歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

「直江津捕虜収容所」跡は・・・

2022-11-19 06:28:13 | 新潟県
夏に旅した新潟県・上越市から、大きな封書が届きました。
「第28回平和の集い2022」の報告を載せた、
「じょうえつ 日豪協会会報」第79号でした。

平和の集いが開かれた平和記念公園
直江津捕虜収容所 の跡地に建てられました。

実はノーマークのここを、
現地に着いてから知り、急遽訪ねています。

見学の折、名簿に名前と連絡先を書いたので、
わざわざ会報を送って下さったのでしょう。
ありがたいことです。

お礼の気持ちを込めて、会報を参考に、
かつての捕虜収容所について、まとめたいと思います。


(上越市 高田駅)


第二次世界大戦中、日本軍は、日本国内に91の捕虜収容所を置き、
アジア各地で捕虜にした兵士を収容しました。
兵士は工場や炭鉱などで働かされます。

直江津捕虜収容所(正式名「東京俘虜収容所第四分所)では
オーストラリア人300人が収容され、そのうち60人が亡くなりました。

無理もありません。

新潟県の豪雪地帯で知られるエリア、
しかも日本海に面した、おそらく吹きさらしの古い塩・倉庫です。

暖房もない、過酷な環境で暮らし、重労働を強いられる・・・
兵士は肺炎や疫痢で亡くなったそうです。




また、終戦後の戦争裁判では、横浜裁判で
直江津収容所の8人がBC級戦犯との理由で、命を絶たれました。

話はそれますが・・・
わたしは大人になってもしばらくは、
戦犯のABC級とは罪の重さだと思っていました。
それなのにBC級で死刑になるのは、なぜなんだろうと・・・

A級戦犯は「平和に対する罪」、 B級戦犯は「通例の戦争犯罪」 
C級戦犯は「人道に対する罪」 ・・・

ざっくり言うと、A:戦争指導者 B:命令した指揮官 
C:実行した兵士や民間人というところでしょうか。
(A級で絞首刑になった方々は、横浜市の久保山斎場で荼毘にふされた)

直江津捕虜収容所でBC級戦犯とされた8人は、
捕虜虐待の罪に問われました。

このあたりは、見学していて、自分がよく分かっていないと自覚しました。
もっと調べてみようと思いながらも、そのままになっています。
会報をきっかけに、きちんと本を読むつもりなので、今回はお許しを。



一方、オーストラリアでは、日本人が収容されていたカウラ捕虜収容所で
日本兵の脱走事件が起きました。
(大泉洋さん主演でドラマ化もされた)
捕虜収容所の脱走事件としては最大の人数で、死者は日豪合わせ235人。

戦後、カウラ市は、この事件の慰霊祭を行います。
これを知ると、直江津市民(現上越市)も動きました。

上越日豪協会を結成し、募金活動を行い、
1995年に、平和記念公園が開園、
今も「平和の集い」となり、今も続いています。



・・・ということを展示館で知りました。

残念ながら、今、当時の収容所の跡を記すものは残っていません。
また関係者の記憶も、まちまちで正確なところは、わからないまま。
収容所のあった、関川の河口も大きく様変わりしていますから・・・

この日は、あいにくの雨降りで、屋外での見学は敬遠。
それでも平和記念公園に、かつてのつながりを示すオブジェが
いくつもあることは気づきました。
展示館を見学していても、知らないことばかりでした。



とりわけ、見学時、印象に残ったのが
「死者に敵も味方もありゃせん」の言葉でした。

いただいた会報にも詳しく掲載されています。
(「平和の集い」の語りも、共に上越日豪協会 中村忠雄氏による)

オーストラリア兵士が収容されたのは1942(昭和17)年12月。
その翌年から翌々年(昭和19)年のひと冬で、60人が亡くなりました。
運の悪いことに、あの冬には大寒波も襲ったのです。

毎日のように命が喪われ、
ご遺体は橇で一里先の火葬場まで運び、荼毘に付すものの・・・
遺骨を安置する場所がありません。
収容所内では、とても不可能。

どこのお寺にも断られてしまいます。




その厳しい状況で、承諾してくれたのが、
春日新田の覚真寺、藤戸円理住職でした。

住職は「いいですよ」と答えられると、
「死者に敵も味方もありゃせん」と、続けられたのです。

中村氏は「世間一般の潮流に振り回されない、さわやかな風のよう」
(「会報」8頁)と例えられていますが、本当に!

今の平和な時代ならば、当たり前かもしれませんが
当時は、特高警察や憲兵の目のあるなかです。
どんな邪推をされるか・・・
知らぬ存ぜぬ・・・で通したいところが多くの本音。

その時代の住職の言葉だけに、
80年近くを経てもなお伝えられているのでしょう。

今、かつて捕虜だった兵士や、家族・親族は平和記念公園を訪ねると、
必ず、覚真寺にも足を運ばれているとのこと。
それも、また素晴らしい御縁だと思います。


(展示館)


直江津捕虜収容所の跡地は、
戦跡としての保存はかなわなかったものの、
市民が協力し、この平和記念公園が開かれ整備されました。
頭が下がります。



市民の協力と言えば、もうひとつ。

この展示館を見学するには、
ご近所で鍵をお借りしなければならないのです。
展示館の玄関まで行って、その旨の掲示があり気づきました。

歩いて数分のお宅へ伺うと、奥さまが出てきて下さり、
雨の中、案内して下さいます。
奥さまは、鍵を開け、窓を開け放ってくださると、
「また、声をかけてください」と、お帰りになりました。

帰り際には、またお声をかけます。
今度は、戸締まりをなさるのでしょう。

どのような取り決めなのかはわかりませんが・・・
これも、やはり市民の協力です。
いたく、感激したのを覚えています。


(上杉謙信公像 春日山城にて)


今回も、たった一度、訪ねただけの私達に、
こんなに立派な会報を送って下さる・・・

上越と言えば、春日城。
上杉謙信公以来の「義」の念が受け継がれているような気がしました。

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おつきあいいただき、どうもありがとうございました。

画像は2022年8月末に撮影、
あいにくの雨模様で撮影はほとんどしておらず、
画像が少なくなっています。

本記事は、展示館内の説明や、「じょうえつ 日豪協会会報」第79号を
参考にまとめています。
素人のことゆえ、間違いや勘違いがあるかと存じますが、
どうぞご容赦下さい。

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