秋田での歴タビ、当初からの目的は、金沢柵(かねざわのさく)だった。
数年おきにマイブームの再燃する蝦夷(えみし)や「炎立つ」の世界・・・
過去記事(→「炎立つ」と出羽国への旅)でも熱く語っているが、
金沢柵についてまとめる前に、もう一度ざっくりと。
『炎立つ』は大河ドラマ化(1993)された、高橋克彦原作の小説。
全三部構成で、文庫にして全五巻ある。
第1部は前九年合戦(1051-1062)を描き、
主人公は、藤原氏でありながら、
蝦夷の安倍氏に奔った藤原経清(つねきよ)。
第2部は、その子・清衡が主人公。
母の再婚により、敵方・清原家で成長し、
後三年合戦(1083-1087)を経て、
奥州藤原氏の祖になる。
第3部は、清衡の曾孫・藤原泰衡を中心に、奥州藤原氏の滅亡を描く。
若き日の渡辺謙さんの経清が素敵で、壮絶な最期に涙。
経清の妻・結有(古手川祐子さん)は、
息子・清衡と生き抜くために、夫を殺した敵将と再婚・・・
母が心を殺して守ろうとした藤原清衡が
今回の旅で追いかける主人公だ。
後の平泉、奥州藤原家の初代である。
秋田を主な舞台とするのは、第2部、後三年合戦の時代だ。
後三年合戦(1083ー1087)は、前九年の役以後、
存在感を強めた清原氏の本拠地が、出羽国・秋田ゆえである。
後三年合戦は、「清原氏の内紛に、陸奥守として赴任した源義家が
介入して起こった日本史上において名高い合戦」(樋口1頁)だ。
清原氏の内紛は、ごちゃごちゃしているので、
最後の戦いだけいう。
安倍氏の血を引く清衡と、
異父同母弟の家衡と叔父の武衡の連合軍だ。
家衡は、源義家の清衡びいきの処遇に腹を立て
同居していた清衡の館に火を放ち、その妻子を殺している。
一人難を逃れた清衡の想いは、いかばかりだったか・・・
これだけが兄弟の争った原因ではないだろうが、
やはり大きいだろうな。
そもそもが苦労人の清衡。
父を討った敵の陣営で成長したのである。
どれほど心を抑え、緊張して生きたことだろう。
一方の家衡は異母の長男がいたとはいえ、
清原嫡流の自負も強くその分、ワガママだったのかもしれない。
対照的な二人だ。
一言添えると・・・
二人の母、安倍氏の娘である人(作中では結有)を思うと辛い。
女性が戦利品のごとく扱われる当時の典型だ。
売り飛ばされたり、もてあそばれて殺されたりしなかっただけ
マシかも知れない。
しかし、秋田は、さすがに清原氏の本拠地であるだけに、
清原の嫡流ではない清衡に、ちょっと冷たい。
「あれ?気がつけば、清衡だけ一人生き残っちゃったよね」
というニュアンスをあちこちで感じたw
(わたしの偏見かしら?)
一方、「炎立つ」は、美しい。
前九年の役で討たざるをえなかった藤原経清。
彼に惚れ込んだ源頼家が、遺児・清衡に父の面影を見いだし、
秘かに彼へ加勢、後三年の役は自らを総大将に、清衡と連合し、
勝利を収めることになっている。
結果として、義家は朝廷から冷遇され、不本意な結果に終わるが、
勝利者となった清衡のためになればと、潔く、あきらめる。
佐藤浩市さん演じる源義家のイメージそのまま、
なんと男気に溢れた義家か!
実際のところ、義家は計算した上で、清衡に味方したとするのが
樋口知志・岩手大学教授(当時)。
「義家は、傀儡として利用すべき清衡一人を除いて清原氏嫡流の男子を
次々と始末し、最後には清衡を操ることで自らの覇権を奥羽両国に
樹立すべく、あらかじめ綿密・周到な計画を立てていたのであろう」
(樋口・230頁)
そうだよね~
でも、一歴史ファンとしては、「炎立つ」の世界を支持したい、
わかっちゃいったって、浪漫がほしい!
さて、「後三年合戦」の決着が付いた金沢柵での戦い。
推定地は、横手市の見晴らしの利く高台にある。
柵とは、古代における大和朝廷の役所であり、
軍事拠点でもある、多様な機能をもつ施設をいう。
前年の冬、沼柵の戦いでは、家衡のいるここを落としきれず、
冬の寒さの前になすすべもなく、源義家・清衡軍は撤退している。
春が来ると、家衡は叔父・武衡のすすめで金沢柵へ移る。
こちらは、当時から難攻不落の呼び声が高い。
9月には、合戦の噂により、民も含め、大人数が、この城に入った。
義家・清衡軍は、これに先立ち、
清原一族の長老・吉彦秀武(きみこのひでたけ)も加わり
4万の軍勢で、柵を取り巻いたという。
決着をつけたのは、秀武が進言した兵糧攻めの策だった。
これが「日本史上初めての兵糧攻め」だったそうだ。
(岡本192頁)
難攻不落の柵も合戦ができなければ、意味が無い。
城内では兵糧が乏しくなり、
武衡から義家の弟・源義光に降服を願う矢文が送られる。
義光は了承するが、義家は許さない。
義家には前九年の役以来の執念が根強いゆえだろう。
武衡は仕方なく、非戦闘員の女性や子どもらを下らせ、
城門の外へと送り出した。
これを義家軍の兵士は通そうと道を開けるが、
今度は吉彦秀武が反対する。
この調子で、城の非戦闘員が減っていけば
その分、兵糧が行き渡り、相手の抵抗が長引いてしまう、と。
義家は、これを受け、投降してきた女性や子どもを
皆殺しにしたという。
寛治元年(1087)年、11月14日深夜。
義家は身の回りの世話をさせている藤原資道(すけみち)を起こすと、
「武衡・家衡軍は今宵落ちるだろう」と告げた。
義家・清衡軍が様子をうかがっていると、義家の言葉通り、
15日の明け方に、金沢柵から火の手が上がる。
城内では既に食糧が尽き、
14日の夜に武衡・家衡軍は金沢柵を脱出する準備を整えていた。
そして明け方に自ら火を放ち、城の外に出ようとした。
義家は、脱出を許さず、城門を出た将兵はもちろん、
老若男女を皆殺しにさせている。
大将の一人、武衡は命乞いをするも許されず、首をはねられた。
清衡の弟、家衡は愛馬を自ら射殺すると、
庶民に姿をやつらえて脱出するも、
逃げる途中の街道で露見し討たれている。
もっとも悲惨な最期を迎えたのは、
家衡の守り役・千任(ちとう)だった。
自軍の勝利を疑わなかった頃、義家を侮辱している。
この時のことが祟ったのだろう、
ちょっと言葉にできないほど残虐に処刑された。
源義家・・・執念深い。
源頼朝の粘着質な感じは、ここからきているのか!?
このような地獄絵が繰り広げられた金沢柵だが・・・
実は、場所の特定ができていない。
横手市は、発掘調査を行っているが、現時点では決めてに欠けるのだろう。
今、「金沢城跡」と言われているのは、
14世紀後半に南部氏が築き、更に小野寺史の手が入ったとされる。
それでも、一部は金沢柵と重なるのだからと、
ここを暑い中、少しだけ歩いてみた。
(↓)本丸といっても、金沢柵のではないんだよね・・・
本丸のすぐ近くには、「兵糧倉」(↓)の跡があった。
この跡からは焼けた米が出てきたそうだ。
でも、兵糧攻めにあって、兵糧が完全に尽きたから、
武衡・家衡軍は城に火を放ったはず。
米が焼けて出てくることなんて、あるだろうか?
「後三年の役」を示すゆかりの地なら
やっぱり、ここ(↓)だろうか。(冒頭画像も)
景正功名塚だ。
鎌倉権五郎景正は16歳の初陣ながら、華々しく活躍。
終戦後は、主君・源頼家の命を受け、死者を懇ろに葬った。
その弔いのため植えた杉の木は巨木となったが、
900年後の昭和23(1948)年、火災で焼失したという。
今は、その根元だけが遺っている。
まさに兵どもが夢の跡。
この後・・・
清衡は、苦労の末に、自らも都で学び、平泉の都を築き上げた。
一方の源義家は、陸奥守でありながら、
清原一族の内紛に加担したとして、陸奥守を解任され、
恩賞を得ることもかなわなかった。
そこで義家は私財をもって部下に報いている。
これによって主従関係が強まり、以来源氏の名声は高まり、
後の鎌倉幕府成立のきっかけになったと言われている。
(「八幡太郎義家」だもんね、イメージは良いよね。)
去年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の記憶も新しいが、
源頼朝が、奥州に執着した理由が、ここにあるのだと、
前九年・後三年合戦を通して考えると、よくわかる。
鎌倉武士達は、平泉滅亡後、その土地を領地としている。
義家の無念を頼朝が果たしたのだろうか。
河内源氏の家系図をみると、義家が3代目で、頼朝は7代目。
平均寿命が短く、血脈を大事にする当時のこと、
頼朝の義家への想いは、並々ならぬものだったはず。
歴史の地を歩くと、頭でわかっていたことが
ストンと胸に収まる気がするのが楽しい。
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長々とおつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下の資料を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかと存じます。
素人のこととどうぞお許し下さいませ。
◆参考
●樋口知志//編『前九年・後三年合戦と兵の時代』吉川弘文館
●岡本公樹『東北 不屈の歴史をひもとく』講談社
●秋田県横手市教育委員会教育総務部文化財保護課
「後三年合戦と横手の歴史」「横手市歴史的風致と後三年合戦」
「横手市の重要遺跡と史跡整備」
★横手市のパンフは充実しています。ありがとうございました。