去年の春、旅した山形。
鶴岡に到着し、どうやら名残の桜を楽しめそうだと、
桜の名所を調べ、松ヶ丘開墾場を見つけた。
そこが、まさか、こんなに忘れられない場所になろうとは・・・
鶴岡は、明治に入ると養蚕を中心に発展し、
明治20(1888)年頃には欧米に織物を輸出するまでになった。
さらに大正に入ると「日本でも指折りの絹織物の産地」にまで成長。
現在も「鶴岡シルク」として知られ、
養蚕から染織まで絹産業の生産工程を全て揃えた
全国唯一の産地なのだそうだ。
この原点が松ヶ丘開墾場である。
明治5(1872)年、3000人の鶴岡藩士は刀を鍬に持ち替え、
原野を開墾したのが始まりだ。
現在の鶴岡を中心とする、かつての庄内藩は、
徳川四天王のひとり、酒井忠次の孫が藩祖である。
忠次は「どうする家康」で、大森南朋さんが演じて
「えびすくい」が良い味を出していたので、お馴染み。
庄内藩の歴史を、たどっていた。
ざっくりいうと・・・
東北の外様大名に囲まれた中、
ぽつりと放り込まれたかのような譜代大名、庄内藩・酒井家。
独自の気風をもつ庄内藩は善政を敷き、領民に慕われ、
領民の力で国替えすら、さしとめられたという。
幕府からの信も厚く、
幕末には、新徴組(しんちょうぐみ) を組織し、浪士任せにせず、
庄内藩自らが江戸市中取り締まりの指揮を執った。
将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、
これを是としない西郷隆盛ら薩摩藩の計略に乗せられ、
慶應3(1867)年12月、「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」を
引き起こしてしまう。
これをきっかけに、翌年正月、京都では鳥羽伏見の戦いが勃発、
戊辰戦争が始まる。
「錦の御旗」を掲げる「新政府軍」に対し、
庄内藩は、いつのまにか「朝敵」「賊軍」の汚名を
着せられていたのである。
圧倒的兵力で押し寄せる新政府軍に対し、
庄内藩は、領民も参戦し、意外にも連戦連勝。
「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名をとる
二番大隊・大隊長、酒井了恒(のりつね)の活躍と
酒田の豪商・本田家からの莫大な戦費援助を背景に、
「奥羽越列藩同盟」の東北諸藩が苦戦を続ける中、ひとり気を吐く。
しかし東北の諸藩が次々に降服し、
新政府軍の増援が到着すると、さしもの庄内藩も苦戦、
ついには降服の道を選んだ。
このとき新政府軍の会津藩などへの過酷な処置と
その後に続く混乱に比べれば、
庄内藩内では略奪暴行などもなく、領民は通常の暮らしを続けられた。
さらに、庄内藩に対する戦後処理も寛大だったと言われる。
これは本間家からの新政府への献金は大きかったであろうが、
西郷隆盛の指示とされる。
西郷は「武士が兜を脱いで降服したのだから、後
のことは何も心配しなくて良い」と、重罰派を説得したからだという。
(ここからは『松ヶ岡かいこん物語り』を参考に・・・)
後に、西郷の尽力を知った庄内の「リーダー菅実秀(すげさねひで)」は
西郷隆盛(南洲 )を訪ね、二人の間に「徳の交わり」が生まれた。
これをきっかけに旧庄内藩士は西郷の元で学ぶものも現われ
深い交流へとつながった。
今、旧庄内藩・酒田(現酒田市)には「南洲神社」が鎮座し、
鶴岡市と鹿児島市は「兄弟都市」として結ばれているのは
その現れだ。
菅実秀は、明治の世で「賊軍」の汚名を晴らすために
庄内藩が進むべき道を模索していた。
やがて菅に一つのアイデアがひらめいた。
「荒れ地を開いてカイコを飼って、生糸をつくろう。
成功すれば、お国の近代化に役に立って西郷はんたちの恩返しになる。
それに庄内の汚名をはらすこともできる」11頁
西郷に相談すると、大賛成。
明治5年3月、
菅は、庄内藩の祖・酒井忠勝(忠次の孫)の神前に
旧藩士を集める。
「われわれは、大きな恩を受けた酒井家に報いるために、
大きな産業を興し、国の手本となって働き、
賊軍の汚名をはらしていこう」と。
藩士は奮い立ち、さっそく雪解けを待って、開墾を始める。
刀しか持ったことのない侍ながら、原野を切り開くことができた。
8月から月山の麓に広がる、後田山の原生林3000人の旧藩士が
開墾に汗を流す。
藩士は34隊に分かれ、抽選で持ち場を決めると、
必ず、誰しもが、1番の難所を選んだという。
この時期、失業した士族のために「士族授産」が行われていた。
しかし、松ヶ岡の場合は、昔から「士族授産」ではないとされている。
というのは、開墾士に10年の間、給料がなかったことからうかがえる。
それでも、この重労働を続けられたのは、旧藩士の間に、
「国のため、汚名をそそぐため」という信念があったからだろう。
翌年、旧藩主・酒井忠発(ただあき)が開墾士を励まし、
この地を「松ヶ岡」と命名、墨書を残す。
明治6年春には、桑の苗が植えられ、お茶の種が蒔かれた。
ところが、開墾に汗を流す松ヶ岡に対し、
あろうことか、明治政府は、これを反乱準備とみなす。
次々に送られてくるスパイ・・・
これを知った西郷隆盛は、大隈重信ら政府要人に意見し、
松ヶ岡の疑いを晴らした。
松ヶ岡では、これを西郷からの便りで知り、
自分たちが疑われたいたことに驚き、
また西郷への感謝を深く胸に刻み、
いっそう開墾に精を出していく。
やがて原生林だった松ヶ岡は、青々とした桑畑へと成長した。
明治10年、西南の役が勃発すると、
松ヶ岡でも、恩人・西郷の元に馳せ参じ戦おうという意見が出る。
菅は、これを必死で押しとどめ、
「この戦は西郷先生の意思ではないはず。
庄内を戦禍にさらすのではなく、先生の教えを伝えていくことだ」と
諭したという。
養蚕の先進地・群馬県島村で学び、
日本一の蚕室を作る意気込みの元、巨大な蚕室も完成した。
蚕室には、その頃解体された、鶴ヶ岡城の瓦が使われたそうだ。
もちろん、これを運んだのも開墾士たちである。
この奮闘努力の甲斐あって、
明治14(1881)年、明治天皇の代理として北白川宮が来場。
慰労金も賜った。
開墾を始め9年目。
旧庄内藩にとって、ようやく賊軍の汚名が晴れ、
開墾士の苦労が報われた瞬間だったという。
わたしにとっては、松ヶ岡を訪ね、初めて聞く話ばかり。
当時の苦労を伝える、さまざまな展示を見学をしながら、
旧庄内藩の想いに涙がとまらず、困った。
(こういうときは夫と別行動をさせてもらっている)
国の近代化のために貢献すれば、
それが汚名をそそぐことになる・・・
その発想がすばらしいじゃないか!
そして、ひたすら苦労を重ね、汗を流す。
それを支えたのが、庄内藩士の誇りであろう。
矜恃をもって、たとえ損な役回りであっても、
誠実に生きようと努力する人に、わたしは弱いのだ。
松ヶ岡は、その典型。
惹かれて止まないのも当然なのだ。
残念なのは、展示場内に、
松ヶ岡をテーマに為た図録や書籍の販売無かったこと。
唯一、今手元にある、
鶴岡まちづくり塾・羽黒グループ『松ヶ岡かいこん物語り』だけだった。
現在、松ヶ岡は、養蚕から果樹の土地へと変わってきているそうだ。
だが、先の資料によると、今でも、集落の家々には、
「南洲翁(なんしゅうおう)」と親しまれた西郷隆盛の肖像画か
飾られているという。
賊軍の汚名を晴らすために、苦労を惜しまなかった
庄内の先人の心は、今も、西郷への感謝を忘れない人たちによって
受け継がれているのだろう。
そういえば、「英雄たちの選択」で
いわば地元・鶴岡代表として?出演していた
佐藤賢一氏には、西郷を守ろうと奮戦する青年の小説
『遺訓』(新潮文庫)もある。
さすが、庄内出身の作家さんだ。
わたしの知る庄内の人たちも、みなさん律儀で温かい。
酒井家の庄内藩が今も息づいているような気がしてならない。
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長々とおつきあいいただき、どうもありがとうございます。
気になっていた「松ヶ岡開墾場」について、まとめることができました。
記事は以下の資料や私のメモを元にまとめましたが、
間違いもあるかと存じます。
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。
📖参考
鶴岡まちづくり塾・羽黒グループ『松ヶ岡かいこん物語り』
(おもてなし観光ガイドブックⅡ)