今日は、天正5年(1577)に、武田勝頼と北条氏政の妹(桂林院殿)が結婚した記念日です。
勝頼がまだ諏方氏を称していた頃、織田信長の養女を正室に迎え、その間には嫡男信勝が誕生していました。
しかし、元亀2年(1571)に死別していたため、北条夫人が継室に迎えられました。
小田原北条氏と武田氏は、長年、対立と同盟を繰り返していましたが、元亀2年には再び同盟関係を築いていました。
婚姻成立の背景には、勝頼が長篠の戦いの敗戦以降、織田・徳川との対決に集中するため、背後の憂いを
排除する狙いがあったとされています。
北条氏としても、長篠の戦で敗れたとはいえ、武田氏の勢力は侮れず、また、上杉氏や北関東の諸氏との抗争に
専念する意味もあったためか、両者の思惑が一致し、婚姻による同盟強化に動いたようです。
ところが、婚姻後間もない天正6年(1578)、事件が起きました。
越後で上杉謙信の急死による後継者争い(御館の乱)が勃発し、武田・北条両氏も巻き込まれました。
勝頼は、当初は北条方として動いていましたが、最終的に北条氏から養子として入っていた景虎ではなく、景勝と盟約を結びました。
結果的に上杉景勝が勝利し、甲越同盟が成立しましたが、北条氏との同盟は解消されました。
再び敵対関係となりましたが、北条夫人は小田原には戻らず、勝頼の許にとどまりました。
そして、天正10年(1581)、侵攻する織田・徳川の連合軍に抗しきれず、武田家は甲斐国の田野で滅亡します。
それに先立ち、北条夫人は、窮地の勝頼の戦勝と安寧を祈願する願文を武田八幡宮に奉納しています。
また、「甲乱記」では、勝頼は北条夫人に実家である小田原に逃げるよう勧めましたが、
勝頼と運命を共にすることを選び、田野で自害したとされます。
そこには、実家に背を向け、最期まで勝頼のことを思いやり、勝頼もまた北条夫人を大切にしていた仲睦まじい夫婦の姿が思い浮かびます。
勝頼の死後、甲斐国慈眼寺の住職から高野山に遺品が奉納され、その品目の中に「勝頼公井御台所、御曹子寿像」がありました。
現在、高野山持明院所蔵の絵画がその時に奉納された品と言われていますが、戦国時代に家族写真のような自画像を
描かせること自体が大変珍しいことでした。
乱世の中でもお互いを思いやり、家族を大切にした勝頼と北条夫人が結ばれたのが、444年前の1月22日でした。
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