鹿児島県、鹿屋への旅のきっかけは、川端康成だった。
(前記事に詳しく書いたので、ここでは、ざっくりと)
川端康成の「海軍報道班員」徴用時代から
新しい切り口で川端論を展開した
多胡吉郎 『生命(いのち)の谺(こだま) 川端康成と「特攻」』。
海軍へ、川端が!?
・・・ということで、
川端が滞在した、鹿児島県鹿屋市のツアーへ申し込んだ。
そのツアーは、鹿屋平和学習ガイドさんのご案内で歩く、
戦跡ツアー。
初日は②コース「鹿屋基地周辺と進駐軍上陸の地」だ。
ガイドはベテランの女性ガイドSさん。
鹿屋航空基地史料館の隣にある物産館で
簡単なオリエンテーションの後、
「小塚公園」「桜花の碑」「高須のトーチカ」「金浜海岸」を
2時間かけて歩く。
見学ポイントまでの移動は、どこも車で10分ほどかかるので、
ガイドさんの車について、私達も車を走らせ、ツアーを進めた。
まず、本記事は、オリエンテーションのお話。
鹿屋についての貴重な情報なので、備忘録を兼ね、まとめておく。
戦時中、鹿屋には3つの飛行場、笠野原、鹿屋、串良(くしら)があった。
昭和11(1936)年に、鹿屋海軍航空隊が開かれた(=開隊)
この頃は、もちろん「特攻」などということは考えられていない。
けれども「特攻」以前から、鹿屋はよく知られいる。
まず、「渡洋爆撃」。
文字通り、海を越えて、爆撃をすることだ。
日中戦争下、昭和11(1936)年7月の「上海海洋爆撃」。
鹿屋航空隊は攻撃機18機で、「中支方面作戦」に参加、
大きな戦果を挙げた。
戦闘機の時代は始まったばかり、
鹿屋航空隊の名声は一躍高まった。
もうひとつが、いわゆる「鹿屋会談」。
1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃。
開戦以前の当時、対米交渉の失敗がうち続いていた。
山本五十六連合艦隊司令長官は、時代の趨勢に抗しきれず、
しぶしぶながら、アメリカへ先制攻撃をすることで
戦争の短期決着で戦争終結を有利にをはかろうとした。
そのための作戦が練られたのは鹿屋航空隊内(↑)であり、
これが「鹿屋会談」である。
その後、真珠湾攻撃を想定して、訓練を重ねたのも鹿屋市だった。
やがて開戦・・・
その後、戦争は長引き・・・というのは、ご存知の通り。
1944(昭和19)年10月、レイテ沖海戦で、海軍は大敗北、
以後、連合艦隊は壊滅状態となる。
「絶対国防圏」が破られたことで、
制海権・制空権、攻撃能力の全てを喪ったのである。
これを受け、大西瀧治郎中将は、航空機の敵艦への体当たりによる
特別攻撃「特攻」作戦を決意する。
「(日本軍に)伝統的な人命軽視の思想をきわめて悲劇的な形で表した
戦争行為」(『魂のさけび』7頁)との評価通りである。
やりきれない。
特攻作戦は、当初、太平洋上で戦果を挙げたため、
以後、海軍だけでなく、陸軍も特攻作戦をとることになった。
昭和20(1945)年2月には、宇垣纏中将を司令長官に
第五航空艦隊司令部が新編され、鹿屋に置かれる。
以後、鹿屋から各基地へ「特攻」命令が出されたのである。
この指揮系統が、私は、よくわからなかったので、
あれこれ調べてみた。
どうやら、まず、連合艦隊司令部(日吉)が作戦方針を決定、
それを受け、航空艦隊司令長官が命令を出し、特攻作戦の実行、
という流れのようだ。
九州には、沖縄戦に備え、多くの航空基地が置かれた。
もちろん特攻作戦のためだ。
当時は、これしか戦う術が、なかったからなのだが・・・
結果、多くの若者が「特攻作戦」に向かった。
特攻による戦死者の主な出撃基地別の内訳は、以下である。
(ガイドさんの資料をメモした)
知覧:439 国分:427 鹿屋:908 串良:363 赤江(宮崎):385?
鹿屋が際立って多いことがわかる。
鹿屋からは海軍だけでなく、陸軍の特攻機も飛び立ったからだという。
特攻兵は、各地の航空基地で命令を受け、
鹿屋へパイロット自らが、航空機を操縦して到着する。
それから「特攻」出撃命令を、鹿屋で待つのである。
中には、到着後、すぐ特攻に出撃する者もあれば、
天候や機体の不良によって引き返してくる者もいた。
結果として「特攻」乗員でありながら、
引き返すことが続き、パイロットが生き残った例も多い。
まさに運としか言いようがなく、無情である。
昭和20(1945)年2月10日に置かれた鹿屋基地は
3月21日に最初の特攻隊が出撃すると、6月26日まで続いた。
沖縄海戦における敵艦隊への攻撃が目的だったからである。
沖縄戦は同年4月2日に始まり、6月23日に終結した。
これにより鹿屋からの特攻は、以後なくなる。
・・・と言いたいのだが、最後にもう一度、特攻機が飛び立った。
昭和20(1945)年8月15日、敗戦を告げる玉音放送の4時間後、
鹿屋、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏(まとめ)中将を乗せ、
特攻機11機が沖縄方面へ出撃した。
宇垣中将は「特攻」を指揮してきた立場であり、
自分なりに敗戦の後始末をつけたつもりなのだろう。
でも、この人は、パイロットではない。
操縦ができないのだから、だれかに乗せてもらうしかなく、
結果として若い人を道連れにしている。
彼らは戦争の責任を追う立場ではない。
また、日本は既にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした以上、
連合軍を攻撃することなど許されないはずなのに・・・
いったい、宇垣司令長官は何を考えていたんだか・・・
腹立たしくてならない。
さて、「海軍報道班員」として、川端康成が鹿屋基地にいたのは、
この年の4月下旬から5月下旬のこと。
つまり、沖縄戦に向け、特攻機がもっとも多く飛び立っていた
時期なのである。
ガイダンスを受けた後、最初の見学地、小塚公園へ向かった。
小塚公園には「旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔」がある。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
ガイド氏のご案内を記録したメモや、
以下の資料を基にまとめましたが、
勘違いや聞き間違いもあるかと存じます。
素人のことと、お許し下さいませ。
◆参考:
●『魂(こころ)のさけび―鹿屋航空基地新史料館10周年記念誌』
鹿屋航空基地史料館協力会
●多胡吉郎 『生命(いのち)の谺(こだま) 川端康成と「特攻」』
現代書館
現代書館
●パンフレット「戦争を旅する」鹿屋市ふるさとPR課
📷 書影は出版社からお借りし、
画像は鹿屋航空史料館で撮影しました。
特攻隊の話は読む度、聞く度、腹がたち、悲しくなります。命を何と考えていたのでしょうね。今日のブログ再読致します。まずは、教えて頂く事が沢山でしたので、お礼をと思います。有り難うございました。 なおとも
いつもコメントをどうもありがとうございます。
備忘録のつもりでまとめているブログなので、
読んでいただけるだけでありがたいですのに・・・感謝です。
お恥ずかしいですが、どうぞよろしくお願い申し上げます。