで、秀吉の渾名をしるしたものがあるのを私はみてきている。
 
つまり当時、火付木に枯柴の羽のように拡がっていた部分が珍重されていたが、これを山から降ろしてくるのは、かさばかりはって儲けにならず、よって他の山がつがいやがったのを彼は、すすんで背負って戻り、 「ええ、はしばのひえよしでござい」と売り廻ったらしい。のち日吉権現の使いが猿なのにあわせ「日吉丸」と講談ではいうが、尾張という国は江戸中期、 薩摩藩士が身命を賭して木曾川の治水工事をやるまでは溢水が多く稲作の被害が多かったが稗はよく育った。だから、この地方には「ひえよし」という名は多い。 尾張中島郡三丸淵本源寺は戦国時代からの古刹で、ここの納屋には古い過去帳があり、米吉、稗吉、粟吉、水吉等という名が書かれてある。
ここで問題なのは、「八」そのものである。古語辞典にも、 「さりとて=(なかなかもって)」とあるが、「さりとてはの者」などというのはない。
 
河合氏は知らずに書き、戦国物の大家という盗作先生もそっくり転用しているが、「八」は原文通りで、これはストレートに「さりとて八の者」とよむべきである。 しかるに、その「八」を歴史専門家のごとくみられ、また自称している先生が無知であるということに、ご自分でも感性的に抵抗を感じないのであろうか。 畠山清行氏への盗作問題は菓子箱をもってわびに済ませたと仄聞するが、この方は誰に詫びにゆけばよいのだろう。 なぜ、「歴史を虚妄化させてゆく混乱」の底辺に反省し自分自身を告発し、これまでの知識をもって真面目に解明しないのかを私は責めたい。
      YA・八とは何か
 さて山岡荘八の短編に『八弥の忠義』というのがあるが、あれも部族名を個人と取り違えたものだろう。 八の根源は、古事記や日本書紀などにあって、天孫系に徐伐された八十梟(やそたける)とか八十建(やそたて)の八である。  この八が当時渡来してきていた大陸系に、「パア」と発音され、パアとなった民族とみても、また可であるといえる。 そして、これが和訓読みの「や」となってからも、津々浦々に、この「や」印の後裔はひろがっている。
 
試みにテレビドラマや小説にでてくる、「悪いやつ」「ぱあなやつ」「やくざ」など、これ殆どが、姓の上はYAになっている。ということは、作者が見知っている人間の中で、YAのつくのが多く、それらがまたおあつらえむきに、ケンカ早かったり放浪性があって、つい無意識にそれを想い出し作中の姓を「ヤ印」にしてしまう結果らしい。  明治六年に一般にも苗字は許されたが、それまでにも蔭姓というのがあったし、また居住地で姓は殆んど決まっていたから、「ヤン衆」とか「ハチヤ」といわれたいたのは、みなヤ印かハ姓を姓の上につけている。
 
江戸の弾家が幕末に「矢野内記」となるのも、手代の首斬り浅右が山田姓。芝居の花川戸助六のモデルの手代が柳原助六。三河松助も安田松助とヤ印集団だったためだろう。 表格式三千石裏十万石といわれた弾家では手代といっても彼らは家老なみだが、維新への協力を頼みに薩摩の益満休之助が密かにゆき、 「おはんらは源頼朝公嫡流ではごわせんか。三田屋敷へ加勢ばしてつかあさい」と申込んだのは三田村鳶魚もその随筆に引用している。 なにしろYAとかHAが上につくのは、(清和源氏)などという、なにも根拠のないものと違って、純粋の頼朝系ということになっていたからして戦国時代には、信長は、軍事費を鉄砲万能時代になっていても、「ヤ(矢)銭」とよんでいたし、また信長が商売を同じ原住系だけに限定してしまい、楽市を施行したり、面倒くさい関所もとりやめたから(原出典・掛川史稿)、この時点より、商い店のことを、「何々ヤ」と称するようにもなった。  つまり今日の看板で「〇〇屋」は信長の頃からのものである。
 
 
しかし、なにしろYAとかHAのつくのは、世渡りが巧くなく、幕末のインフレについてゆけず、 「ヤア公」「ヤアさん」と転落してゆき、「清水次郎長こと本姓山本長五郎」とか今でも、美空ひばりの親代りになっていた山口組なども神戸にあるが、みなぐれはまになったのが多いらしい。  そして今でこそ寿司屋はだれでもやれるが、封建時代は、生ものは彼らの所管ゆえ、生種を用いる寿司のことを、「やすけ」というのも、またこのためである。
 さて、姓の上に「や」のつくのや「は」の他に、日本原住民の人間は数限りなく多い。そこで従来の歴史は天孫系中心だから、 「何とかして真相を」という願望の現れなのか、歴史物や時代物は、上に「や」をつけた作者のものがよく読まれるというジンクスがある。そこで、そのせいか、どうか判らないが、 「井口姓山手樹一郎」「藤野姓山岡荘八」「清水姓山本周五郎」といった流行作家がかつておおいに読まれている。
 
しかし、「ヤ印」ばかり書いても仕方がないから、「八」に戻るが、これも「ヤ」とよんで同じものだが、現代では、すぐ当て字とか誤字といって入社試験などでもやかましくいう。  だが明治までは、ヤとつけば山田も安井も八田も矢田も同一だったように、「HACHI」と読めれば、「鉢」「蜂」「羽地」みな同じである。現存している古文書に、「出雲広瀬はちや文書」というのがある。
尼子家に尽した者の感状を集めた『雲陽軍実記』にも収録されていが、 「金庭はち屋三郎次郎屋敷(やかた)のこと。従前之はち屋の職を(尼子義久の殿が)御存知なく候間は大串へやられていたのを、このたびの戦功により、はちや掃部頭に仰せつけられる事となった。 よって掃部以下はちや衆は懇ろに当家へ奉公致すべきとの御諚なり」というのは小林又左より多賀対馬守宛。年号は永禄六年(1563)三月十日である。
 
この<はちや職>というのは、現在でいえば、司法、警察権だが、一旦緩急あるときは、防衛の任務もあったらしく、別名を尼子家では「十阿弥」ともいい、 「はちや掃部長々の篭城にたえ神妙に候。なおこのたび抱口合戦にて、鉄砲をもって敵数人を討捕りし忠儀。よって国中の弓弦さしなどは今後一切をはちや親分に申付候」  などという永禄八年十月付の尼子義久のものが、当時はちやのボスだった豪傑河本左京宛で今も残されている。つまり親分といった呼称は、はち個有のものだったらしい。
        八の歴史的考察
 この「はち」に関しては平安後期のものとして「本朝はちや由来記」がある。それは、「洛中洛外から畿内まで夜になると忍び出てあらし廻り、官裁をもって警戒しても、元来が忍びになれた者ゆえ、 ここかと思えば又あちらの飛燕のような早業にて立ち廻り」と、その反体制ぶりをとき、なんとしても取締りのできかねた当時の模様をのべ、 「よって京はいうに及ばず、国々にても手をやき、毒をもって薬になさんと、八の者をよび、これに乱暴盗賊の防ぎをさせたところ、その功が現われてか日本国中にこの八の支配(司法警察)がひろまった」とでている。つまり戦国時代にあっては、「八の者」つまり「はちや」といわれた連中は、安国寺といった寺方や、それまでの既成勢力側からみれば、それはにひとしい原住系の人間だからして、
 
「藤吉郎さりとて八[の者]にて候」とは、これは軽蔑をこめて書かれたのが原文である。
それを間違えて、安国寺はケイ眼[慧眼]で藤吉郎を、さりとてはの者とみて天下をとることを予見していたなどと書くのは、盗作か借作して歴史とするにしても、あまりに出鱈目すぎはしないか。 八の部族がはっきりした存在だった事は、『集古十種』に、「摂津国天王寺蔵、佐々木四郎高綱旗図、長三尺八寸二分幅二尺五寸」と説明されている源平時代の旗にも、「治承二戊戌年八月上旬。討敵事如蜂起。 無退無転無二無三、兵術自由自在、己割鉄石而己」と高綱の自著の上に「蜂起」の大文字がある。蜂と八は同じである。
 
また、梶原源太の布旗には、ただ一字。「八」とだけ大きくでている。  つまり日本歴史専門家はご存じないが、「八はた」を信仰する「みなもと」の原住系が日本にはいて、これが足利時代には、 「白旗党余類之徒」とか「八」といわれていた。なにしろ秀吉も信長に仕えていた頃は、旗さし物には、丸に「八」を入れたのをもって戦った。  そこで日本の大都市名古屋では、「郷土のうんだ英雄をしのび」その○八を市章にさえしている。なのにそれも知らずに、 「藤吉郎はさりとて八」を間違えたり盗用しているのには、なんといったらよいのだろう。
 
また附言すれば、出雲などでは明治まで、「郡巡りはちや」の下に「村うけはちや」があって、彼ら八部衆というのは、つねに捕物用の棒術、剣術、柔術のけいこに励んだ。 そして各地とも上役人見廻りや年貢納め、又は祭りの時には、「大小二刀をさし、棒をもって警護役」をつとめ、各受持の村方の非違を訊し、 「あげ米」と称し一般百姓は稗や麦が常食なのに、はち衆は献納させた米を食していた。だからして江戸期やそれ以前のものに、 「八木」とかいて「よね」「こめ」とよませているのも、このためである。
 また羽仁五郎氏は『都市の論理』で、アテネの例をひき、憲兵警察官は奴隷の仕事だったというが、これは日本でも同じことで、「天孫系に制圧された原住系の八」が、その役割をはたしていたのである。 だからして、よくチャンバラ映画で、主人公がみえをきり、「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目をうけるものか」というのもこれからである。  バッタバッタと江戸時代の捕手が斬られる場面だけが許可されるのも、そのせいなのである。
 
もちろん、ヤ印の八部衆全部が体制側の走狗で、「御用ッ」「御用」をしていたわけでもなかろうが、岡っ引や番太もみな同じである。  ところが村方に寄食して威張って米をくっていた八部衆も、明治七年に警察制度が変ると、前御用族の彼らは村方一同から迫害された。  もちろん、もう米を献じてくれる者もなく、あべこべに殴られ蹴られ爪はじきにされた。これが「村八分」という文字にかえられている具象の真実である。 つまりこうした、「八」の歴史でさえ専門外といわれる私などしか知らぬところに、日本歴史に虚妄が沈澱しているのである。
 
 
 

怪談から見える日本史の真実 四谷怪談 番町皿屋敷 弥次喜多道中記は明治維新のバイブルだった

2019-06-07 08:55:49 | 新日本意外史 古代から現代まで
怪談から見える日本史の真実
「日本の幽霊」
四谷怪談 番町皿屋敷
薩長に利用された源平民族
東海道中膝栗毛
弥次喜多道中記は明治維新のバイブルだった
 
 
 
 
江戸時代から権力に虐げられた庶民は怨みつらみをはらすのには呪うしかなく、それが怪談として夏芝居では流行しますが、それはそれなりに江戸期では庶民が権力に対する対抗的な仕組みでした。今や新宿や池袋は副都心で高層ビルが立ち並んでいます。しかし江戸時代までは、池袋が特殊地扱いされていたのです。 それは民俗学の大家といわれる、柳田国男の著書にも、池袋からきた下女を無理やりに手ごめにしたら、夜ごと雨戸へ石の雨がふってきたとさえあります。
 
新宿にしても、昔の内藤新宿は馬喰の町でした。「四谷」という地名にしても四ツ(騎馬民族)とヤ(海洋民族)のタウンでした。前述のごとく新宿遊廓があったり、 青線地域だったのは、そうした訳からであり、非農耕で遊牧民族だった騎馬民族の末裔は農耕をしない、即ち非生産民族だから、役立たずとされ、「飼戸」とよばれ、そこで生まれた子供は「飼子」と侮称され、 シシ舞いに売られたり、「しし女」とされた少女は湯女や飯盛り女郎に叩き売られたので、その怨みつらみが、 飛騨地方あたりでは、「ごんぼう種(棍棒つまり六尺棒をもたされ野良荒しを防ぐ、死んでも差支えない四ッの徒輩)」と土地の百姓から差別されていた。 だから百姓たちは、彼らに睨まれると、怨念で病になると怖れられ、「お化け」扱いまでされたものであります。
 
今でも睨みをもって憎い相手を呪い殺せるものと思いこんでいる人がいますが、こうした源氏系の血をひく末孫なのでありましょう。 ですからして、「東海道四谷怪談」として、江戸府内ゆえ東海道五十三次の一つには入っていませんが、わざと「四ツ」とか「四ツや」とよぶ地名は各地に除 地としてありましたから、こうした芝居の外題で客が納得して観にきたのです。そして夕のつく田宮伊右衛門つまり「八ッ」の氏姓をもつのが仇敵となるのであります。 さてこうなると、「八ッ」の連中も負けてはいられませんから、初めは「八むら」のち家康入府後は、「番町」となって旗本屋敷となった地名をとりましたのがアのつく青山の、 「番町皿屋敷」という、おきくが皿を一枚二枚とかぞえて古井戸から迷いでる怨念の芝居となるのであります。 これは、海洋民族と騎馬民族をお互い対立させ、団結して反乱を怖れた為の徳川幕府の過酷な政策でした。
 
徳川は体制維持の為、四つと呼ばれる騎馬民族系の弾左衛門の下に、八つと呼ばれる海洋渡来系の南方民族(天の朝系)の車善七を、その下に、四谷者、又その下に八津者と交互に組み込んでいた。 これは相互に牽制しあって夷をもって夷を制させる、大陸より藤原氏の持ち込んだ戦略であり、これによって治安維持を図ってきた。 幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」今では簡単に弥次馬と呼ぶが、反目しあう日本原住民どうしの、両者の融合を狙ったのが、弥次喜多道中記で、 東海道膝栗毛の題名で、貸本屋の大ベストセラーとなり、明治維新の大衆動員の起爆剤になったのは今ではあまり知られていない。
 
 幕末になっても限定地の居付きに入れられ、界化のと差別されていた庶民が全人口の半分は超えていた。 貞享年間からこれらのを抜け出して、町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末裔だったと考えられる。     両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子という。つまり庶民とはテレビの「ルーツ」のように、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として売っていたが、 日本では一握りの藤原進駐軍の他は、徹底して全部が奴隷だったのである。
 
 騎馬民族系の頭目は・・・・・弾左、弾正と呼び、人頭税で年に二朱の納入。(年一両の説もある)   八の海洋渡来系の頭目は・・・博士(ばくし)、小太夫、と称するアー元様。
弥次喜多道中記
維新後「御一新は弥次喜多のおかげだった」と板垣退助さえもが言っていたという革命啓蒙だった「東海道中膝栗毛」の真実。
 
   北条と書いてキタジョウと読ませる苗字は多い。 それ以外でもキタヤマ、キタガワと北を、「キタ」と読ませるしか無いような姓ばか りで、北をホと発音するのはこの家名しかない。 なにしろ唐の國の人間が持ち込んできたのに、故意に「漢」の時代に到来したものの如く錯覚を与えるような「漢字」という名称になっている。  それで押しつけられるように当用され出した用語で、今も日本列島は完全に支配されてしまっているが、何しろ逆説的にいっても諺にさえ、 「一見は百聞にしかず」というがごとくで、目で見る視覚の漢字が、耳から入って くる発音の百倍の威力がある。焔のホが北条のホであって、拝火教を意味するのだと判っても、 「北」をキタと読んでしまうと、北帰行や北の宿のキタになり、白山信仰の騎馬民族系の事に混同されてしまうのである。
 
  明治になって義務教育の世の中になり否応なしに、大陸渡来の象形文字を押しつけ られるまでは、我々の先祖は極端に漢字を嫌ったものである。 「絵暦」と呼ぶカレンダーの数字さえ絵でのみこめるようなのが、今も東北に残っている。つまり、御先祖は江戸時代になってさえ、視覚ではなく聴覚で全てを判断したのである。
 
 十返舎一九の「弥次喜多道中記」を例に取ろう。
 弥次郎兵衛と喜多八の二人が江戸を抜け出して京への旅行をする物語だが、血気ざかりでそそっかしい二人なのに、夜毎泊まる旅籠には当時のこと故、飯盛り女(売春婦)とよぶ、 寝床へ来る女が何人も居たし、大きな宿場には遊廓があった。   旅の恥はかき棄てといって、当時の長旅の慰安は酒と女しかなかった。 なのに二人は一度も女を買っていないのである。それを怪しんで、彼らが五右衛門 風呂を知らずに、下駄履きで入った失敗談から連想したものか、二人の関係を  ホモとする考察もなされている。
 「月夜にカマを抜く」というイロハ歌留多からである。二人とも女房持ちで性的 不能者でもないのに、往復三十余日もの禁欲は不自然で、きっと二人の間で有無 相通じていたからだろうという観察である。 しかしである。 何故に二人が清潔だったかには訳がある。
 
 
今でこそ五右衛門風呂を知らなかった二人は滑稽だろうが、十返舎一九の生きていた時代は、街道の茶店のよしず張りの蔭には天水桶があって、太陽熱で温まったのに、  銭を払って飛び込むか、夏なら男も女も川で水浴びをするか、盥で行水をしていた ものである。   明治になるまでの鍛冶技術では多数が入れるような大きな風呂釜は無理だったからで ある。つまり一般には風呂と言えば、さくろ口で出入りを狭くした蒸し風呂で、  大桶は身体へ浴びる水を入れていた所が多い。だから、 美濃関で作られ、火を、たく釜で湯に浸かるのを、当時の庶民だった二人が知らずに失敗するのも変ではない。 また、読む側とて同じで格別おかしくはなかった。
 
 幕末にこの本は貸本屋て゛ひっぱりだこで、広く庶民に読まれたのには、これも又深い訳があります。   この本は目で読まず発音で耳から読むとよく納得できます。 弥次さんのヤジは拝火教徒で俗に「その筋の者」と呼ばれるヤアサマなのである。
古代アラブ語の海神ヤマの信徒がヤジなのです(現代でも山本、山田、安田等の ヤのつく姓は海運、水産、漁業関係者に多い)。だから庶民の群衆を指す言葉に騎馬民族系をウマと呼び、 双方をくっつけて「ヤジウマ」といった呼称も生まれた のです。
  喜多さんのキタは、沿海州北鮮から出雲や新潟の白山島へ渡ってきた騎馬 民族の北方を指します。 つまり十返舎一九が書いたのは、滑稽物ではなく、徳川 体制に彼らの反乱防止のため、時には対立させられ、時には疎外された庶民の古代 海人族の末裔である、拝火教徒と、 その後から日本列島へ渡って来た騎馬民族と庶民を二分する平氏と源氏の後裔が、共に手を携えて伊勢へゆき、アマの大神と二見が浦の松下神社に祀られている蘇民将来を、 共に仲良く拝んで世の中の逆転を祈ったという風刺ものなのです。
 
  つまり作者の意図が、世直し(革命)を求める啓蒙物ゆえ、双方の民族の代表選手であるヤジさんキタさんが、道中で一度も女に などふれずだったのはごく当然であって、 読む側も本当は何が書かれているか、そこは心得ていたのでしょう。  滑稽本と決めつけてしまったのは、何も解らぬ田舎者の薩長人が東京政府を作ってからである。つまり書き綴られた文字づらからでは  とても日本史は表向きの俗史しか解からなという事なのである。
  が、目を閉じて聴覚に頼れば理解できます。いうなれば、アイヌのユーカラが、聴いていれば悲哀感が伝わってきて納得できるが、文字では訳が分からぬと同じなのです。 何しろ日本史学は、明治 時代に木村鷹太郎が騎馬民族渡来説を説くと、現在のマレーシアへ馬来半島の当て字をしてしまう。だから馬が来たのはマレーからかと思い込んでしまう。  この当て字の巧妙さは感嘆するばかりのもので、水は島国の英国(英語)の ウオーター以外は、仏国、独国、伊国でも古代アラブ語のアクバ(水)のアをとって上につけています。  
 
しかし、日本では雨と、空からの水につけアマは天の当て字である。天と地の差と言うけれど、地面に当たる水と天とでは絶対に逆である。 前に述べたヤにしても当て字は野か、ヤマにしても山である。 海神が野や山では全く天地逆のはめ込みで ある。誤字を問題にするならば、現行の用字は語源からゆけば、これはことごとく意味を解らなくするための作為による嘘字ということになります。   海の凪を鎮める凪の神はアツタとあるが、これも漢字の当て字では「熱田」と なってしまう。怒濤を鎮めるのが本来のアツタなのに、日本では草原の火を薙ぎ倒す宝剣を祀る熱田神宮に変えられている。 だから、視覚に重きはおけないのです。 「文字面にとらわれてはいけない」といった諺があるのもこのせいなのです。 さて、騎馬民族は絶対に農耕はしませんから、大陸系に追われると山の中に隠れ古代海人族のアマ系は江田島、江ノ島と当て字されて解らなくなっているものの エと発音される離れ小島や、 夷のイと発音される、当時は交通不便で舟等こない海浜に隠れ住んでいました。
 
 
 白村江の戦いで日本列島が完全に大陸勢力の支配下になった のが7世紀のことですから、それから雌伏500年たった12世紀になつて北条政子の画策によつて、 海人族の平氏が武闘用にと山の騎馬系の子系を、頼朝という源氏の 目玉商品を囮にして呼び集め、隆起させ、日本原住民の基盤をなす源氏と平氏の大同団結を計った。 そして、大陸系政権の京から遠く離れた関東の鎌倉に騎馬民族の天幕(パオ)を意味する幕府をたてました。世にこれを「文治革命」という。
しかし、である。このままゆけば我々日本原住民は大陸系の圧力を跳ね返して12 世紀以降は捲土重来すこぶる安穏だったでしょう。 しかし月にむら雲花に風の諺どうり、北条政子が女人だつたために誠に取り返しのつかぬことをしてしまいまし た。
 
  利用して戦をさせたのだから源氏はそのままにしておくべきでした。 なのに政子はもう用なしと考えたか、現今の言葉で言えば革命の中の反革命を警戒してか、源氏の主立った者たちを殺戮してしまった。
つまり西暦1180年の段階では同志と呼び合って共闘態勢をとっていた二つの提携民族が20年後には頼朝の死を契機に梶原景時惨殺の1200年からは圧迫者と被圧迫者とに分かれてしまい、 北条政権は騎馬系を白旗党と呼び現今の反体制側のごとく取り締まり弾圧しつづけた。
紅白歌合戦や運動会と日本人は何かと赤白にわかれるのも無理ないことで、これは民族の色で源氏は白。平氏は赤 大陸の仏教系は黒と決まっているからです。 維新戦争の時、薩長の官軍が頭に被った紗熊を赤白に統一したのも訳ありで、源氏系の多く住む地域には白の部隊を先頭に たてて進み、平氏系の多い名古屋当たりは赤を先発とし、 源氏と平氏の子孫の庶民の支持と協力を得て維新を成し遂げたのです。というのは彼らには《同族は撃たず》という民族の不文律があったからで、西南系の薩長に巧く利用されたのです。