お城散策には良い季節です。

2022-05-18 18:02:47 | 紹介
昨日までのどんより天気とは変わって、今日はカラッとした青空が広がり、
日中は暑いくらいの陽気になりました。
そのせいか、今年初のトンボがミュージアムの中庭に羽を休めに来ました。
ツツジの花に掴まって休憩中。
トンボは前にしか進まないことから勝ち虫として武将の間でも人気だったとか。

まだ羽化して間もないのか、素早い反応で長くは飛べないようでした。
トンボの姿を見るようになると、あっという間に夏の足音が近づいてきた気がします。
初夏の陽気となりつつある甲府ですが、フィールドワークには良い季節です。

躑躅が崎の先端に築かれた武田氏館も新緑に包まれ、木陰もほどよく涼しく心地よく感じます。
館は、永正16年(1519)に築かれましたが、信虎公の時代に誰が奉行となって
築いたのかわかりません。しかし、信玄公の時代には築城の名手がおりました。
その名も馬場美濃守信春(1514または1515−1575)
有名なお方ですが、御存でしょうか?
「武田二十四将」としても名高く、またの名を「不死身の鬼美濃」とも。
武田氏3代に仕え、そのおよそ40年のキャリアにおいて、70以上の戦に出陣。
これだけの戦歴で、かすり傷ひとつ負わなかった(!)とかで、こんなニックネームがつけられたそう。
築城技術にも長け、武田領国の各地の城には、馬場美濃守普請、と言い伝えられた城は数知れず。
信玄公によって、戦禍を逃れて、長野から甲府に丸ごと移転された善光寺。
現在は甲斐善光寺と呼ばれておりますが、その本堂の普請奉行を担当したのも馬場美濃守。

そんな馬場美濃守が築城術を学んだのが山本菅助(1493または1500−1561)。
菅助は、その分野での専門家を求めていた武田氏に、城取りの名人として採用されたと伝承されています。
その築城術の奥義・神髄は、甲州流軍学の書「甲陽軍鑑」に詳しいのですが、
奥義光る要所の一つが出入口。

例えば「馬出」(うまだし)という城の出入口の前に設けられた「曲輪」(くるわ)(※)。
(※曲輪は、土塁と堀、またはそれに囲まれた場所)
菅助流の馬出は、敵を討ちやすく、かつ安全に退却できるように配慮されていたということですが・・・
言うは易し行うは難し。
・・・武田氏館跡(現・武田神社)東の大手門正面には、武田氏以後に築かれた石塁が復元されていて、
その下に眠るのが、武田家流築城技術のひとつ、「三日月堀」(三日月型の馬出)。
どんな防御施設だったの(!?)と気になりませんか~。
ぜひぜひ(!)武田家流の馬出の規模などを現地で体感しながら(!)頭の中で再構築(!)してみてください。
説明パネルもございますので♬
こちらが大手門東史跡公園の石塁

・・・
出入口は、どうしたって、敵の侵入と攻撃が集中する場所です。
どこに設置するか、どのように築くか、敵の攻撃をさまざま想定して防御の工夫を凝らす・・・
その一例が、館跡の西曲輪に遺る「枡形虎口」(ますがたこぐち)と呼ばれた出入口。
武田氏時代に館が敵に攻撃されることは、ついぞありませんでしたが、、
たとえ敵兵が枡形虎口から「わー」っと侵入しても、一直線に城内に突入できないようになっていました。
というのも、虎口から内部に通じる門は、正面からずれた位置に設置されていたから。
突入すれば若干の方向転換が必要とされ、自然、敵兵の勢いは削がれることに。
また、敵兵の視線を一瞬でも翻弄させることができれば、虎口を囲む土塁の上からも攻撃しやすくなります。

城に詰めていた味方が土塁の上に駆け上がるための坂も、数種類考案されていたようで、
攻める側にとって危険極まりないエリアが、この「虎の口」でした・・・。

武田氏館跡・西曲輪の桝形虎口。門跡の上から見ると、こんな感じ。
石積みは豊臣政権下で改修されたものですが、武田氏時代の枡形空間はきれいに遺っています。

ちょっと長くなりましたので、今回はこの辺で。
あともう少し、お付き合いください🙇

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