直江津捕虜収容所から始まった、敗戦後の歴史。
今、一周して、地元・横浜の歴史を知ることになりました。
指南役は、
清水聡『戦犯を救え BC級「横浜裁判」秘録』 (新潮新書)です。
そこで、磯子にあった料亭・偕楽園が大きな役割をしていたことを
知りました。
ちょうど今、母も泊りに来ています。
戦前生まれのハマッ子ですから
「偕楽園」を知っているか、尋ねたところ・・・
「わたしは市電に乗って、幼稚園に通っていたから、
知っているわよ。
でも、わたしの記憶では、雨月楼っていう名前だった」との答え。
・・・ネットで調べてみたら、偕楽園と雨月楼とは、別の料亭。
どちらも、磯子の花街にあった、海軍御用達の大店だったようです。
そのことを踏まえ、もう一度、母に尋ねましたが、
偕楽園は記憶にないとのこと。
で、突然、歌い出したのが・・・
「南京さんの言葉は 南京言葉
パーピヤパーパー パーチクパ ピーピヤピーピー ピーチクパ・・・♪ 」
雨月楼は高い塀に囲まれ、中をうかがいしることはできないものの
門前に中国服を着た女の子の等身大の人形が置かれ、
その子が歌うかのように、その曲が流れていたそうです。
母は、妹と幼稚園に通う市電の中で、
いつも、その歌を大きな声で歌っていた・・・と
懐かしそうに繰り返しました。
・・・料亭が自前の歌を作っていたとは思えないので、
またも検索すると、「南京言葉」という童謡でした。
しかも、野口雨情&中山晋平の名コンビ!
「シャボン玉」「雨降りお月」などの童謡は、
わたしの世代くらいまでなら、よく知っている曲でしょう。
apple musicで流してみると、
母は感激の面持ちで聴き入っていました。
昭和の敗戦直後の横浜で、
幼稚園児が姉妹二人きりで、市電で通園していた!?
というのも、わたしには驚きでした。
政治や経済の大きな出来事は、
史実として刻まれていきますが、
庶民の肌感覚は、なかなか残すのが難しく・・・
「オーラルヒストリー」と言うほどではありませんが、
母の知る、戦後すぐ、あるいは高度成長期の入り口なども、
書き残して行けたらなぁと思います。
母の話は、もっと長いのですが・・・
そろそろ時間切れ。
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。