平安時代は公家の乗る牛車や馬の鞍の、人が手をかける箇所を指した言葉である。 これが戦国時代になると「証文」と変化する。江戸時代になると井原西鶴の「世間胸算用」の中に「吾らが身を手形に書き入れて」と吉原などの遊女の身売り証の意味にも使われている。現代ではお相撲さんの手形が有名だし、日本テレビ玄関にはタレントたちの手形もある。 また手や掌とは無関係だが商業手形と呼ばれる為替手形や約束手形のあることは誰もが知っている。 だがこの「てがた」のことを昔は「てぎょう」と呼んでいたのである。記録として現存しているのは「毛利史料」の中だけである。
昔の武士、武者というのは現代で言えば戦いのプロなのである。従ってプロは映画やテレビのように敵をばったばったと殺し死骸血河 で戦ったなどというのはフィクションに過ぎない。戦国時代は人口も少なく日本各地で合戦が繰り広げられていて、 そんなに殺し合いをしていた日には人口があっという間に減ってしまうだろう。 だからプロは矢鱈と死に急ぐことは絶対にしないものなのである。
合戦で手傷を負ったりしてこれ以上戦うことが無理と自分で見極めがついた時には「短間(タンマ)」と叫ぶ。 これは「頼まあ」「暫く待ってくれ」「ジャストモーメント」の意味である。 昭和40年代まで子供たちは隠れんぼや缶けりなど、様々な遊びの間に都合が悪くなると「タンマ」が訛って 「タイム」「タイム」と叫んでいたものである。閑話休題。 そして敵に首を落とされる前に双方話し合いになる。「落とし前をつける」と今でも使われる言葉がこれなのである。
つまりここは戦場で今は手持ちが銀百匁位しかない。ここで俺の首をはねればそれだけは手に入れることは出来るだろうが しかし自分をここで見逃せば、跡でその十倍の銀を払うが如何か、と云った交渉をするのである。 尼子再興を図って大活躍した山中鹿之助は随分強かったらしい。しかし戦場では敵を無闇に殺さず、その命を助け、沢山の手形を取っておいたらしい。 しかし生前は手形をほおって置いた。彼の死後、残された子や、妻らが細々と酒の担ぎ売りをしていたが、手形を銀に替え大きな造り酒屋を開店した。 これが現在の鴻池の起こりなのだが、この当時、座の制度の厳しい時代相当な資金だったと思われる。
(注)戦国期は銀と銭がおかねであったので、銀何匁という貨幣単位で記している。江戸時代になって初めて家康が 江戸は勿論、箱根の山以北を金本位制にしたが、西は銀本位と厳然と分かれていたのである。 学校歴史では教えていないが、西の銀を押さえていたのは蜷川家で東の金を抑えていて現在の日銀のような役目をしていたのは 浅草弾佐ヱ門と決まっていた。
「箱根の山は天下の険」というが、あれぐらいの険しい山は日本中ごまんとある。 天下の険とは権力の「権」で、ここを領していた小田原十万石は東西の出入国管理所の役目を担っていて、金と銀の強制交換で 膨大な利益を得ていた。 さて、これは命がけの掛け合いであり取引だから真剣そのものである。
後日の証拠に、これなる料紙に書きもうす」と矢立より筆は出すが「花押」と呼ばれた印形は殿様ぐらいしか持っていなかった時代ゆえ、 掌に墨を塗って押したのが手形となったのである。 紙も筆も持ってない者は口約束だったからここに「武士に二言はない」「武士の一言金鉄の如し」と、武士たるものは嘘はつかないというモラル生まれたのである。 つまり江戸時代なっても武士は財布のことを「金入れ」と言わず、「紙入れ」と称して白紙を大切にみんな懐中へ入れて出歩いたのも、 その紙に万一の際に手形を押さなければならない武士としての貴重品だった訳である。
何も調べもしないで映画やテレビでは人を切った後血刀を拭っているが、格好良く携行していた訳ではないのである。 間違いと言えばこれまたとんでもない事で、江戸時代、刀は殿様からの預かり物で勝手に抜いて切り合いなどは無かったのが本当のところ。 「鯉口三寸抜いたら身は切腹」という不文律は何も殿中(江戸城内)だけのことではなく、厳しい武士の戒律だった。 「月賦」という文字に貝編(貝は金を意味する)に武が付くのも、差し出した約束手形の額面を一度に払いきれず、 分割払いしたの名残で、武士道とは決して恰好の良いものではなく、印籠にしても初めは薬入れではなく、印判いれだった。 又、現在、手形や小切手に「金○○円」とか「銀○○円」と書く習慣が残ってるこれの意味も、学校では教えないが、明治維新まで日本は箱根の関所から以西は銀本位制で、以東は金本位制だったから、当時は金で決済するのか、銀でするのかの違いを記したのである。