新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

イロハカルタに隠された日本史の闇 「一寸先は闇」「命あってのものだね」

2019-06-19 10:35:49 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
(注)文中「サンカ」という意味を簡単に説明しておく。日本史では士農工商と江戸時代の国民を分類する。が、学校歴史では教えないが、まず、江戸浅草の弾佐衛門を頭とする 部族が居た(彼らは人別に入っていなかったのでと間違えられている) 。更に、これとは別に川べりや、山野を家族単位で放浪する部族が居て、彼らは土地の大名や代官にも属さず、 「統治されず、統治せず相互扶助」をモットーに原始共産主義的生活を送っていた。大名にも幕府にも納税しない為、徳川幕府は彼らを目の敵にし、見つけ次第佐渡送りや、撲殺していたのである。 弾佐衛門一派とサンカ族を合わせた人口は、士農工商と同じぐらい居て、維新後明治政府を驚かせたという事実もある。
 
 
 昔の都は京都を平安京といった。豊太閤の頃は大阪城が天下だった。 処が徳川家康はこれまでも前例のない江戸へ都を造ってしまった。
そして京には、公家や朝廷を見張るため所司代を置いて厳しく監視した。 大阪には大阪城代が置かれて、徳川家の直轄とした。 織田信長は八の民(海洋民族)の立場から、内大臣となっても天正四年十二月で官位を返上した。 さらに右大臣を押し付けられたものの、これまた半年で辞退している。
 
 これは信長が原住民系であり、中国大陸系の公家や御所からの贈位を潔しとしなかったためである。 おそらく彼は、日本全国制覇というより、祇を奉じる海洋民族の国を樹立したかったのではなかろうか。為に岐阜に(祇府)都を建てたかったのが真相ではないか。 だから無位無官のままで、天正九年の馬くらべ(観兵式)の当日に、銃隊を率いて御所へ乱入して虚仮威しにしろ、鉄砲の一斉射撃のデモまでした。
 次の秀吉となると、自分は後奈良帝の落し胤であると言い張り、皇太子の誠仁親王が邪魔者だから そのお守り役を買って出ていた明智光秀を、山崎円明寺川の勝竜寺城で騙し討ちで殺した。 ついで、孤立無援となった親王をハシカと称させて医道の者に毒殺させた。
 
 そして従来の御所では手狭で汚いと、京の中央の五条を中心に、十町四方の寺や屋敷を強制的に立ち退かせ、その後へ聚楽第を己が天皇となった時の新御所として建て、正親町帝に譲位を迫ったような、秀吉である。
 皇国史観では「信長の勤皇」とか「秀吉の勤皇」というが嘘である。 二人とも、千石の御料地の献上もしていないし、御所は二万石の儘である。 後に徳川秀忠の娘の和子が、後水尾帝の許へ女御として参内の際に、化粧料として持参の一万石でようやく合計三万石になった。 とてもじゃないが五百万石の徳川家とは月とスッポン。これでは何時御所が潰されるかと、京や大阪ではこれから先何時戦が起こるかと、 全く生きた心地がしなくて、八の民の多い大阪も不安の極みだったというのが、このイロハ歌留多の意味。
         命あってのものだね
  もちろん江戸の幕府も大阪は不安で心配の種ゆえ、天保の飢饉の際には、大老となった井伊直弼が密かに大阪城代跡部良弼に密命を下し、 「先んずれば人を制すという。関西のサンカ共を唆し、暴動を起こさせるように絵図を描き、皆殺しにすべし」と企てた。
よって隠居の身だったが、大阪の前天満与力、大塩平八郎が呼ばれ、 「そちも代々お扶持を頂いて参りし幕臣の端くれ、不憫ながら倅とともに一命を徳川家の為に投げ出してくれぬか」 と、内密に五ケと呼ばれた渡辺橋から一帯の居付きサンカ達に銀をばらまき扇動させるように言いつけ、仰せにて大塩が大将になってヤラセをさせようとしたほどである。 井伊直弼が大老となったのは、天保六年の暮れゆえ、就任翌年春に、大阪城代跡部を江戸城へ呼びつけて命じた。彼も直ちに戻って、公儀大阪硝石倉庫担当の、  天満与力の職を倅に譲って陽明学の塾を開いていた大塩平八郎に、密かに下知したから、翌年天保八年の暴発騒動となったのだろう。
 
江戸時代の幕閣というのは、赤穂浪士の討ち入りにしろ、陰険なヤラセの裏取引を御政道として二百七十年を保ってきたのゆえ、通俗史を鵜呑みにしていては何も判りはしない。
 そして「サンカ歌留多」というかアヌさん唄の言葉伝えでは「命あってのものだね」という。 徳川家康、秀忠の二代までは、上州世良田徳川郷の居付きサンカの血を引いていて、同族が多いから、 大垣城へ入った石田三成らの軍勢を関が原へ、雨の中を誘い出し、火縄銃を使えないように湿らせてしまい、 家康を勝たせた。 大阪御陣でも、周辺の崎や博労が淵の者らを動員して、家康方に勝利をもたらした尾張サンカや美濃サンカの連中は「やっとかめで、よかったなも」と、 ようやく自分らの世になったものと歓びあって、ほっと はしゃぎきったものであるらしい。
 処が、京の蜷川道斎の姪の夫にあたる、斉藤内蔵助の末娘の阿福の産んだ子を、己が最後に仕込んだ子供と思い込んだ家康が倅の秀忠に対して、家光が二十歳になったら、三代将軍にせよと遺言した。
 淀君の妹で、江戸へ与えるのだから「江与」と名を改め、秀忠の正室となって産んだ駿河大納言忠長は、  時の老中筆頭の土井勘三郎利勝が、「織田の血を残すのは災いのもとなり」と、上州高崎へ押し込めて密かに謀殺した。そして竹千代こと家光の一人天下となってしまった。
 川越の喜多院にある「家光生誕の間」は京畳ゆえ、「江戸城より此処に運び込まれて移設奉納される」と、喜多院の寺の説明では麗々しくなっているが、本当は伏見城からのものらしい。
 
そして、家光生誕の間を挟んで春日局の住居と、天海僧正の胸像が向き合って置かれている。
 勿論、喜多院は春日局が新たに建立させ、天海僧正に贈ったものゆえ、家光の本当の父親は七十歳近かった伏見城の家康ではなく、まだ壮年の天海らしい。   京の仏教徒の春日局の腹を借りた天海の子種だったらしい家光は、成人して秀忠存命中に三代将軍となると、  当時は東方瑠璃光如来の、薬師寺しかなかった江戸府内に、春日局が片っ端から京の各本山より勧請して、次々と寺を建てだした。
 こうなると反仏教派のサンカは、もはや多摩渓谷や大山の川畔へ逃げてセブるしか仕方がなかった。  家光の子の家綱や綱吉の代になって「御仏の慈悲を願わぬ徒輩は、人間にあらず、転向せざるにおいては打ち殺しても差し支えなし」といった寺社奉行からのお達しが出た。
 
つまりサンカが尾張に多いというのは、津島から鳥羽の志摩の江の津に多く這い上がって住み着いた昔から、 尾張宗春がサンカ家康直系の玄孫の血脈で、名古屋へ逃げ込めば殺されずに済むと、各地から逃げ込んで集まってきていたのである。
 だが、紀州のクダラ系の吉宗は子の田安や一ツ橋からの吉宗を殺した後は、尾張の領主を交互に送り込んできた。   尾張が安住の地とサンカか思っていた名古屋が、情容赦なしの地獄と変わってしまったのである。
 
今も「界外」の地名の残る伊賀の名張や、伊勢や甲賀山中にも散らばって逃げ込みだした。   役人ばかりでなく、奴隷百姓に見つかっても叩き殺されるから、押し込められた橋のない川の中州から密かに人目を避けて外へと脱出を企てていたのは私の「忍術論考」に詳しく出ている。   建国統一の際に、軍属どもを入れると四万八千も入ってきた独身の連中が、日本列島の女を少女までも、カイトと呼ぶ茨垣で囲んだ収容地に収容。
 
 そして「開け戸」と、股を開けさせているのを見かね、まだ彼らに犯されていない女達を伴って、山や河へ逃げた男たちが「サンカ族」の始まりである。   「食物と女の怨みは、何時までも祟って怖い」というが、クダラ兵や唐兵にすれば許しがたい人種として、追い詰めては、  宮城あたりでは山へ追い上げて四方から火をつけ燃やし、人間焼肉としていた。   このオカミ側の怨念は吉宗以降はますます厳しくなってきて、山狩りを絶えず繰り返し焼き殺した頃の名残が、今では「大文字焼」などとされて、すっかり観光名物にさえなっている。
つまり、サンカの側からすれば、男は見つかり次第叩き殺され、女は垣内の奴隷女郎にされるのだから、人目を避け逃げに逃げ回っては追っ手や村人に見つからぬように、証拠となるような文字は一切使わず、 お互いに近くとの連絡は、インデアンみたいに山の頂上で ノロシを上げようものなら目立つから、アオイの乾蔓を燃やし、その匂いと、淡い煙で交互につなぎを取り合っていた。 そして互いに用心して、「見つかったら叩き殺される。だが命さえあれば、せっせと子作りして、殺された者たちの補充もできる」と、逃げ回るようにとの戒めなのである。
(後記) 画像に湯島天神の紋章に梅文があるが、契丹から来て、藤原氏に殺された菅原道真を祭っている太宰府天満宮も梅文である。 契丹の国章は梅花なので、その名残。サンカのウメガイの柄にも、この梅文の焼き印が在ったと聞くが、現物を見たことはない。
 
 

不倫の考現学、戦前と戦後の違い

2019-06-19 10:02:13 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

以前、渡辺淳一の「失楽園」がブームだった時期があった。  この「失楽園」は紛れもなく「不倫」の物語ですが、原作者の渡辺淳一も「不倫はいかん」と言っています。物書きの癖に自分で書いておいて道徳家ぶっていては噴飯物だが、この不倫に関しては多くの識者が様々な論評をしておるので、現代の不倫問題については、後段で少しふれる。  しかし、戦前、戦中のお上もこの不倫行動を厳しく弾圧しました。   何故でしょう?この事を考察してみましょう。

  戦後の若い人には想像も出来ないでしょうが、国民全てが尊い天皇陛下のためにこそ生き、死なねばならぬと徹底的に叩き込まれていました。 おそらく現代の北鮮もこの思想教育を真似をしているのでしょう。 そして女性と言えばこれまた酷いもので、お上の為に働く出征する兵士を産み育てる存在としての位置づけだったのです。 だからお上に届け出て婚姻をなしたる男女の性交は、出生児をもうける国益として大いに認められました。

 (産めよ増やせよ国のため)とおおいに出産の奨励もしました。   戦時中は町内のおっさんが鵜の目鷹の目で町内の後家や未婚者を探し、そして強引に仲人を買って出て結婚させたものです。 するとお上は「ご苦労であった」とばかり清酒一升とタバコの金鵄を下しおかれたものである。 だから飲みたい一心で、おっさん達は頑張ったのである。御節介もここまで来ると迷惑でしかない。 しかし、婚姻届無しの男女交渉は禁じられていました。 東京でも今より交番所は沢山あって、川が埋め立てられず橋が多くて、交番は大体その橋のたもとに在りました。   そこを男女同伴で通ろうものなら、たちまち「おい、こら!!」と呼び止められ、男女別個に不審尋問され、姓が違おうものなら、その不心得を長々と厳重に訓戒されたものです。そして「臨検」が旅館には抜き打ちにあって、疾風の如く刑事が飛び込んでくるなり、寝ていても構わず敷き布団をさあっとめくる。 当時はテイッシュポンの世ではなく懐紙で、拭いて隠し込む習慣だったゆえ、これを性交の証拠品として真っ先に押収する為である。

   私が口答えしたのが悪かったか、 一緒だった女性が綺麗すぎて嫉妬と反感をもたれたか、拘引され、今なら青少年育成条例違反罪というのだろうが、「挙動不審」の容疑で留置された。正式には、何という法律か定かでないが  【第二国民製造原液未届け放出反国益行為罪】とでも称すべきお咎めでありました。   翌朝になって「近く正式に結婚して子供を作り、お国の為に役立つよう育てます。必ずそれ迄は無駄な放出は二度と絶対に慎みます」と宣誓してやっと放免された。ただ一緒に歩いているだけで見咎められ、すぐ不審尋問で疑われて取り調べられるゆえ、街路へ出る時は男女供用心して必ず離れて歩いたものである。   俗説では儒教からの慣わしで「昔は女性が男より三歩離れて歩いた」というが、嘘である。即ち、女が慎ましやかで、奥ゆかしく、男を立てるためなのではない。 本当は交番所で、コラコラと誰何されては煩わしいからの用心の為だったのです。

 だから日本女性はお淑やかで、慎ましく、優しいというのは大いなる幻想。現在、自分の恋人や妻を良く観察すれば、誰もが納得するだろうものである。 昭和前期は映画館も男子席女子席と分離されていました。 だから、自慰さえも、第二の国民製造原液洩らし、として厳しく罪悪として教育されていた時代だったのです。 国民は御国のために出征兵士か産業戦士の時代でしたから、従ってそれらのモトとなる胎児を勝手に処分するがごときは、反逆罪にも当たると今で言えば吉永小百合なみの評判の美人女優、志賀暁子が、田坂監督との間に身籠もったのを堕胎して摘発され、国賊として懲役二年の実刑を受けた時代でした。 以上が昭和二十年までの「不倫不道徳説」の歴史上の実体であります。

  ひるがえって現代は、 『大の大人だもの、家族への責任も経済的、社会的リスクや批判を覚悟の上なのだから、どうせ窓際族、先も見えた。世の中もツマラン。人生の後半を賭けるに価する女が現れれば俺だってやるかも知れない。ただし、青酸カリは飲まない』という<失楽園仮定願望症>の男女が多く、性愛のみの関係でおおいにラブホテルは繁盛している。
また、現在、ろくに芸もない、芸能人の不倫が大きく取り上げられていて、苦々しい限りだが、この連中軽薄で、不倫という行動に「覚悟」や「責任感」が全くない。男も女も、やることをやって、ばれれば仕事を干されるから「ごめんなさい」と上辺は取り繕うが、一年もすればまたぞろデカイつらしてテレビ復帰。
 
 こういうのは「蛙のツラにしょんべん」という。ベッキーなんていう、ギョロ目で貧弱な体の女など、なかなかもって小ざかしく、「シタタカなアバズレ」である。 天網恢恢疎にして漏らさず、という箴言の通り、本人達は世間をナメきっていた結果、文春に暴露されたのは当然の報い。
その点、戦前の不倫はスケールが違い、激しい愛憎と、社会から糾弾されてもやりぬくという、強い意志の力が感じられる。 戦前の世上を賑わせた映画女優で岡田嘉子は凄かった。なにしろ相手の男は、日本共産党員で演出家の杉本良吉で、二人は樺太から当時のソ連に密入国しての壮大な逃避行をやりのけている。 現在のチンピラタレントや大根役者たちは、彼らの爪の垢でも煎じて飲ましてやりたいものである。
 

戦国時代女城主は沢山いた 上杉謙信も女城主

2019-06-19 09:16:54 | 新日本意外史 古代から現代まで
「上杉謙信」と謂われる画像。江戸時代、想像で描かれたもの。
謙信は死後の戒名である。
本名は「長尾於虎」大柄で醜女の女城主だった。仏教勢力の武田と戦い旗印に毘沙門天の「毘」を使っていた彼女が、数珠など持つはずがない。
無精髭など、泉下の彼女に礼を失する。
 
 
   現在NHKの大河ドラマ「女城主井伊直虎」を観て読者から、戦国時代の女城主についての質問があり、以下はそれへの回答である。 この井伊家は複雑な家系だが、有名な徳川家の重臣「井伊直政」を取り上げず、全く無名の、井伊直盛の娘「直虎」を主人公にして視聴者の受けを狙ったのだろう。今川氏との関係に視点を当てているが、全く面白くない。 現政府が「女性活躍社会の構築」を提唱しているため、時局柄高視聴率が取れると踏んだ作者の思惑が透けて見える。
       ◎女城主について。  
 
   <文禄二年。朝鮮征伐名護屋渡海乗船衆>の名簿には  「三万七千石、堀田が女房。女武者>と記載があります。  夫は堀田権兵衛といい、秀吉が近江長浜五万貫に出世した時、権兵衛も二百貫に出世する。   名古屋鉄道に堀田と言う駅があります。今は名護屋の繁華街ですが、秀吉の頃は掘割に囲まれた痩せ地でした。名護屋駅の裏が中村で秀吉の出生地とされているから、縁辺だったかも知れません。 彼は相当強く手柄も立てたが、今で謂うアル中で、酒毒が改まらない。呑まないと苦しがってのたうち廻る。
 
 だからやむなく酒を与える。もし呑ませなければ刃物をふるって暴れる。まるで狂人沙汰である。そこで女房は伊吹山の女神様に願をかけた。    生まれたばかりの赤子を背負って登山し三七、二十一日の願を掛けた。これを何年も必死に堀田の女房は行った。 秀吉が天下を取ると堀田も二万石になった。 それでも、北の方、奥方と呼ばれる身分になっても、女房はこれまで通りに夫が酒乱になると素足に草鞋を履き杖をついて登山する。
 
秀吉はこれを聞いてすっかり感心し「女房の分として一万七千石」を加増してくれた。しかし長年の深酒がたたって半身不随。往年の豪傑もとても朝鮮などへ  出陣出来ないから、そこで女房が夫の代理として遥か海の彼方へ出陣し、秀吉に奉公した。これは<伊吹山神霊記>というのに出ている話しです。 はっきり三万七千石の堀田の女房とは書いてないが<名護屋御陣渡海帖>に彼女の名があるので、渡海とよぶ海外出兵はこれしかないので、  間違いないと思います。「戦国女性のがむしゃらぶり」というのは、これでも一端は判ると思います。  
この時渡海した女大名に「一万石、池田セン女」の名があります。  池田勝入斎の一族か、それとは違うのかも知れませんが、留守部隊だった女城主まで入れると、未だこの時代は「男系相続制」に定まっていなかったから女性が家名を継いでいたものも多かったらしいです。「当代記」には信長の武田攻めに、高遠御前が槍をふるって群がる織田勢を防いだ話しや、その姪の祝女という女人の力戦ぶりも出ているし、また「駿州志」には、「飯尾豊前守連竜の妻が今川氏真の兵に織田方へ裏切りの疑いで屋敷を囲まれると  手に米の粉を血止めに付け、押し寄せる者を片端から薙ぎ倒して奮戦した」  という「小路合戦」の模様が詳しく出ています。
 
  こうした例証は数が多すぎてきりがないので、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が書き残した物を1793年に子孫の忠顕(ただあき)が珍しがって木版刷りで頒布した物の中から関係部分を引用して紹介します。            
 
 本多平八郎文書  
 
「わしが若い頃には未だ戦国時代の名残があって、女ごが豪い様で男に一々下知をされた。言うことを聞かぬ者には罰として、食物を渡さぬから、男は言いなりになって槍や刀を持って出かけたものだ。勿論いざというときは、女子も己の顔はやさしく見えてはいかんと、眉を落とし、鍋墨で書き眉を大きく付け、口にかねを含んで鬼のように歯を染め、ワアッと敵陣へ攻め込んだものだ。 だからその名残で今でも武家の女房は眉をすり落とし、口にはお歯黒をつけとるがさて近頃は、男並に弱くなったのではあるまいかと思われる」  と、当時の女は相当に凄まじかったことがこれでも偲ばれます。  尚、前記したように有名な<上杉謙信>も女人であったと八切止夫氏は解明しております。 近頃はようやく、謙信女人説に関心が向き、歴史書にも「上杉謙信は女の説も在る」としぶしぶ書かれているものもあります。
 
さらに秀吉に対面するため、小田原に現れた伊達政宗とその以前の政宗は別人であったらしいと、遺骸発掘によっても明白になったと、 「武家意外史」に詳細です(三春から嫁に来た政宗の妻が政宗の身代わりで戦場を駆け回り、奥州に伊達政宗在り、とおおいに名を売ったとあります)  だから政宗は己の虚名を利用して、来るべき東西対決の時には自分が天下を取ろうとしたらしい。 その為には何と言っても火薬が必要だから、当時スペインのフェリッペ王が抑えていたチリーの新硝石を何とかして手に入れようと、支倉常長を派遣したが、失敗した。 そして、関が原合戦には間に合わなく、これが後の伊達騒動の遠因ともなるのです。