全国的に不安定なお天気で、
本日の甲府も午前中急に雷雨があったり、
午後は晴れて蒸し暑くなったりと、
気温と湿度の変化が急激で、
何となく体も重く感じられてしまいます。
他地域では災害まで発生している状況ですが、
甲府は、このところ降る降る詐欺被害が続き、
予測を裏切って雨が降らなかったので、
大雨被害の地域にお住まいの方には本当に申し訳ないのですが、
庭の木々などにはしっかりと良い水分補給となりました。
そして、干からびそうになっていたミスターカエル氏たちにとっても
恵みの雨になったようで、施設のあちらこちらで姿をお見かけしました。
中には久々の雨で思わずウォールクライミングするカエル君も。
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さてさて、本題の参加型企画、決戦川中島ですが、
25日から投票の表示を工夫してから投票率はやや改善に向かいつつあり、
今後の得票の変化が楽しみです。
最初に対決テーマの戦略についてご説明しましたが、
対決テーマ二つ目の「戦術」勝負のご紹介です。
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目標達成の全体像を描くのが戦略だとすると、戦術はその手段。
ここではシンプルに武田軍と上杉軍、どちらが軍事的勝利を収めたか、
を判断いただくコーナーです。
このテーマについては多くを語る必要はないのかもしれません。
5回に及ぶ川中島の戦いでは、各所で小競り合いによる一進一退が繰り返され、
両軍対峙が長期化して和睦によって軍を収める展開が続いた中、
両軍主力が激突した永禄4年(1561)
第4回の川中島の戦いを主にクローズアップした解説をしています。
山本勘助が進言して実行したと言われる軍を二分して攻める
「啄木鳥戦法」に対して、
海津城付近から立ち上る夕げの支度の煙をみて奇襲を察知し、
夜陰に乗じて妻女山を下り、八幡原に布陣していた信玄本隊を急襲した上杉軍。
一説には上杉軍は車懸りの陣と呼ばれる陣形を用いて突撃し、
対する武田軍は、迎撃のために鶴翼の陣を用いたとも伝えられています。
真偽の程はさておき、戦の趨勢は、
前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ちと言われる戦となったようです。
ただし、戦死者数は推計でも武田の被害が多く、
かつ武田典厩信繁ら重臣級の将を失った武田が不利な対決テーマです。
信繁様がご存命だったなら、武田のその後も変わったかも?
とはいえ、最新の研究では、重臣級の戦死者は少ない上杉軍も
実は「揚北衆」と呼ばれる越後北部の武士たちが大勢戦死していたことや、
謙信の願文の奉納先が、この戦い以降、北信濃地域の寺社から見られなくなり、
越後国内の寺社のみになっている点から、実は上杉謙信側では敗北に等しい
捉え方がされていることが明かされています。
一方で、武田側の被害は言うまでもありませんが、合戦全体の戦の中で見ると、
第3次では川中島一帯を押さえつつ、安曇郡小谷方面からも軍を進めて勝利し、
越後侵攻を画策するなど、広域戦では勝利を重ねています。
そんな背景も加味しつつ、ご来館の際には判断材料にしてください。
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