![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/d6/831a663f2943dad095a3381a3847d385.png)
夏に旅した新潟県・上越市から、大きな封書が届きました。
「第28回平和の集い2022」の報告を載せた、
「じょうえつ 日豪協会会報」第79号でした。
平和の集いが開かれた平和記念公園は
直江津捕虜収容所 の跡地に建てられました。
実はノーマークのここを、
現地に着いてから知り、急遽訪ねています。
見学の折、名簿に名前と連絡先を書いたので、
わざわざ会報を送って下さったのでしょう。
ありがたいことです。
お礼の気持ちを込めて、会報を参考に、
かつての捕虜収容所について、まとめたいと思います。
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(上越市 高田駅)
第二次世界大戦中、日本軍は、日本国内に91の捕虜収容所を置き、
アジア各地で捕虜にした兵士を収容しました。
兵士は工場や炭鉱などで働かされます。
直江津捕虜収容所(正式名「東京俘虜収容所第四分所)では
オーストラリア人300人が収容され、そのうち60人が亡くなりました。
無理もありません。
新潟県の豪雪地帯で知られるエリア、
しかも日本海に面した、おそらく吹きさらしの古い塩・倉庫です。
暖房もない、過酷な環境で暮らし、重労働を強いられる・・・
兵士は肺炎や疫痢で亡くなったそうです。
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また、終戦後の戦争裁判では、横浜裁判で
直江津収容所の8人がBC級戦犯との理由で、命を絶たれました。
話はそれますが・・・
わたしは大人になってもしばらくは、
戦犯のABC級とは罪の重さだと思っていました。
それなのにBC級で死刑になるのは、なぜなんだろうと・・・
A級戦犯は「平和に対する罪」、 B級戦犯は「通例の戦争犯罪」
C級戦犯は「人道に対する罪」 ・・・
ざっくり言うと、A:戦争指導者 B:命令した指揮官
C:実行した兵士や民間人というところでしょうか。
(A級で絞首刑になった方々は、横浜市の久保山斎場で荼毘にふされた)
直江津捕虜収容所でBC級戦犯とされた8人は、
捕虜虐待の罪に問われました。
このあたりは、見学していて、自分がよく分かっていないと自覚しました。
もっと調べてみようと思いながらも、そのままになっています。
会報をきっかけに、きちんと本を読むつもりなので、今回はお許しを。
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一方、オーストラリアでは、日本人が収容されていたカウラ捕虜収容所で
日本兵の脱走事件が起きました。
(大泉洋さん主演でドラマ化もされた)
捕虜収容所の脱走事件としては最大の人数で、死者は日豪合わせ235人。
戦後、カウラ市は、この事件の慰霊祭を行います。
これを知ると、直江津市民(現上越市)も動きました。
上越日豪協会を結成し、募金活動を行い、
1995年に、平和記念公園が開園、
今も「平和の集い」となり、今も続いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/0c/abe16e934723ee60c40df463669c7e6d.jpg)
・・・ということを展示館で知りました。
残念ながら、今、当時の収容所の跡を記すものは残っていません。
また関係者の記憶も、まちまちで正確なところは、わからないまま。
収容所のあった、関川の河口も大きく様変わりしていますから・・・
この日は、あいにくの雨降りで、屋外での見学は敬遠。
それでも平和記念公園に、かつてのつながりを示すオブジェが
いくつもあることは気づきました。
展示館を見学していても、知らないことばかりでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/e0/7ac7ba857a463fe3f66150e0c2c705d7.jpg)
とりわけ、見学時、印象に残ったのが
「死者に敵も味方もありゃせん」の言葉でした。
いただいた会報にも詳しく掲載されています。
(「平和の集い」の語りも、共に上越日豪協会 中村忠雄氏による)
オーストラリア兵士が収容されたのは1942(昭和17)年12月。
その翌年から翌々年(昭和19)年のひと冬で、60人が亡くなりました。
運の悪いことに、あの冬には大寒波も襲ったのです。
毎日のように命が喪われ、
ご遺体は橇で一里先の火葬場まで運び、荼毘に付すものの・・・
遺骨を安置する場所がありません。
収容所内では、とても不可能。
どこのお寺にも断られてしまいます。
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その厳しい状況で、承諾してくれたのが、
春日新田の覚真寺、藤戸円理住職でした。
住職は「いいですよ」と答えられると、
「死者に敵も味方もありゃせん」と、続けられたのです。
中村氏は「世間一般の潮流に振り回されない、さわやかな風のよう」
(「会報」8頁)と例えられていますが、本当に!
今の平和な時代ならば、当たり前かもしれませんが
当時は、特高警察や憲兵の目のあるなかです。
どんな邪推をされるか・・・
知らぬ存ぜぬ・・・で通したいところが多くの本音。
その時代の住職の言葉だけに、
80年近くを経てもなお伝えられているのでしょう。
今、かつて捕虜だった兵士や、家族・親族は平和記念公園を訪ねると、
必ず、覚真寺にも足を運ばれているとのこと。
それも、また素晴らしい御縁だと思います。
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(展示館)
直江津捕虜収容所の跡地は、
戦跡としての保存はかなわなかったものの、
市民が協力し、この平和記念公園が開かれ整備されました。
頭が下がります。
市民の協力と言えば、もうひとつ。
この展示館を見学するには、
ご近所で鍵をお借りしなければならないのです。
展示館の玄関まで行って、その旨の掲示があり気づきました。
歩いて数分のお宅へ伺うと、奥さまが出てきて下さり、
雨の中、案内して下さいます。
奥さまは、鍵を開け、窓を開け放ってくださると、
「また、声をかけてください」と、お帰りになりました。
帰り際には、またお声をかけます。
今度は、戸締まりをなさるのでしょう。
どのような取り決めなのかはわかりませんが・・・
これも、やはり市民の協力です。
いたく、感激したのを覚えています。
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(上杉謙信公像 春日山城にて)
今回も、たった一度、訪ねただけの私達に、
こんなに立派な会報を送って下さる・・・
上越と言えば、春日城。
上杉謙信公以来の「義」の念が受け継がれているような気がしました。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございました。
画像は2022年8月末に撮影、
あいにくの雨模様で撮影はほとんどしておらず、
画像が少なくなっています。
本記事は、展示館内の説明や、「じょうえつ 日豪協会会報」第79号を
参考にまとめています。
素人のことゆえ、間違いや勘違いがあるかと存じますが、
どうぞご容赦下さい。