歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

おかしなはなし(前)

2025-02-16 15:20:26 | 神奈川県
過去記事で、草笛光子さんが横浜市港北区の寺へ疎開したことを
市内から市内へ」と題し、記事にまとめている。

その後、どうにもひっかかり、
調べてみたことの本日は備忘録。


太平洋戦争後半、
戦争指導者が米軍機による本土空襲に警戒感を持ち始めた頃。
防空上の必要から女性や幼児、高齢者に対し、
地方へ避難することが奨励された。

その流れのいわば延長上に「学童疎開」がある。

これに関し、過去記事で触れた草笛光子さんも疎開した、
神奈川県横浜市港北区の学童疎開が、ずっと気になっていた。

本記事では2度に分け、
まず、前編として、当時、戦争指導者が考えていた学童疎開の意味、
大まかな実施までの流れをまとめる。

後編が、横浜市港北区の学童疎開の「おかしさ(奇妙)」についての
記事となる。
わたしが気になっていたことの答えである。


1.「学徒疎開促進要項」

昭和19(1944)年6月30日
「学徒疎開促進要項」が閣議決定される。
「防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ
国民学校初等科児童(以下学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記
ニ依リ強度ニ促進スルモノトス」としている。

国民学校初等科児童、すなわち、今で言う小学校児童を
以下、「学童」と呼び、その疎開について強く進めることになる。

「一、学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部
若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ
一層強力ニ勧奨スルモノトス

 二、縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ
各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準シ措置スルモノトス ――後略――」
(「国立国会図書館サーチ」)より

「学童は家族単位ででも、または子どもだけでも構わないから、
縁故疎開を強く勧める」
「帝都の学童で縁故疎開が難しければ、集団疎開を実施する、
他の地域もこれに準ずるように」との通達だ。

当初は、「帝都(東京)」中心にした学童の縁故疎開
考えていたわけだ。
その理由については、あとで述べる。


2.「学童疎開問答」
注目すべきは、学童疎開が、子どもの生命や安全を重視する
人道的な意味合いで、奨励されているものではないことだ。

情報局編「週報」406号(昭和19年8月2日)掲載の「学童疎開問答」を
見れば、その意図が明らかである。

この雑誌は、内閣直属の「情報局」が毎週発行している。
情報局」とは、昭和17(1942)年12月の発足以来、
言論、出版、文化の検閲・統制、銃後のプロパガンダを軍部と共に担った、
政府機関である。

「いふまでもなく学童は国家の後楯で、
国家を興隆させる源泉をなすものですから」と、
学童の位置づけをしたうえで・・・次のように言う。

「国民学校の初等科の教育こそは決戦下において、
出来る限り十分に行って、立派に次ぎの時代を背負ふに足る基礎を
養っておかねばならないのです。
そこで政府では多額の経費を要しても学童の疎開を実施し、
学童の保護と教育に支障のないやう萬全の策を樹てることになったのです
(『横浜市の学童疎開』12頁)

要は、次の時代の兵士たる男性、子を産む女性の確保のために
国が経費をかけて、学童疎開を実施すると言うこと。
「学童の保護と教育」は将来の戦地と銃後を守る人材のため
「保護と教育」なのだ。

これっぽっちも、「学童」の側に立ったものではなく
あくまでも戦争継続のための方策
そこを間違っちゃいけない。

ともかく、二週に亘って「学童疎開問答」は掲載される。
一般保護者との問答形式で、進学の不利にはならないことや費用の不安など
「学童疎開」への不安を払拭し、強力に保護者に決断を促すものだった。



3.学童疎開実施都市
当初、想定されたのは帝都だったが、結局は以下となる。

「東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、
戸畑、若松、八幡の十三都市であって、疎開児童数は約40万人と推定された、この人員推定数により国庫補助が算定され、疎開児童数をこの範囲内で
おさえることとなった。」(『横浜市教育史下』326頁)



4.国庫負担
「学童疎開問答」で触れたように、学童疎開でも「集団疎開」の場合、
経費は国庫も負担した。

「集団疎開に要する経費は、保護者の負担を除いた純負担額に対し八割、
受入諸費に対し全額を国庫が負担した。
昭和十九年度の国庫補助予算は約一億一〇〇万円、
昭和二十年度は約一億四、○○○万円であった」
 (文科省HP「三.戦時教育体制の進行」)

参考までに、調べたところ、
昭和19年度予算(歳出)の総額は21,838,224,326円だった。
(財務省HP「統計表一覧」)
学童疎開に割かれた経費は1%程度ということであろうか。

いずれにせよ、軍費が大きな割合を占める中での
新たな予算化だ。
経費はできるだけ抑えたい・・・

だからこそ、当初「学童疎開」は縁故疎開が奨励されたのだ。
縁故疎開」ならば、国庫からの経費は不要との言い分だろう。

これを強く奨励したかったのは、
地域毎の縁故疎開率を掲載した記事が見受けられたことより明らかだ。
全て経費のためにほかならない。

結局、大々的なキャンペーンを打ち出しても、
さほど疎開率が上がらなかったため、
ついに「集団疎開」実施に踏み切る。

ただし、予算は限られているのだから、
都市を限定し、人数も推定し、経費を抑えようとしたのである。

(本当に戦争は個人の意思は無視されるんだね)



4.神奈川県の場合
指定された十三都市に、神奈川県は三都市も入っている。
海軍鎮守府の置かれた横須賀市京浜工業地帯の川崎、
そして幕末以来の港湾都市にして京浜工業地帯の一角をも担う
県庁所在地・横浜市である。


葛野重雄(当時教育部施設係長)は回想する。

「神奈川県は伊豆方面が疎開先として割り当てられたが、
学童を他県に出すと十分な世話ができない。
県内ならば、物質その他の面について、できるだけのことをしうるという
近藤<壌太郎>知事の英断のもとに疎開が実施され、
これが学童、親、先生、県市のためにも大へんよかった」
(『横浜市教育史下』327頁)

近藤県知事の「英断」により、割り当てられた伊豆(静岡県)ではなく
神奈川県は、県内で疎開が実施されることとなった。

実行できたのは、箱根に数多ある温泉旅館が、
学童疎開の受け入れ先として協力したことが大きかったという。


・・・というところが、プロローグである。

次が、いわば、本編。
神奈川県の中でも、横浜市港北区の学童疎開に焦点を当てる。
その特異性、感覚的な「おかしさ(奇妙)」をまとめたい。

後編もおつきあいいただければ、幸いである。


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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
素人である個人のブログ記事です。

参考📖:各引用箇所に主にまとめた通りです。
不備や勘違い、思い違いなどはご容赦下さい。
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