6月22日(土)。
この日、カンボジアの首都・プノンペンで開かれた世界遺産委員会は、
日本人にとっては忘れられないものとなるかもしれません。
当初、ユネスコの諮問機関は、
「富士山は登録することがふさわしい。ただし三保松原を除外すべきだ」
という勧告をおこなっていたそうです。
富士山と三保松原。
この両者は、日本画やその他、日本の工芸品などでよく使われる
題材です。
両者の一括登録は厳しいものと思われていたのですが、この状況を
逆転させたのが、審議における19人の各国代表の発言だったそうです。
最初に意見を述べたのは、ドイツの代表の方だそうで、
「富士山の登録を支持したい。三保松原を題材にした美術品も多く、
登録から除外すべきでない」と述べ、日本の風情として、
富士山と三保松原は分けることの出来ないものだ、ということに
理解を示し、一括登録を支持したそうです。
マレーシアの代表も、
「富士山以外の構成資産の知名度は高くないが、文化や歴史的な
背景から見て三保松原も不可分な要素だ」と発言されたそうです。
そして、フランス、インドなど多くの国の代表が支持を表明し、
当初は10分程度と予定されていた審議時間も50分に達する
異例の展開となったそうです。
そして、議長のハンマーが鳴り、諮問機関の勧告を覆し、
富士山と三保松原の登録が決定されると拍手と歓声が沸き上がり
喜びにつつまれた、ということです。
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さて、タイトルにもあります富士山と三保松原と松本楓湖ですが、
松本楓湖は、稲敷市寺内出身の日本画家で幕末から明治・大正に
かけて活躍した人物です。
歴史画を得意とし、戦前の日本史の教科書などに挿絵を描いていた
ことで有名な画家ですが、主宰した安雅堂画塾では沢山のお弟子を
育てたことでも知られ、今村紫紅・速水御舟など日本美術院の
綺羅星とも言える画家たちを輩出しています。
稲敷市内で松本楓湖の作品といいますと、逢善寺本堂の天井に
若かりし日の楓湖が描いた「飛天」の図があります。
この作品を描いた時の楓湖はまだ16才で、最初の師・沖一峨が
亡くなり、里帰りした時に描いています。
松本楓湖の母親は、逢善寺の裏手、小野川沿いの姫宮集落の生れです。
姫宮というのは、平安時代、この地で亡くなったと伝えられる
淳和天皇の第三皇女を祀った姫宮神社にちなんだ地名ですが、
幼い楓湖も母に連れられその姫宮の地で遊んだことでしょう。
その「姫宮」というところにある松本楓湖の母の実家に、
楓湖が描いた扁額が一点ありました。その辺額は、結婚式や
出産祝いなど、当家の「ハレの日」に飾られたものでした。
下の「富士三保松原図」(当館蔵)がそれです。
この扁額は傷みが激しいのですが、三保松原の松を前景に
遥かな富士の雄姿を描いています。
母の生家のために楓湖が描いたのは、日本第一の吉祥図案
とも言える富士山と三保松原の松だったのですが、もう一つ
うがった見方をすると興味深いお話があります。
三保松原に天女の羽衣伝説があることをご存じの方は多い
かと思いますが、楓湖が描いた扁額の松は、実は逢善寺本堂の
飛天(天女)が降りて来ることを願って描いたのではないか、
という説があります。
それは母の生家の繁栄を願った楓湖の寓意であり、彼一流の
「粋」だったのではないでしょうか。
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今回の富士山と三保松原の世界遺産への一括登録のニュースに接し、
郷土の画家が描いた古い一枚の扁額と、そこに籠められた画家の想い
に心を巡らせました。
富士山・三保松原・羽衣伝説といった日本人に古くから愛された
ものを、世界の人々が価値を共有することになった記念すべき
日に、そんな郷土の画家のエピソードを一つ、知っていただけ
たならば幸いです。