「武田二十四将」の一人としても名高い馬場美濃守信春。
武田氏の築城に関わること数しれず。そしてその師は、武田の軍配者・山本菅助。
その奥義は、武田氏館跡に遺る馬出、枡形虎口にも見出すことができますが、
城を囲む土塁や塀もまた重要。わずかなスキも命取りになりかねません。
戦国の兵器といえば火縄銃で、館跡の土塁の規模は、その攻撃力に対応したものですが、
土塁の高さは、長槍に対応していたと言ってもいいかもしれません。
というのも、出陣する兵士のほとんどが足軽で、その攻撃手段が長槍だったから。
数に任せて長槍で攻撃されれば、土塁の上からの攻撃はほぼ不可能。
なので、長さ3間(約5.4m)の長槍が届かないように、土塁は3間以上の高さで。
ちなみに、土塁は堀の土を積み上げたものなので、堀の深さも3間ほど。
館跡の堀は一部、空堀。堀を下って土塁を上ることは可能ですが、
その後、気力・体力がどこまで続くかは、推して知るべし。
武田氏館跡・主郭と西曲輪の間の堀跡(右)
「甲陽軍鑑」には、館を囲む塀の工夫も記されています。
一見、シンプルな塀だけど、その実、裏では侵入阻止の塀やら柵を設置していたり。
城内の様子がわからないように、目隠し兼攻撃用施設を用意したり。
虎口つまり出入口の外に、虎口を隠すための曲輪を造ったり。
構えをどこから見ても同じにして、正面はどっち!?裏はどっち!?
と、とっさの時に敵の判断をかく乱する工夫も。
「念には念を」ということでしょうか。
敵に城を攻めこまれた時、いかに敵の攻撃に耐えるか?いかに敵に反撃するか?
そのための工夫がずい所に張りめぐらせたのが、まさに菅助流だったのかもしれません。
「味方は少人数でも敵の攻撃に耐えられるように。
敵が少人数であれば、絶対に落とせないように。
仮に敵の大軍に攻め取られても、取り返しやすいように!」
↑これは、信玄公から馬場美濃守への築城命令。
って、どんな城(!?)と頭を抱えてしまいそうですが(・_・;)
「馬場美濃守なら、できるよね!」という信頼の現れ!?
・・・
甲斐善光寺本堂は、門前町も含めて、信州の善光寺にかなり忠実に再現されたようで、
そこに甲州流がどこまでどう活用されたかは定かではありませんが、
大切な本堂の普請奉行には、菅助流築城術を学んだ馬場美濃守こそが適任だったに違いなく。
5月。とても爽やかな風が吹く季節です。
甲斐善光寺の御開帳も6月29日(水)まで行われています。
武田氏館跡に甲斐善光寺と、信玄公ゆかりの地を訪ねてみませんか。
でもその前に、当館で館跡の”見どころ”の確認をお忘れなく😉
旧堀田古城園のザクロの花も咲き始めました。
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