絶対!甲州枡じゃなきゃだめなんだ!

2021-05-26 13:14:56 | 紹介
安永5年(1776)、各地の枡を統一することで、枡座を確立し、
全国規模での商業統制に乗り出した徳川幕府ですが・・・

甲斐の国では、「国枡」=甲州枡の廃止にお百姓が大反対!
こちらは甲府市の方にご寄託いただいた甲州枡

幕府は、かなり理解のある妥協案を出しますが、それにもやっぱり大反対!

そして、牢につながれることも厭わない!
という覚悟を確認しあい、代表の村役人14名が江戸に出向きます。
その要望は、「京枡に樽屋の押印はいいが、「国枡」への押印は勘弁してほしい。
それでは、古来からの「国法」に変更が加わって、「国法」そのものが別物になってしまう!」

この訴え、なかなか決着がつかず・・・
天明4年(1785)の暮れ、幕府は、甲州の心配は「単なる推量にすぎない」とぼやきつつ、
ついに、「甲州枡の使用はこれまで通り」と認めます。

拒否したのは、枡座の押印=幕府による管理、介入だったのかもしれません。
が、こうまでして「国枡」、「国法」を守らなければならなかった理由ってなんだったのでしょう。

ちなみに「国法」とは、信玄公が定め、家康公もそのまま認めた甲斐の法律。
その3本柱が、甲州金であり、甲州枡であり、そして大小切(だいしょうぎり)税法でした。

そして、この事件のキーとなったのが、おそらくは大小切税法。
「大切」=米納(一部金納)と、「小切」=金納で税を納める方法のことで、
山がちでお米があまり取れない甲斐国ならではの制度ですが、
結果的に、商品作物、貨幣経済も発達し、年貢の負担軽減にもなる、
なんともありがたい、そして絶対に手離したくない制度だったようです。
起源不明の「大小切税法」を、信玄公が定めた由緒あるもの!
と主張するようになったのも、この頃ではないかと言われています。

だからこそ、「国法」の一画が崩され、
なし崩し的に、税の納め方にも手が加えられ、年貢負担を増大されちゃあかなわない!
「国法」は1文字たりとも変えさせないぞ、という思いで反対したのかもしれません。

自分たちの大切なものは、自分たちで守らなければいけないんだ!
そういう意識は、突然生み出されるものではありません。
それには前振りがあり、甲斐国でいえば、
明和5年(1768)の元文金と甲州金の両替率問題がそれでした。
下落する幕府鋳造の貨幣と甲州金の両替率を固定化しようとした幕府に対し、
両替するだけでこっち(甲斐)は損してしまう(!)と大反対。
そりゃそうだね😓ということで、訴えは認められ、従来通りの変動制で一件落着。
この時、反対運動の中心的役割を果たしたのは、より危機感をもったお百姓でしたが、
枡の問題に至り、運動は完全に組織化され、甲斐国をあげてのものになったのです。

・・・
一連の出来事の中で整備されたのが、館跡の「武田法性宮」の石祠であり、火葬塚でした。

さらに、寛政10年(1798)には、
甲州枡を守ることができたのは、ひとえに信玄公のおかげ(!)ということで、
三郡(山梨郡、八代郡、巨摩郡)一致して信玄公の祭礼を願い出ます。
以降、そのご命日である4月12日には、ゆかりの場所に参詣の群れ群れ群れ・・・
祭礼は定着していきます。
(※)現在も続く「信玄公祭り」は昭和22年(1947)からスタートしたイベントであり、
地域の方々によって始まった祭礼とは異なります。

最後に。枡の製作から販売を一手に担う枡座の力が及ぶに至ったのは、
結局のところ、直轄領とその周辺のみだったとか。
各地それぞれに、思い入れ深い「枡」があった・・ということかもしれません。

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