昭和8(1933)年生まれの亡き父は、
「草笛光子と岸惠子は、第一高女出身なんだぞ~」と
なぜか鼻高々で、よく口にしていた。
第一高女とは、神奈川県立横浜第一高等女学校、
現在の神奈川県立横浜平沼高校だ。
草笛光子さんの二学年上が岸惠子さん。
お二人とも舞踊サークルに所属しており、先輩後輩の間柄となる。
今も美しいお二人、当時は、さぞや美少女、
界隈では評判だったことだろう。
もしかしたら、草笛さんと同い年の父も、
垣間見ては、胸をときめかせていたのかもしれない。
令和を生きる私ですら、同じ女学校に通う女学生の二人を
想像すると、わくわくする♥
草笛光子さんの最新刊、
『きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話 』(文藝春秋)を読んだ。
「文藝春秋」に連載されていたエッセイ集とのこと。
さて、わたしが以前住んでいたマンションは、
草笛さんのご実家があった、東急・反町駅にも近かった。
このあたりにお住まいだったのか~、と、
散歩をしながら、キョロキョロしたものだ。
この反町駅の次が横浜駅、当時も交通の要衝だ。
当然、戦争中は、空襲の標的となる危険が高い。
昭和19(1944)年8月、横浜でも空襲がひどくなったことから
草笛さんも学童疎開をしたという。
とはいえ、出かけた先は、同じ横浜市内の小机、
現在は日産スタジアム(横浜国際競技場)の最寄り駅だ。
近いっ!
草笛さんは国民学校の同級生と、
疎開先となった三会寺(サンネジ)へと歩いて出かけたという。
時間にして1時間w
それもあってか、たびたび祖母上も訪ねてくる。
おばあさまは婦人会の会長で、用事のあるふりをしていらしたとか。
そして、そのたびに、光子さんを呼んでは、
こっそりと「おにぎり」を墓地裏で食べさせてくれたという。
学童疎開と言えば、都会の子どもが地方へと行くイメージで、
実際そのケースが多いのだが・・・
横浜は市内から市内への疎開も多かった。
現在の泉区や瀬谷区で学童疎開を受け入れたと聞いたことがある。
市内から市内の例で、港北区、東急・日吉駅の近く、
日吉台国民学校(現日吉台小学校)の場合は
以下の通りだ。
「昭和19年8月19日、日吉台国民学校の3年生から6年生までの児童は、
教職員の引率により、高田町(たかたちょう)の興禅寺(こうぜんじ)に
70名が、下田町(しもだちょう)の真福寺(しんぷくじ)に
100名(120名とも?)が疎開しました」
どちらの寺も学区に近く、疎開児童も週末は自宅に帰っていたとか。
脱走して家に帰る児童が、後を絶たなかったとも聞く。
子どもにしてみれば、近いのだから里心も、ずっと募ったのだろう。
横浜市は人口日本一の大都市であり、
イメージは冒頭画像の「みなとみらい」かもしれない。
それも確かに横浜の姿だ。
一方で、横浜は農業都市でもあり、
今も郊外を少しいけば、農地が広がっている。
それゆえに、このような「市内から市内へ」の学童疎開が
可能だったのだろう。
草笛光子さんの例も同じのはずだ。
さて、草笛光子さんの学童疎開。
結局、光子さんは引っ込み思案で、集団生活に馴染めないと
お父様が判断。
学童疎開を切り上げ、
ご家族で、群馬県の富岡に縁故疎開をされたそうだ。
疎開先では、お母様がタンスの引き出しを開けては、
着物を食べ物に換えてくるご苦労を見ている。
食べ物がとにかくなかったと、おっしゃる。
また、この地で5歳だった妹さんを亡くされた。
どこかのお宅で出された牡丹杏にあたったようで、
患った末に亡くなったそうだ。
後年、マネージャーだったお母様が
草笛さんにどうしてもやらせたいと言っていた役が
鳥濱トメさんの役。
トメさんは、陸軍の飛行場があった知覧で食堂を切り盛りし、
特攻兵から「特攻の母」と謳われた女性だ。
光子さんに、この役を望んだ母上は、
食べ物に不自由し、哀しい亡くなり方をした
幼い我が子への想いがおありだったのかもしれない。
草笛さん自身も言う。
「私達世代は...語らなければいけません。
軍部が悪かったとか言いますけど、特攻隊員を送り出したのは
私たち一人ひとりです。
戦争が正しいと信じた責任はないのか。
いまの私達も、何か間違ったことをやらされてはいけないか...」67頁
戦争体験者からのアジア太平洋戦争にまつわる「継承」は、
急務の課題だ。
御年90歳、草笛さんのお声にも、きちんと耳を傾けておきたい。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
間違い勘違いなどの不備もあるかもしれませんが、
歴史の素人、個人の日記と言うことでお許しくださいませ。
参考・引用
草笛光子『きれいに生きましょうね 90歳のお茶飲み話』文藝春秋