夏に出かけた、秋田の旅。
藤田嗣治の壁画「秋田の行事」を10年ぶりに観たくて、
新しくなった「秋田県立美術館」へ1番に駆けつけている。
1937(昭和12)年の油絵、365.0×2050.0cmの大壁画、
当時は世界一の大きさだったという。
秋田の平野政吉のために描かれた。
残念ながら、まだ著作権があり、ここにはアップできないので
「秋田の行事」はコチラをご覧下さい。
念のために申し添えると、
礼拝堂などの壁に描かれているのではない。
藤田の絵は巨大なキャンパスに描かれている。
絵は記憶にある以上に、素晴らしかった。
だが10年を経て、この絵に対する私の興味が変わっていた。
美術的な鑑賞からは外れるのだが・・・
今回、気になったのは「香爐木橋(コウロギバシ)」。
壁画の中心に描かれている橋だ。
この橋が、なぜ気になるのか?の前に
まずは藤田と秋田の関わりについて整理したい。
そもそも、東京出身の藤田が、なぜ秋田で壁画に挑んだのか?
ということだ。
藤田嗣治(1886ー1968)
1933(昭和8)年11月、藤田はフランス人の妻・マドレーヌと、
パリから帰国し、東京に仮寓する。
パリで「乳白色のフジタ」として活躍する画家の名声は、
故国にも轟いており、すぐに東京で帰国展が開催された。
ここで藤田と平野政吉は、初めて挨拶を交わしたという。
平野政吉(1895ー1989)は秋田の資産家で、
このとき既に藤田の作品を愛するコレクターだった。
1936(昭和10)年3月、藤田は映画「現代日本」の撮影のため、
秋田を訪ねる。(映画は日本の風物を伝えるニュース映画)
その歓迎会の席上で、平野は藤田に「世界一の絵を」と
頼み込み、制作を承知させている。
その三月後の6月、なんと藤田の妻・マドレーヌが急死してしまう。
7月、平野はマドレーヌの追善のためにと、
秋田に藤田の作品を収蔵する美術館の建築を提案した。
藤田は承諾、秋田入りし、さらに壁画制作の意向を平野に伝える。
平野は、さっそく、アトリエや画材の準備を始めた。
以後、三ヶ月にわたり、藤田は秋田を毎月訪ね、取材を重ねる。
これだけの巨大な壁画なので、制作は平野家の米倉で行われた。
驚くことに、わずか15日間で書き上げられたそうだ。
藤田は、画面左下に為書きと共に以下を書いている。
「為秋田 平野政吉 嗣治 Foujita 1937 昭和十二年自二月廿一日
至三月七日 百七十四時間」
たった174時間!一日10時間以上の制作ではないか!
冷暖房完備の令和の時代のラボではない。
昭和の初めの秋田、しかも米倉である!
ものすごい集中力!!
しかし、戦時体制のため美術館の建設は中止となり、
「秋田の行事」は長く平野家の米蔵に保管されていた。
壁画の公開は、それから30年後、1967(昭和42)年のことだった。
藤田がチューリッヒで亡くなる前年である。
日本人の藤田が、なぜスイスで亡くなったのか?
いや、1955(昭和30)年に、藤田はフランス国籍を取得しているので
日本人とはいえないかもしれない。
とにかく、藤田は戦後のほとんどをフランスで過ごしている。
太平洋戦争中、「アッツ島の玉砕」などの「戦争画」を描いたことで
終戦後は、批判にさらされた。
日本の画壇に、ほとほと嫌気がさしたからだろう。
藤田は、秋田での制作に先だち、パリで壁画に挑戦している。
(竹橋の近代美術館で鑑賞した、素晴らしい大作!)
またパリから帰国前に寄り道し、
南米でメキシコ壁画運動に触れ、壁画制作に意欲的だったという。
そして、「秋田の行事」。
当時の藤田は、大きなキャンパスに絵を描くことに惹かれたのだろう。
それならば、大作の「アッツ島の玉砕」の筆もわかる。
この絵は、後に、藤田を戦争協力者として批判される理由となる。
でも、この絵は、はたして戦争協力画なのだろうか?
初めて竹橋で見たときに、涙が止まらなかった。
戦争のむごたらしさ、悲しみがあふれ出ていたからだ。
この絵を見て、戦意が高揚するはずないじゃん!
今回知ったのだが、
この絵も、どうやら平野政吉に贈るつもりだったらしい。
藤田と秋田、平野政吉。
妻を亡くした藤田の1936(昭和11)年作「自画像」は切ない。
その頃、美術館建設を提案してくれた平野は、
心の支えだったのではないか。
新しい意欲をもつことで、藤田は立ち上がれたのだろう。
次回は、「橋」のお話をまとめたい。
どうぞ、またおつきあいください。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
本日の記事は、
秋田県立美術館でいただいた「平野政吉美術財団」による資料の他、
『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(講談社 2002)を参考に
まとめました。
間違いや勘違いは素人のことと、お許し下さい。
余談ながら、高価で、ためらっていた、この画集を買う決心をしたのが
十余年前、秋田で「秋田の行事」に感動したからでした。
背中を押してもらって良かったと、退職した今、心から思います。