稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(9)

2022年02月27日 | 日記
関連寺院に残されたもの(3)

今回も満願寺に関するご紹介です。

満願寺は、その創建が法相宗であり、かつ現在は天台宗寺院
で、そのご本尊は、薬師如来立像(№118)です。


このお薬師さまは、素地の一木造りで、横から見ると肉身
の厚みがそれ程ありません。衣のひだの表現なども、彫り
が薄く、全体にあっさりとして、お顔の表情も穏やかに
見えます。

平安時代の終わり頃の作とされており、稲敷市内では最古
のお薬師さまで、稲敷市指定文化財です。

このお薬師さまの背面には、墨書があります。虫食いと
退色で判読が難しいのですが…

但馬国あった、何れかの本願堂のご本尊を、
慶長11年(1606)6月8日に、何者かが寄進した…
と見えます。

但馬国は、現在の兵庫県です。ここにあった本願堂が
何なのか、寄進した人物はが誰なのか、が不明なのですが…
当時の江戸崎は、徳川家康の側近・青山忠成の支配なの
ですが…はっきりしたことは、分かりません…。

満願寺の寺伝では、満願寺が天正18年の戦乱で焼かれた
際、満願寺復興のため、比叡山延暦寺の根本中堂から
このお像を譲られ、檀家さんたちが担いで運んできた…
と伝えられています。

いずれにしましても、このお薬師さまは、地域の人たち
に、とても大切にされていたことが分かるエピソードです。



特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(8)

2022年02月26日 | 日記
関連寺院に残されたもの(2)

今回も、不動院の関連寺院として、現在、当館にて公開
中の北須賀山満願寺の資料をご紹介いたします。

前回の記事で、満願寺が大変古い歴史と、行基や最澄、
北条政子、そして三浦義村などの縁起を有す、格式高い
古刹であることを述べました。

そして、戦国時代の終わりに江戸崎城主となった芦名盛重
は、信太庄江戸崎にある不動院の末寺頭の第二席に、
東条庄阿波崎の満願寺を取り立てました。

これは、南北朝期ごろには地域のお坊さんたちが、
「信太庄下條祈祷衆」といった団体を作り、
一致団結して領主と交渉などしていたことから考えると、
そこに他所の東条庄から末寺頭「№2」を招き入れた
訳ですので…中世的なルールを壊す
ちょっとした「事件」だったと推測されます。

では、何故、芦名盛重は、そのような宗教政策をおこ
なったのでしょうか?

ズバリ!…それは「天海」が関与していた、と考えられ
ます。
天海が、信太庄・東条庄をまたいで、自らを頂点とした
本末制度の構築を試みた、
その一環では…と考えられています。

実は、満願寺と天海と芦名氏には、
意外な因縁があるのです…。

満願寺に、北条政子が鹿島参詣の折に立ち寄り、由緒ある
古刹故、三浦義村をして地蔵菩薩を奉納したお話を覚えて
いますか?

この「三浦氏」こそ、
天海や芦名氏のルーツなのです!!


そして、天海は、自分のルーツである三浦氏、芦名氏を、
とても大切に想っていたのです!

もちろん、満願寺が行った御祈祷が、大変に効果があった!
…ということも充分に考えられるのですが…。


ご祈祷は、密教の作法に則り修法が行われますが、その
本尊とされるものとして「両界曼荼羅図」(№117)が
あります。

画像は、会期の前半に展示中の胎蔵界曼荼羅です。
この曼荼羅には裏書があり、天正16年(1588)8月24日
に作られ
、当時の満願寺住職英伝が法華経三万部読誦
供養を成し遂げたとあります。

天台宗、特に山門派では、法華経の教え(教相)と、
密教の修法(事相)が、どちらも等しく大事なもの
とされています。

そこで、満願寺の英伝和尚は、密教の本尊である
両界曼荼羅図に三万回も
法華経を読誦し、供養したというのです!

また、芦名盛重が肥前国名護屋城に在陣した時に、満願寺
が御祈祷したのも、まさにこの両界曼荼羅図だったと
思われます!

そういう意味では、満願寺や芦名氏の歴史に、とても
大きな意味を持つ資料なのです。

もう一つ、満願寺の胎蔵界曼荼羅図には大きな特徴があります。
それは、東国において数少ない天台宗系の作例では?
考えられていることです。

茨城県内では、このような様式の両界曼荼羅図は、
他に作例が知られていません!

3月下旬には、展示替えをして金剛界曼荼羅図になります
ので、どうかお早いうちに、満願寺の胎蔵界曼荼羅図を
是非ご覧ください!!





特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(7)

2022年02月25日 | 日記
関連寺院に残されたもの(1)

今回の不動院展では、多くの関連寺院の皆様のご協力を
頂いております。

その中から、こちらで情報提供可能なものをいくつか
ご紹介させていただきます。

まず、北須賀山満願寺所蔵品をご紹介いたします。
満願寺は、天平12年(740)年、行基が法相宗として開山し、
弘仁2年(811)最澄が天台宗に改めたといい、
承久2年(1220)北条政子が鹿島神宮参詣の折に立ち寄り、
三浦義村に地蔵菩薩を奉納させ、供養料百貫文を奉納し
たという古刹です。

満願寺は、文禄4年(1595)、肥前名護屋城で朝鮮出兵
をひかえていた江戸崎城主・芦名盛重より、特に御祈祷
精誠であるにより、不動院法会において甘江院が荒廃し
ている間、第二席に座すことを許されています。

そうです、満願寺は、江戸崎不動院の末寺頭の第二席なん
です。

まず、開山の年代ですが、大変古い年代を挙げられる寺院
が多い中で、満願寺は寺の草創の時期よりも100年ほど古い
時代の仏像が存在しています。

それは、銅造如来立像(№119)です。


このお像は、茨城県最古の「白鳳期」(西暦600年代後半)
の制作とされ、茨城県指定文化財になっています。

火災の被害が痛々しいお顔は、上顎から下が焼け落ち、
上半身も熱を受け少し溶けて表面が荒れているようです、

それでも頭部のお団子のように高い肉髻(にくけい)、
アーモンド様のくりっと浮き出たおめめ
(宇宙人みたい!とのご意見もありました)、
下半身裏側の衣の稜線に連続して鏨(たがね)を打ち
込んだ模様、台座の返り花など、白鳳時代にさかのぼる
古い特徴を充分に鑑賞することができます。

実は、このお像、レプリカの展示は、当館の常設展で
いつでも見られますが、実物は、秘仏中の秘仏なので…
展示公開されるのは…
恐らく「48年振り!」のことなのです!!

今回、満願寺ご住職の特別のご配慮により、公開させて
頂いております!!

次は、いつ見られるか分かりませんので…是非、今回の
展示にご来館なさり、茨城最古の白鳳仏にお会いください!!





特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(6)

2022年02月25日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(6)

静久は、不動院5世として、巨大な不動院本堂の移築や
両界曼荼羅図の整備など、江戸崎城主・土岐治英を壇越
に大事業を進め、不動院を土岐氏の祈願寺として整備し
たと考えられます。

また同時に江戸崎の土岐氏はこの頃、美濃の土岐宗家を
継承する時期と重なっています。

それまでの不動院の住職は、幸誉・幸儀・幸淳・幸憲と
皆、「幸」の字がつく僧侶でしたが、5世静久から
「幸」のつく僧侶が見られなくなります。

このようなことを、色々考えますと…この時期の江戸崎
は、一大転換期を迎えていたのでは?と考えられます。

江戸崎城は、舌状台地の先端に位置する戦国時代の城郭
ですが、その台地の付け根の部分に不動院が置かれ、
26.4m×13.6mもの巨大なお堂が移築されているのです。


江戸崎城主土岐治英の叔父、土岐頼香(よりたか)は、
天文13年(1544)、尾張の織田信秀の美濃進軍を防ぐ
ため、岳父斎藤利政(道三)の命により寺院を城塞化し
た、尾張無動寺城で防戦に当たりますが、夜襲を受け、
自害します。

治英が、この戦いを知っていたかは、分かりませんが、
その父、治頼は兄の土岐頼芸などから実弟の戦死を
伝え聞いていたかもしれません。

江戸崎城の絵図面を見ても、不動院は舌状台地の付け根
に位置し、ここが急所と見受けられます。

ですから、土岐治英は、そのような要所に軍事上の拠点、
かつ霊的守護として不動院を配置したのかもしれませんね。

実際に、天正18年(1590)の江戸崎城落城の際、攻め手
の神野覚助は、真っ先に不動院を占領し、その翌日には
江戸崎城を落としています。

この時、不動院にどのような被害があったのか記録は
残っていませんが、同年、随風(天海)が芦名盛重と
共に江戸崎に入りましたが、不動院が荒廃して入院でき
ず、不動院修築の間、江戸崎新宿の華蔵院に住んだと
地元では伝えられています。


華蔵院には、慈眼大師加持井銘の碑が建立され、その井戸
は星見井の名もあるそうです。

こうして、天海が修築を終えた不動院に入ったのは、
翌天正19年(1591)のことと伝えられています。



特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(5)

2022年02月24日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(5)

前回は、不動院の元々の境内地が現在の江戸崎中学校の
敷地とその周辺一帯が含まれていたこと、伊勢台には
地域の信仰が寄せられ、それが何時までさかのぼるか、
現時点では不明であることなどをご紹介いたしました。

今回は、不動院の開山僧の幸誉法印の出身寺院である
比叡山無動寺と霞ヶ浦沿岸の寺院の関係について触れ
たいと思います。

実は不動院と同じように、比叡山無動寺の僧が(中興)
開山となっているお寺が、茨城県内にもう一つあります。

それは…尸羅度山西蓮寺(しらどさんさいれんじ)
(行方市)です!


西蓮寺は、鎌倉時代の弘安年間に、無動寺の慶弁が再興
したと伝えられ、境内には、弘安の役の戦没者を追悼す
るため巨大な「相輪橖」(そうりんとう)が建立されて
います。この相輪橖は、国の重要文化財です。


江戸崎不動院が、室町時代の文明年間ですから、鎌倉時代
に無動寺の僧が入寺した西蓮寺は、より古い時代に開かれ
たお寺だったと考えられます。

地元の方なら、不動院と西蓮寺は、霞ヶ浦(当時は香取海
と呼ばれる流海)の南西と北東の対岸とピン!とくるかも
しれませんね。

これらの場所は、江戸時代の霞ヶ浦48津の南北津頭の
置かれた近隣にあります。

今回、不動院と西蓮寺の歴代住職の記録をよく調べてみ
たところ、一組の師弟関係を新たに発見しました。

不動院5世の静久と西連寺17世の静海です。
不動院の記録では、静久は不動院住職を勤めた後、支院
の一つに江竜院に隠居し、そこで亡くなったことになっ
ていますが、西蓮寺の記録では、西蓮寺20世を次第して
いるのです。

この他にも、静海が三井寺で書写した写本を、静久が
筆写し、その本が叡山文庫に残されていることが分かっ
ており、静海と静久が師弟だったことは、ほぼ間違いあ
りません。

実は、西蓮寺は「杉生流」と呼ばれる天台教学が古くか
ら伝えられた学問所だったと考えられています。
そして杉生流は別名を「無動寺流」ともいいますので、
無動寺の慶弁が西蓮寺に入寺していることからも、
肯定できるかと思います。

そして西蓮寺は、杉生流の学問所として鎌倉時代以降、
現在の霞ヶ浦沿岸地域で中心的な役割を担ったと思われます。

現在の稲敷市内でも、阿波・安穏寺が本尊の銘文から
南北朝期の貞治6年(1367)までには西蓮寺の教化を受けて
いたと推測され、小野逢善寺8世弘尊も師匠である
安穏寺亮栄の教化を通じて、その法流を受けていました。

このようにして見ると、出沼西蓮寺が稲敷地域に与えた
影響は、大変大きなものだった、と言えるのではない
でしょうか。


西蓮寺の院号、「曼殊院」は京都にある門跡寺院の名を下賜
されたと伝えられています。このようなことからも、
西蓮寺の寺史は注目されています。