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位置ゲーアプリ「ニッポン城めぐり」の
地域限定城めぐり「輪中の城」・・・
この中に、かつての美濃・高須藩の城も含まれていたのです。
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(海津市歴史民俗資料館にて)
高須藩といえば、高須四兄弟!↑
10代藩主・松平義建の息子四人を指します。
次男:尾張徳川家、第14代慶勝
五男:一橋徳川家 第10代当主茂栄
七男:会津松平家 第9代当主容保
八男:桑名松平久松家 第4代当主定敬
凄い面々です!
これは、ぜひとも行ってみたい、いや行かねば。
高須のお城へいざ!
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(海津城を模したと思われる、海津市歴史民俗資料館)
・・・ところで、「輪中」って何?
と予習をしてみたら、驚愕。
現地に出かけ、木曽三川(キソサンセン)を目の当たりにして、
その迫力に、さらに驚愕しました。
本日は、「輪中って何?」編です。
「輪中」(ワジュウ)は、
低地で、洪水を防ぐため、集落ごとに巡らせた堤防のこと。
高須藩の高須輪中も、その一つでした。
とにかく、木曽三川の画像をご覧下さい!
↓
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(木曽三川公園の展望タワーから)
これが木曽三川。
この日、雨は降っていましたが、もちろん洪水ではありません。
これが普通の状態です。
「木曽三川」と呼ばれる、揖斐川、長良川、木曽川は
濃尾平野の一部、岐阜県の南端(海津市など)に集まります。
このあたりは、標高ゼロメートルの低地で、昔から洪水に悩まされ、
明治の中頃までは、80もの輪中があったとか。
現在は、その輪中を大きな堤防が囲っています。
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今は全体を堤が囲む。中央のまっすぐな道路の奥の集落が高須輪中)
このあたりでは
「四刻八刻十二刻(シトキハットキジュウニトキ)」と
言い伝えられてきました。
雨が降ると、西から、8時間(四刻)後に揖斐川が
16時間(八刻)後に長良川が、24時間(十二刻)後に木曽川が増水、
悪くすると、洪水になるのです。
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(川の向こうに、また川が・・・小さく緑の川の標識が見える。)
また、「十年に一作、稲が実れば御の字」との言葉も知りました。
(村木嵐『せきれいの詩』16頁)
田植えまでに、流れ込んだ泥を片付けられないし、
しょっちゅう洪水に襲われるし・・・ということで、です。
小説の引用ながら、これは取材による根拠のある言葉では
ないでしょうか。
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輪中の中を車で走ると、
今でも民家が石垣の上に建っていることに気づきます。
言うまでもなく、洪水への備えです。
かつて、豊かな家では、庭に母屋よりも土台を1m以上高くした
「水屋」という建物もあったそうです。
これは輪中が洪水に襲われた時の避難用。
また「屋敷森」として、家の周りに木を植えたそうです。
水屋を持たない家は、
「助命壇」という共同の避難所に逃げ込みます。
もっとも、今回は、屋敷森も、水屋も見かけませんでした。
今では必要がなくなったということなのでしょう。
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といっても、個人や集落のできることは、限られています。
やっぱり頼みは大がかりな治水工事。
江戸時代には、薩摩藩が幕府に命じられ「宝暦治水工事」を行い
「千本松原」こと「油島締切堤」(アブラジマシメキリテイ)を築きます。
(薩摩藩の工事については、いずれまた)
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(「堀田」。かつての農業を伝えるため海津市歴史民俗資料館前にある)
明治時代には、政府が、木曽三川流域の大がかりな工事を行いました。
担当したのは、オランダ人の技師デ・レーケ。
おかげで、大幅に洪水が減ったのです。
それでなのでしょう。
木曽三川公園に、風車のモチーフがあったり、
チューリップが植えられていたりしたのだと納得。
オランダ人、デ・レーケさんへの感謝の念なのでしょうね♪
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このほか、木曽川と長良川の堤防「背割堤」を造るなどした
分流工事は1900(明治33)年に終了、
流域一帯は、肥沃な土地が広がるようになりました。
ところが「天災は忘れた頃にやってくる」。
1959(昭和34)年の伊勢湾台風、
1976(昭和51)年の台風17号による「安八洪水」・・・
この二つの洪水の後、さらに木曽三川の堤防の補強工事が
徹底的に行われ、以後、大きな洪水はないとか・・・
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海津市付近は、川の上流から、たっぷりと栄養を含んだ土砂が
絶え間なく運ばれるため、肥えた土地です。
洪水で悩まされなくなれば、農業に適しています。
今ではトマトや甘長ピーマンなどの特産物が作られ、
ウナギやナマズの養殖が盛んとなっています。
またレガッタなどのレジャーも人気とのこと・・・
水害を乗り越えた先人の苦労が、今、実っているのですね・・・
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木曽三川公園のタワーから眺めた景色は、
三つの川が、それはそれは大迫力で・・・
さらに令和の今も、かつての水害への備えが伺える土地柄に
人間の力って、すごいなぁ・・・
しっかり生きていこう、と励まされたのでありました。
全然知らなかった岐阜県・海津市。
「輪中」「高須藩」から、たまたま知っただけですが・・・
知らないことが、まだまだあって、旅も歴史も、本当に面白い!
ますます、のめり込んでおりますw
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最後まで、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
本文は、以下の図書の他、
木曽三川公園センターの展示や現地の案内板なども参考にまとめています。
間違いや勘違いもあるかと存じますが、素人のこととお許し下さいませ。
◆参考
●監修・指導:千葉昇 文・写真:渡辺一夫
『低地の人びとのくらし』(「日本の国土とくらしー第1巻)ポプラ社
●松田之利ほか『岐阜県の歴史』山川出版社
●村木嵐『せきれいの詩』幻冬舎