稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常州江戸崎不動院」講演会を実施いたしました!

2022年03月30日 | 日記
去る令和4年3月26、27日に、
稲敷市立歴史民俗資料館主催の特別展「常州江戸崎不動院」
講演会を、あずま生涯学習センターで実施いたしました。

26日は中川仁喜先生(大正大学准教授)、
27日は佐伯英里子先生(中央大学理工学部非常勤講師)
に、それぞれの研究分野における不動院と天海僧正に
ついてご講演をいただきました。

春のお忙しい最中、そしてコロナ禍中ではございましたが、
稲敷市内はもとより、北は宮城県仙台市、西は大阪府豊中市まで、
大学教員等の研究者を含む約200名の方に
ご参加いただきました。

中でも、天海僧正の生まれ故郷とされる福島県会津美里町
からは、観光協会の代表5名がご出席されました。

また質疑応答では、発表者と受講者が熱い議論を交わし、
天海僧正と不動院に関する関心の高さを、
改めて窺うことができました。



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特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(17)

2022年03月18日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(8)

不動院に存在した「山王御本地」

前回は、江戸崎不動院に残る天海直筆の
「南無東照三所大権現」宝号の掛軸と、「三所」に
ついてお話し致しました。

天海が不動院に入寺した時、その頃はまだ「随風」を
名乗っていました。

それ以前の不動院は、江戸崎土岐氏の祈願寺として、
江戸崎城の後背を守る予備的な軍事拠点であると同時に
霊的な守護所だったのではないか…と推測されます。

また、不動院は天文の絹衣相論の中核となった寺院でしたので、
神野覚助が千葉氏の一族だったことなどは、江戸崎城攻略
の第一目標として不動院が占領され、そこに陣が敷かれる
遠因となったかもしれません。

神野覚助の占領により不動院は荒れ果て、随風はしばらく
の間、江戸崎新宿の華蔵院に居住したと地元に伝えられています。

占領の混乱の最中でしょうか、不動院はいくつかの宝物を失っていた
らしく、『不動院記録』№3の「山王御本地裏書写」
に、「…折節当院依無之 教成坊豪弁所持之間 
当寺之本尊定也 当院大和尚随風判」とあり、
天海の片腕と言われ、不動院13世となった最教院晃海が
記した記録に、「(戦乱で荒廃した)不動院にはこれ(山王御本地)が
無かったが、教成坊豪弁が持っていたので、当寺(不動院)
の本尊と定めた」と見えます。

教成坊豪弁が何処の、何者か、はっきりとしたことは
分かっていませんが、同時代の稲敷市阿波崎の「満願寺文書」
に「豪弁寺領差出」という文書があり、満願寺の住職だった
豪弁と同一人物であると考えられています。
満願寺は、江戸時代には不動院末寺で最も多くの檀家を抱え、
また中世においては香取の海(霞ヶ浦)の要衝として、人や
物資が行き交う場所の一つで、豊かだったと窺えます。

また、「当寺之本尊定也」についても、検討が必要ですが、
不動院には不動堂とは別に山王権現を祀ったお堂があったと
考えられ、そのお堂の本尊だったと推測されています。

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特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(16)

2022年03月18日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(7)


江戸崎不動院の「東照三所大権現宝号」

前回は、徳川家康のお葬式を取り仕切ったのが、江戸崎
大念寺の開山僧・源誉慶巖だった!というお話でした。

一周忌が過ぎた家康の霊は日光山に勧請されることに
なるのですが、その祭祀の方法について、議論がおこな
われました。

大明神として祀られた豊臣秀吉の豊臣氏が滅亡したこと
などから、家康は大権現として祀られることになり、
その方法は一説に、天海が後陽成院より授けられたと
される「山王一実神道」に基づくことになります。

江戸崎不動院には、天海直筆の「南無東照三所大権現」
(№63)の宝号の掛軸
が遺されています。


「東照大権現」や「権現様」というと、徳川家康の別称
であったり、東照大権現像という名の徳川家康とされる
肖像画を見たことのある方も多いかと思います。
東照大権現=徳川家康であることは、周知の事実ですね。

では、「三所」とは一体何でしょう?
実質的に天海が考案した、山王一実神道とは、天台宗の
「山王神道」を元にしているとされています。

三所は、三柱の神様で、権現ですから神仏習合の本地
仏が存在しています。
簡単に説明すると…
東照大権現=薬師如来(徳川家康)
日吉山王権現=阿弥陀如来(①)
摩多羅神=釈迦如来(②)
と言われています。

これらを三つ合わせてお祀りし
「東照三所大権現」としたのです。

天海は、徳川家と、徳川幕府の始祖である家康を、
天台宗の鎮守である山王権現と一緒にお祀りすることで、
徳川幕府の元で天下泰平を祈る天台宗という形を作り
あげました。

このように、東照権現信仰は幕末まで神仏習合
の形でおこなわれたのです。


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特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(15)

2022年03月17日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(6)

徳川家康のお葬式

徳川家康が、元和2年(1616)4月17日に没しますが、
それ以前に以下のような遺言を残しています。

臨終候はば御躰をば久能へ納。
御葬禮をば增上寺にて申付。
御位牌をば三川之大樹寺に立。
一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。
勧請し候へ。

大凡の意味は…
亡くなったら遺体を駿河国久能山に納め、
葬礼は、江戸の芝・増上寺に申し付け、
位牌は三河国大樹寺に立て、
一周忌が過ぎた後、日光山に小さなお堂を建て、
(霊を)勧請し(神として祀れ)なさい。
という所でしょうか。

ちなみに、この時、芝・増上寺で徳川家康の葬儀
(中陰法要)を取り仕切ったのは…
江戸崎・大念寺の開山僧である源誉慶巖(げんよ・けいがん)
なのです!


…しかし、家康の遺言には、遺体を駿河国久能山に納め、
とあるので、芝・増上寺には、ご遺体がありませんでした。
そこで、葬儀は、中陰法要(初七日法要)という形で
実施された、ということのようです。

大念寺は浄土宗ですが、三河国の松平氏も浄土宗を一門
の宗派としていたようです。
そして、家康は、増上寺の国師・存応と、師檀の契約を
結び、源誉慶巖は存応の後継者の一人と目されるほどの
学僧だったと言われています。

そして、一周忌が過ぎた頃、家康の霊は日光山に
勧請されることになるのです。


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特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(14)

2022年03月12日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(5)

天海僧正は、「ソース顔」?

ここで、ちょっと一休みな話題を一つ。

今回の展示では、絵画や彫刻の天海僧正の肖像をいくつか
集めましたが、それらをよく見てみると…あることに気付
きます。

それは、天海僧正のお顔立ちについてです。

絵画ですと、不動院、本覚院、全水寺、輪王寺のもの。
彫刻ですと、不動院、輪王寺のもの。

これらを観察しますと…

①眉間が突出し、眼窩も横長で四角く大きい輪郭。
②濃い眉毛。
③二重瞼。
④鼻根は低くへこむが、鼻背が高く大きい鼻。
⑤太く厚い下唇。
⑥大きく垂れ下がるような耳たぶ。


慈眼大師(天海)坐像(不動院所蔵)(№58)

これらの特徴は…といいますと、
「縄紋人」タイプとされる顔の特徴ですね。
今時?は、ソース顔なんて言われたりしているようです。

ここから察するに、天海僧正は男性的な濃いお顔立ちで、
若い頃は彫りが深く、ある意味日本人離れした
エキゾチックなハンサム…
だった…かもしれません…。

天海僧正は、会津出身ですが、東京大学大学院理学研究科の
調査によりますと、現在も福島県には縄文人の遺伝的
特徴を備えた方が少し多くおられるようです。

天海僧正は、父方から縄紋系の特徴を受け継いだと考えら
れますが、須藤光輝著『大僧正天海』(1916年9月20日)
には、天海の父は在地の武士船木兵部少輔景光、母は
芦名盛常の娘とありますが、これとも符合しそうです。

このお顔の特徴こそが、「会津人」としての天海僧正の
アイデンティティー
に関わっているのかもしれませんね。

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