新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

手形の由来 手形とは武士の約束 山中鹿之助

2019-06-21 13:03:47 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 平安時代は公家の乗る牛車や馬の鞍の、人が手をかける箇所を指した言葉である。  これが戦国時代になると「証文」と変化する。江戸時代になると井原西鶴の「世間胸算用」の中に「吾らが身を手形に書き入れて」と吉原などの遊女の身売り証の意味にも使われている。現代ではお相撲さんの手形が有名だし、日本テレビ玄関にはタレントたちの手形もある。  また手や掌とは無関係だが商業手形と呼ばれる為替手形や約束手形のあることは誰もが知っている。 だがこの「てがた」のことを昔は「てぎょう」と呼んでいたのである。記録として現存しているのは「毛利史料」の中だけである。
 
  昔の武士、武者というのは現代で言えば戦いのプロなのである。従ってプロは映画やテレビのように敵をばったばったと殺し死骸血河  で戦ったなどというのはフィクションに過ぎない。戦国時代は人口も少なく日本各地で合戦が繰り広げられていて、 そんなに殺し合いをしていた日には人口があっという間に減ってしまうだろう。  だからプロは矢鱈と死に急ぐことは絶対にしないものなのである。
 
合戦で手傷を負ったりしてこれ以上戦うことが無理と自分で見極めがついた時には「短間(タンマ)」と叫ぶ。  これは「頼まあ」「暫く待ってくれ」「ジャストモーメント」の意味である。 昭和40年代まで子供たちは隠れんぼや缶けりなど、様々な遊びの間に都合が悪くなると「タンマ」が訛って 「タイム」「タイム」と叫んでいたものである。閑話休題。 そして敵に首を落とされる前に双方話し合いになる。「落とし前をつける」と今でも使われる言葉がこれなのである。
 
 つまりここは戦場で今は手持ちが銀百匁位しかない。ここで俺の首をはねればそれだけは手に入れることは出来るだろうが  しかし自分をここで見逃せば、跡でその十倍の銀を払うが如何か、と云った交渉をするのである。   尼子再興を図って大活躍した山中鹿之助は随分強かったらしい。しかし戦場では敵を無闇に殺さず、その命を助け、沢山の手形を取っておいたらしい。 しかし生前は手形をほおって置いた。彼の死後、残された子や、妻らが細々と酒の担ぎ売りをしていたが、手形を銀に替え大きな造り酒屋を開店した。 これが現在の鴻池の起こりなのだが、この当時、座の制度の厳しい時代相当な資金だったと思われる。
(注)戦国期は銀と銭がおかねであったので、銀何匁という貨幣単位で記している。江戸時代になって初めて家康が  江戸は勿論、箱根の山以北を金本位制にしたが、西は銀本位と厳然と分かれていたのである。 学校歴史では教えていないが、西の銀を押さえていたのは蜷川家で東の金を抑えていて現在の日銀のような役目をしていたのは 浅草弾佐ヱ門と決まっていた。
 「箱根の山は天下の険」というが、あれぐらいの険しい山は日本中ごまんとある。   天下の険とは権力の「権」で、ここを領していた小田原十万石は東西の出入国管理所の役目を担っていて、金と銀の強制交換で  膨大な利益を得ていた。   さて、これは命がけの掛け合いであり取引だから真剣そのものである。
 
後日の証拠に、これなる料紙に書きもうす」と矢立より筆は出すが「花押」と呼ばれた印形は殿様ぐらいしか持っていなかった時代ゆえ、  掌に墨を塗って押したのが手形となったのである。 紙も筆も持ってない者は口約束だったからここに「武士に二言はない」「武士の一言金鉄の如し」と、武士たるものは嘘はつかないというモラル生まれたのである。    つまり江戸時代なっても武士は財布のことを「金入れ」と言わず、「紙入れ」と称して白紙を大切にみんな懐中へ入れて出歩いたのも、  その紙に万一の際に手形を押さなければならない武士としての貴重品だった訳である。
 
何も調べもしないで映画やテレビでは人を切った後血刀を拭っているが、格好良く携行していた訳ではないのである。  間違いと言えばこれまたとんでもない事で、江戸時代、刀は殿様からの預かり物で勝手に抜いて切り合いなどは無かったのが本当のところ。   「鯉口三寸抜いたら身は切腹」という不文律は何も殿中(江戸城内)だけのことではなく、厳しい武士の戒律だった。    「月賦」という文字に貝編(貝は金を意味する)に武が付くのも、差し出した約束手形の額面を一度に払いきれず、  分割払いしたの名残で、武士道とは決して恰好の良いものではなく、印籠にしても初めは薬入れではなく、印判いれだった。 又、現在、手形や小切手に「金○○円」とか「銀○○円」と書く習慣が残ってるこれの意味も、学校では教えないが、明治維新まで日本は箱根の関所から以西は銀本位制で、以東は金本位制だったから、当時は金で決済するのか、銀でするのかの違いを記したのである。
 
 

徳川吉宗名君説の疑問 大岡越前 山岡宗八 徳川綱吉 吉川英冶 江戸の火消

2019-06-21 08:38:45 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

徳川吉宗 大岡越前 山岡宗八 徳川綱吉 吉川英冶 江戸の火消

 明治から大正にかけて「実録、五寸釘の寅吉」とか「実録、大岡政談」「実録、白子屋騒動」といった叢書が実録と冠詞して、豪華な赤レザーの背張りで出回った。これらが今では文字通りに受け取られている。これは海音寺潮五郎の「史実」「史伝」と全く同じで、本を売ろうとする為の詐称である。 海音寺などは小学校もろくに出てない吉川英治を追い落とすため、国学院大学出の海音寺が殊更に史実、史伝と冠称したもので、歴史でもなんでもない。 古臭い文壇内部での勢力争いに、この史実、史伝は使われたのである。そして、 松平記をそっくり鵜呑みに下敷きの小説、山岡荘八の「徳川家康」も然り。
 
さて、以前テレビで「暴れん坊将軍」を有り得ない町人姿にまでなったりして松平健の好演で好評だったが、  実像の徳川吉宗たるや、「紀ノ川系」と呼ばれる百済系の血脈だったから、庶民に対しての施策は過酷なものだったらしい。 (これは往古から日本では、中国大陸や朝鮮半島の人間を崇める風潮があった為である。後年、日本原住民が明治維新で政権を取り、こうした大陸からの呪縛が解けるとその反動で、一転して「中国何するものぞ」と尊大な態度になった。)
吉宗を名君として描いた読物も多いが大変な間違いである。これに類して綱吉や柳沢吉保まで名君だとしてるものも多く、開いた口が塞がらず暗澹たる気持ちにさせられる。 さて、江戸時代の消防は、木と紙で出来てる日本家屋は燃えやすく、火事ともなれば延焼を防ぐために隣接家屋を壊す破壊消防だった。
 
だから家を壊すための道具の鳶口や手鉤を持つのだが、一方で大団扇で火勢を追い返すような原始的消防方でもあった。 現在のような防火装束もなく危険極まりない仕事だったから「なり手」が無かった。
こんな時代に八代将軍になったのが、御三家の紀州から入った吉宗なのである。そして徹底的に今言う行革をした。 この頃の江戸は天保の大飢饉から、諸国で食い詰めた庶民が流入して人口130万とまで増加したが、貞亨年間でも80万は居ただろう。 今のテレビでは「江戸町民の為」とか「百姓の暮らしを守るのが役人の勤め」等と言うのは民主主義カブレのたわごとに過ぎない。 現代でも国を相手取った訴訟で最高裁まで争っても、国益が優先されて民の勝訴は至難の業である。 今も昔も役人はお上のために働くものだから、江戸府内の取り締まりは、定廻り同心がたったの六人だったのである。
 
 これらが庶民の取締りの逮捕、起訴、裁判判決までの一切を扱っていた。奉行が白州で庶民を裁くことは有り得なく、テレビや映画は嘘。 これらの下に、吉原遊郭の四郎兵衛溜輩下の者達が手下のようについていた。 彼らはもぐりの岡場所(私娼)は無免許営業だから、吉原にとっては営業妨害である。 だから江戸市中を鵜の目鷹の目で廻り歩き摘発しては、抱え女を引っ立ててきて、吉原の奴女郎にして働かせ、手当てを貰っていた。岡場所から引っ張ってくるのでこれを「岡っぴき」とう。  (吉原の支配頭は、弾佐衛門家6人の手代の一人の花川戸介六であり、手当てはここからでていて、幕府は一銭も払っていない)  だから、別にお上が手当てを出すことはなく、安上がりなので「同心何某見知りの者」という鑑札で使っていたのが実態。  だがこれでも手が回りきれないので、そこで吉宗はとんでもない事を考え実行した。
      吉宗考案の破天荒で残酷な制度
当時スリは稼業として認められていたが、この厄介なスリにも岡っ引きをさせたのである。  江戸期普通の庶民や武士のちょんまげの元結は白色の紙縒りだが、スリには目印に「黒モットイ」を結わせた。これを「黒もじ」という。 こうすればすられた方が前方不注意で盗まれ損に済ませた。余談だが明治維新後大山大将の金時計をモサッタスリが居て、怒った大山がスリを犯罪にしたが、それまではれっきとした職人だった。 明治40年から軍命令でスリは犯罪となったとある。 ( 嘘のようだがこれが江戸の司法の実態なのである。) さて、江戸の火消しに「どぶさらえ」の言葉が残るように、燃え盛る火炎の焔から身を守るには、熱くて堪らぬから下水の汚れたのでも手桶で汲んで頭からかぶらねばならない。臭くて危ない仕事なので嫌がられた。
 
火事と喧嘩は江戸の華、いなせ、粋、「勇み足」・・これらは全て嘘。
 
さて、この当時、御三家の尾張宗春が、その曾祖家康権現様の出生を堂々と「章善院目録」の中にすっぱ抜きで書かせたから大変である。 (家康と松平元康は別人だと言う内容) 出版統制令を前もって布令させていたので、それに引っ掛けて宗春を閉門処分にした。そして又何か書かれては面倒と紙や筆も全て取り上げてしまった。  支藩である高須藩より「厠用の落し紙にも不自由している」と聞き、差し入れがあったのを探し出して、  「紙は紙である。又しても徳川家不為のことでも秘かに書かんとなさんとする所存ならん」と、尾張目付けにしておいた左太夫の弟の手で殺してのけた。 吉宗は己の子に、田安家と一橋家の両家を創設しておいて、すかさず代々の新藩主にして送り込み、次々と名古屋城には交互に入れさせている。
 
 堀端の土居下には左太夫弟の配下共を住まわせ、万一尾張者が反乱した際には、 「殿を掘割から庄内川へ奉じて漕ぎ出し、紀の川まで出て脱出せよ」と特別命令されていた。   昭和になってもこの話は愛知県では有名で、尾張土居下衆は「何時御用となるやも知れぬゆえ、常在戦場の心得で何時も小舟の支度をし、夜は半数ずつが交替で不寝番をしていた」と忠誠奉公の美談とされていた。  一橋出の名古屋城主の時でも、田安家出の殿様になっても、吉宗の遺言通りに百済政策、前述したように、内容は百済の血を引く方が尊くて、倭(日本原住民は賤とする)を差別する政策は名古屋城下では続いていた。
 
 つまり村や城下に溶け込んで居付きのサンカも、寺の人別帳に入ってない者は、 「髪を結ってはならぬ、雨天とはいえ蓑笠は許されず、裸足のままにて歩くべし」となった。この結果が「塩尻百巻」の絵図にあるように、八の部族が多く住む名古屋では、皆乱髪裸足のみすぼらしいまるで乞食の如くの者ばかりになった。 こうなるといくら御三家の一つとはいえ、他国者を名古屋城下へは外聞が悪く通すことは、見た目が良くなく出来なくなった。
 
つまり東海道五十三次といっても、「池鯉府」つまり「知立」は今の星ケ埼で、中日球場のある 鳴海潟だったが、ここから名古屋城下へは旅人は入れず、内海廻りで「源太夫の宮」と呼ばれた熱田へ出て、そこから舟で海路五里を桑名の渡し、という道順だったのである。 だが大名行列だけは便宜を計って海上三里と近回りを許したが、絶対に陸路は通さなかった。 この原則が破られたのは、明治維新の「トコトンヤレナ」と赤や白のシャグマを被った官軍行列の東下りの進軍が初めてであったという。 隠されているが、これが徳川時代の「尾張藩」の実態なのである。