海外旅行の画像を保存したCDをしまい込んで、久しい。
もう、あの旅をたどることはできないのではないかと
考えていた矢先、かつてのブログを開けることを思いついた。
本日の記事は、2010年5月、ポーランドツアーに参加した、
旅の記憶。
ブログ公開時のタイトルは「アウシュヴィッツの日本人ガイドさん」
アップは、2010年6月4日だった。
(件のブログは現在非公開)
画像はスクショしているため残念なものだが・・・
どうぞお許しのうえ、おつきあいいただけたら嬉しい。
なお、記事をは、一部加筆修正した。
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ポーランド旅行と言うと、
ショパンとアウシュヴィッツが二本柱のようだ。
私たちのツアーでも、「アウシュヴィッツがあるから参加した」と、
おっしゃる年配の方が目立つ。
(収容所の入り口。
「ARBEIT MACHT FREI<働けば自由になる>」と掲げられた門)
クラクフ市街からアウシュヴィッツへ向かう道中は、雨。
近づくにつれ、あたりは白樺やトーヒの森(冒頭画像)が深まる。
収容者は、雨だろうと雪だろうと、
森の開墾を強いられていたのだっけ……
今まで読んできた本のイメージが、形となってくるようだ。
(アンネ・フランクも一時収容され、コルベ神父の終焉の地ともなった
ビルケナウ<第2収容所>)
「アウシュヴィッツ」とはドイツ人の付けた名前。
ポーランド語のもともとの名は、「オシフィエンチウム」と言う。
今、かつてのアウシュヴィッツ強制収容所は、
ポーランド国立オシフィエンチウム博物館として、
「負の世界遺産」に登録されている。
1940年から1945年の解放までの間に、
ナチス・ドイツによって、ユダヤ人を中心に、
130万人が連行され、うち110万人が殺害された。
毎日、多くの人々が送られてくるため、収容が追いつかず、
1942年以降、ユダヤ人の7割は、到着するなり、
殺戮されるようになる。
このオシフェンチウム博物館に今、
唯一の日本人ガイド中谷剛氏がいらっしゃる。
中谷氏は、前の週まで日本に帰国しており、
この日、私達のガイドが仕事始め・・・
運が良かった。
(右手を進むと、冒頭写真のゲート。中谷さんの後を必死でついていく)
博物館では、連行された人々の残した眼鏡、靴、鞄の山や
刈り取られた髪の毛の束と、その髪で作った布、
あるいは、毒ガスの空き缶の膨大な数が、展示されている。
中谷さんのお話を聞きながらの見学だったから、
私は目をそらさずに見ることができたのだろう。
ーー白い錨のマークをあしらった紺のサンダルは
まるで元町のミハマの靴のよう……
ああ、きっとお洒落な人だったのだろう…ーー
そんなことまで、記憶にしっかり残っている。
(2024年追記:今思えば、「モノ」が「人」を語る記憶に他ならない。
今、私が重視していることが、このときに既に体験していたのだね)
館内の展示物は撮影禁止。
だが、前を行く兵士の一団は、熱心に写真を撮り続ける。
中谷さんがおっしゃる。
「大目に見てあげてください。彼らはイスラエルの兵士です。
彼らのひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんが、
この犠牲者の中にいるはずです」と。
(ビルケナウ<第2収容所>で、国旗をかかげ、
引き込み線の跡を歩くイスラエルの学生)
中谷さんは淡々と語る。
「当時のドイツは、国家政策としてユダヤ人の絶滅を計画しました。
でも、どうしてそれが可能だったのか?
ドイツは決して国家的に孤立していなかったのです。
内外に多くの協力者がいましたし、
見て見ぬふりをする人がほとんどでした。」
遠い昔の出来事ではなく、私たち自身が
問題として考えられるように、話してくださる。
(かつて収容者が植えさせられたポプラや白樺の苗木は、
こんなに成長している)
1947年、戦禍の傷がまだ生々しいときに、
このホロコースト(大量殺戮)の場の保存を決定した
ポーランドという国の姿勢に、敬意を表したいと思う。
現在では、ポーランドだけではなく、
ユダヤ民族やEUによって基金が作られ、
寄付も集められているそうだ。
それは、この地が「人類に対する警告」の場だからにほかならない。
最後に売店に立ち寄ると、日本語のガイドブックが見当たらない。
尋ねると、奥の方から必要な数だけを出してくれた。
どうやら、訪れる人が少ないので、棚に並べていないようだ。
ショパンの生家の売店では、日本語版も陳列してあったのに……
「どうして日本人は、ここに来ないのでしょう?
お隣の韓国の見学者数は、日本人の5倍に上ります。
日本人は、特に若い人が訪れることが少ないのです。」
中谷さんのこんな言葉が思い出された。
中谷氏は、難関のポーランド語の試験に合格して
ガイドをなさっている。
最近、朝日新聞に紹介もされたとのこと。
いろいろな偶然が重なり、
この旅で中谷氏に出会えたことを心から感謝している。
中谷さんは
「どうぞ、日本に帰ったら、オシフェンチウムについて、
お知り合いに伝えてください」と
おっしゃっていた。
今の私にできる、精一杯の感謝の気持ちがこの記事だ。
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ガザの悲劇のなか・・・
オシフェンチウムを経験したユダヤの民、イスラエル人が
どうしてなのだろう?とあらためて思う。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
数字などは、申し訳ございませんが、当時のまま、
確認を取っておりませんことをお詫びいたします。
素人のブログ、もろもろの不備はお許し下さいませ。