ふとしたことで・・・
秋田市の「北方教育運動」を知る。
昭和初期、成田忠久は、尋常小学校の代用教員を辞め、
秋田市内で豆腐屋を営みながら、青年教員とともに
生活綴り方教育の実践を志す。
当時は、子ども達に日々の暮らしを作文や詩にすることで、
自分の生き方を考えていく、という実践があった。
中には「赤い鳥」の鈴木三重吉に影響を受けた豊田正子のように
綴り方から少女作家として名を馳せたもの例もある。
秋田における運動は、日中戦争の開戦によって、
成田の生活が逼迫、秋田を去るのだが、
その後も仲間達は、活動を続けた。
しかし、1940(昭和15)年11月、治安維持法違反で
仲間も検挙され、翌年、北方教育運動は終わる。
プロレタリア作家・小林多喜二も秋田の出身だったという。
そういえば、先日、亡くなった無着成恭氏も
東北、山形の出身だった。
小学生の頃、わたしも、あの「ラジオ子ども相談室」に
ラジオに出たくてw何度も電話をかけている。
無着先生とは、お話しできなかったような・・・。
東北地方は、昭和の初期に、大恐慌の影響を受け、
苦しんだだけに・・・
子ども達の窮状を教員は見過ごせるはずもなく・・・
そういう時代が、無着成恭の時代までも続いていたのだろう。
ここで、話は変わるのだが・・・
壺井栄の小説「二十四の瞳」。
木下恵介監督・高峰秀子主演映画に始まり、
たびたび映像化されている。
小豆島の岬の小学校に赴任した、新任の大石先生と
学級の12人の新一年生の昭和の初期から終戦後までを描く。
わたしが、少女時代から一番愛読した作家の一人、
壺井栄の代表作だ。
大石先生は、結婚を機に、いったんは教職を退くのだが、
明るかった先生の中に「かげ」を残した出来事がある。
新1年生だった子ども達が、もうすぐ6年生になろうかという3月。
近くの学校の教員が生徒に反戦思想を吹き込んだと、検挙された。
その証拠品が「草の実」、担任する6年生の子ども達の文集だ。
大石先生は、学校宛てに送られてきた、文集「草の実」を持っていた。
綴り方に感心し、教室で読み聞かせいたからだ。
それを聞いた校長らは青ざめる。
教室に置いていた「草の実」はあわてて火にくべられる。
このあと、大石先生は言動を校長から注意された・・・
後に、大石先生が結婚にあたり、退職を決意したのは、
心の奥に、このことがあり、教師の有りように
疑問を感じていたからだろう。
さて、ここで話戻って、秋田のこと。
「北方教育運動」の成田らが
1937(昭和2)年に創刊、発行した月刊児童文集は
「くさかご」のタイトルだったという。
「くさかご」と「草の実」
ちょっと似ていないか?
壺井栄の夫・坪井繁治はプロレタリア作家として知られ、
栄自身も宮本百合子らの作家たちと交流があった。
栄が、秋田の「くさかご」を知っていても、
ちっとも不思議はなく、むしろ愛読していたことだってありうる。
そんなこと埒もないことを、つらつら考えてしまった・・・
8月だからだろうか。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
本文は以下の本を参考にしていますが、
わたしの勘違いや間違いは、素人の駄文とお許しくださいませ。
●壺井栄『二十四の瞳』新潮文庫
一番読んできた作家を、子どもの頃を含めて挙げるなら壺井栄なんです。
お母様も私と同世代でしょうから、同じような読書体験なのかもしれませんね。
もし、お読みになるなら『母のない子と子のない母と』の方がおすすめです。