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【藤岡古墳シリーズ】七輿山古墳 伊勢塚古墳 ※追記あり

2023-12-11 18:34:31 | リボのサイクリング

 冬場恒例の古墳巡りシリーズも最高潮となってまいりましたっ(`・ω・´)

 

 明日雨予報らしいんで、間隔詰まったがとりま行ってきた。近場で目玉のポイントならここだろう。前回白石古墳群に行ったときに残しておいたポイント。用意周到抜かりない野人策士(`・ω・´)

 

 https://www.google.co.jp/maps/@36.2626094,139.0424232,16.62z?entry=ttu

 

* 七輿山古墳

 

 結論から言うと、ここはすごかった。大きいだけかと侮っていたんだが、とんでもなかった。

 

 一般にはもちろんその大きさと、保存状態の良さ、そして春の桜の美しさでとても親しまれているところだと思うんだが、俺が今日見たところ、ここはかなり興味深い謎を残していて、研究価値の高い場所と痛感しました。

 

 まあ端折ると、ここは形にまずいろいろ特徴があり、私も初めて見るものがあって、ただの前方後円墳とは思えなかった。突っ込みどころは非常にたくさんあったし、そもそも前方後円墳てなんなの?的な問題にすら帰着しかねないほどのものだったね。

 

 でまあ話せば長いし、詳しいことはご自身で調べてほしいし、行ってみてほしいんだが、ここは今まで見てきたものと違い、形がただの円形と方形ではないように俺には見えた。

 

 まあ古墳てものは大体、崩壊が始まってて、そうそうきれいな形が残ってるものではないということは経験してきてるんだが、ここはかなり保存状態はいいほうで、それを見ると、逆にどうも形に少し特徴があるように見えた。

 

(今検索していたら、早稲田大学による地中レーダー探査のデータがあるらしいが、とりま私の印象を語って、あとでそれを見て再確認したいと思う。)

 

 まあ私、まだ昨年冬から古墳巡りを始めたに過ぎないビギナーなのでいろいろ勘違いも多い。ただの一素人の見解として、さらっと聞き流してほしいが、まあ一応現地に行ってこの目で見て確認したものの意見ということになります。

 

 でまあ難しい部分があるのは承知してる。のちの時代に改変などが行われてるケースも非常に多いから。それこそ残ってるだけでも貴重で、多くの場合は社寺やお城に改変され、さらには現在の市庁舎などになってるケースも多々あるだろう。そういう事実がもはや歴史から消されてしまっているケースもあると思う。主流派ではないものはそのようにしてすたれてしまってるものが多いと思う。

 

 がまあ、一応最低限の知識はもってるつもりなんで、それを踏まえて書いてみたい。

 

 まず一番は形ですかね。これがまあ最大かもしれないけどね。

 

 単刀直入に書くと、後円部が多角形のように俺には見えた。ぱっと見てもなんとなく真円ではなく、直線的・平面的に見える部分があるなと、最初に外周を回りながら思った。でもまあ裏側の保存状態のいいほうは比較的きれいな円形に見えたので、そちらが本来なのかなという気はしたが。

 

(ほぼ東西を向いていて、北側から見る形。右手前方部が西側。南側が自然地形で丘のようになっているようなのだが。)

 

 のちの時代の改変もあると考えられるので判断が難しい。東側の後円部の頂点のような場所に入り口と通路のような延長があり、尖ったような形になっている。あまり見ない形だが、古墳が連続しているような場合に、時々ある形ではある。先日見たばかりの白石稲荷山古墳もそのようになっていた。

 

 説明板にきれいな標高図付きの説明があったが、あまりそのようなことには触れられていないし、やや美化されてしまっているきらいもある。私が見た形では、少なくとも北側はさほどきれいな全貌後円墳には見えない。北側のほうがどうも崩落が進んでいるようだが。

 

 で、その頂部から歩いて入っていいのだと思う。ゲートがあるが、中にも道がある。大きな三段築成で、一段上がったところが大きく削られているようで、そこに羅漢が多数並べられていた。誰かが石室を探ろうとした跡かもしれない。埋葬品などの情報がないのはなぜなのかよくわからない説明が欲しいところだ糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞

 

 でまあ速い話が、私にはそのように直線的な辺が見えた。特に北側。そしてその印象が強まったのは、後円部の頂部。ここは直線的な辺で六角形になっているように感じた。少なくともそのような石垣などが見られた。それが元々の形を維持するためなのか、のちの時代の改変によるものなのかは判断のしようはないが、私にはそこそこ本質的な形のように見えた。

 

 頂部は、東側が平らな辺の六角形に見えた。この手の物には八角形が多いのでよく見てみたが、六のように感じた。

 逆に、下のほうはもっと多い多角形のように感じた。そもそも後円部の端が少し尖って見える。極端に言うと、矢じりとか烏賊のような感じに見えなくもない。北側からはそう見えた。

 

 段数も、以前から書いているが、群馬ののものはもっと多段に見えるものも多い。建築技術の痕跡が表れているのかもしれないが、見方によっては、五段、六段に見えなくもない。その上に化粧で土を盛るのかもしれない。それがはがれて、北側でそのような姿が露見してしまっているという可能性もなくはない。

 例によって、意外に墳丘上は柔らかかったけどね。葺石が露出しているということはなかった。それがリアルなのかどうかはわからない。倉賀野のものは葺石でゴロゴロだった。あとの時代にやったとは思えないが。

 

 そのように、やや異質に感じる点がほかにもいくつかある。前方部にも特徴がある。西側の面に、突起状の構造物がついている。早稲田の写真には写ってる。真ん中に二つ小さめの突起が張り出している。これも、当初からあるのか、あとでつけられたのかは不明だが。石垣で固められていた。今までに見たことはない。

 

 前方部は、かなり角が張り出していて鮮明な形をしている。それで思ったが、ほとんど三角形をしている。今まで見てきた前方後円墳に比べると、そのように裾が開いたような形になっている。

 

 そしてそれがつながる部分にも特徴があって、やはり二つの盛り上がりがあった。小さなマウンドのようなもの。前方部頂部から後円部に歩いていこうとすると、稜線を挟むように二つのわずかなマウンドのようなものがあった。今までに私は経験がない。

 

 また、その前方部くびれのところに溝のようなものがあるのも始めた見たかもしれない。保存状態がいいのかもしれないが、三角形が組み合わさるようなところに溝のような筋が下まで降りていた。排水溝みたいな感じ。構造的に合理的に見える形ではあるが、意味は不明だ。

 

 ので、そのあたりを歩いていると、元々ある前方後円墳に三角錐を接続したような感じにも見える。そもそも前方部が大きくて高い古墳で、新しい時代のタイプだろうが、そういうのがかなりはっきりと痕跡として残っているのは初めて見た。

 

 そういう特徴的な外形が残っているので、きわめて珍しいものという印象が残った。

 

 そもそも、周堀を含めて非常に大きくてよく整えられた構造物で、これは過去に見てきたどの古墳よりも手の込んだ作りかなというのも総括的な印象で、驚いた。観察にも時間と神経を使った。まあ再三になるが、どれがどこまでオリジナルのままの姿なのかが判断が難しいのが問題だけどね。私が書いたようなものは、関係者はあまり重視してないようなので、のちの時代のものかもしれないが、私はそういうものをこの目で見たのは確かです。

 

* 外周部

 

 これがまた凝っていて、最初に着た瞬間に驚かされる。まずすぐ目の前に四角い島のようなものがある。これもあまり説明がないんだが、やはり古い葺石のようなものが見えていたんで、元々あったものではないのかと私は思う。それがやはり補強されていたかな。

 

(ただし、木が茂っていて古墳が見にくい。重要性は低いから刈り込むべきではないのか。そういうところが全般的に藤岡はなってなくて、整備はもう一つ。周囲も歩きにくい。周堀にも興味深い点が多々あるのだから、できれば一周回れるようにしてほしい。北側は一般道まで道がない。歩いてみたが、ここも竹やぶで何も見えない。何とかしてくれー糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞)

 

 また、北西側にかぎ型に残存している中堤もきわめて興味深いものだ。こちらも敷石のようなものが残存している。ということは、こういうものがこの周囲にめぐらされていたという可能性もあるし、相当大規模な構造物だったのは間違いないんだが、どうも説明不足でよくわからない。調査も十分でないような気がするので、もっと本腰を入れて全容を解明してほしいかなという気がするんだが、なぜか士気を感じないw それは多分、極右勢力が廃仏毀釈で人でなしのような真似をした痕跡が残っているので、恥ずかしくて政府系の人間がかかわりたくないのだろうけどね(≧з≦)糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞 糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞 糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞 まあいろいろごたごたがあったのは確か(≧з≦)

 

 もちろん東側もごちゃごちゃしているし、カモのいる池があったが、そのように周囲は堀のような地帯がめぐらされているので、いろいろありそうな雰囲気には見えるんだが、中途半端な状態になってる。

 

 南側もよくわからない。先日見た毛野国白石丘陵公園と隣接してるね。近くて驚いたw 南東方向に円墳が見えるんだが、それが中央広場にあった平井地区一号墳だったねwww 上がってみるまで気づかなかったが、そういう関係性。その丘の下のような場所にある。まあそれでも全体に高い場所で、この周囲の田畑が見渡せるような高台になってるね。あとで伊勢塚古墳に行ったら、そういう関係がよく分かった。どちらからも相手がよく見える。

 

 ので、どこからどこまでが古墳の領域かわかりにくかったけどね。南側が迫っているので、その辺が限度かと思うんだが、ぱっと見は二重三重の堀がありそうにも見える。まあ少なくとも二重。その辺まではしっかりありそうに見えた。今まで見てきた群馬の大古墳と同じような感じだと思う。かなり広くて大きい立派な堀とはいえる。そしてそこに構造物があるのがなかなかで、よほどの権力者と言わざるを得ない。保渡田に勝るとも劣らない規模と内容といえると思う。

 

(なので例によって、群馬中央ファースト主義によって、この辺りは軽視されネグレクトされてるんだろうけどね。いつも同じ話だこの世から差別やいじめは決してなくならない(≧з≦)糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞)

 

 まあそのように、私が見た限りでは問題のタネが無数にあった。判断に迷うとこといわざるを得ないし、そもそも調査も、維持管理も、十分に行われてない。ちゃんとやるべきところと私は思いました。その価値は十分ありますね。ここはすごいとこです。間違いないです。

 

(結果的には、寺が介入して大規模な改変が行われてしまっているので、意外に価値は低そうだ。残念。まあ人間なんてそんなものだが糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞 もっともそのおかげで未盗掘の石室が残っていそうで、かなりの結果は期待できるだろうが。)

 

(話せば長いが、今回は鮎川沿いのあたりを走って行ってみたんだが、非常に広い遊休地がある。向かい側は例のcr遊歩道があるところだが、こちら側のほうがスペースが広い。しかしそのあたりが私有地のようらしくて、立ち入るなという看板が出てた。行きは通ったんだが、こんな絶好の場所があるなら、例によって親水公園にするのがいい。そして丘陵公園と連携させたら、本当に素晴らしい場所になる。もったいないことこの上ない。空気を読めない売国企業からは土地を取り上げてそのように開発するべき。早くやらないと貴重な自然環境を荒らされてしまいます。すでにゴミ置き場になり始めてますよ。今すぐやるべきです。リボのやるベキ!かかってない糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞)

 

 まあすごいとこでした。いろいろ見て判断するのに時間がかかった。謎めいた場所です。またいつか来て再確認する必要があるだろう。カメラをもって糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞 その必要はなさそうだw

 

* 伊勢塚古墳

 

 そこから丘を下って畑のほうに降りていくとある。ここは鮎川と鏑川の間の場所ですね。落合というところらしいそのままww

 

 しかししかし、ここも侮ってたが、とんでもないとこ。謎の塊でしたね(・ω・;)

 

 うーむここはとても一言では説明できないね。話せば長くなりすぎる(´・ω・`)

 

 一見小さな円墳ですね。よくある2,30mぐらいの、畑の中にあるような。

 

 ところがここはただものではないようだ。まず玄室が凝ってるね。そしてここは今でもみられるようになってるのが貴重だ。明日行けばすぐに珍しい模様積みを見ることができます(・ω・;)

 

 玄室の形も変わっているということだ。説明板があった。なだらかの曲線的な形で、天井もドーム状になっているということ。

 

 (女性的な作りかもしれないかな。そのような繊細なものなのは確か。今までに見たことがない印象だ。)

 

 しかし一番はやはり外形ですかね。不規則な多角形型というような説明かな。実際、見てもなんだかよくわかりませんねw

 

 上部は割と普通の円形のような印象。しかし、下のほうは、多角形型にも見えるし、南東側はほぼ四角形だったかな。直角の感じ。だから、そういうところとそうでないところが入り組んでいて理解できなかったw へこんでいるような場所もあったかな。

 

 多角形型に円墳が乗ってるという形式もあるから、それに近いかもしれないが、そんなに明確な形はなかった。しかしこれも、保存状態の問題などあって何とも言い難い。しかし、少なくとも直線的な線や面が見られたのは確か。

 

 どうも群馬にはこのタイプが多いらしいと感じるね。なんと言っても思い起こされるのは吉岡町三津屋古墳の八角形かな。

 

 まあそういう先入観かもしれないんだが、私にはそんな風に見えるところがあった。先ほどの七輿山から連発だから、偶然ではないような気がしてしまうね。やはり俺は正しいんじゃね糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞

 

 しかもここも付随の塚のようなものがあった。仮にそうだとすればそれ自体は珍しくないが、ここのは形が変わっていた。しっぽみたいなw タツノオトシゴみたいな。そんな風な曲がった堤のようなものがついてた。手鏡の柄のようにも見える(´・ω・`)

 

 でまあ、これも私にはわかりません。何も説明もない。でも、伊勢塚古墳からほとんどつながっているように見えた。ぱっと見は小さな前方後円墳のようにも見える。7,8m程度のw しかしその先が曲がっている(´・ω・`) なんなのこれ?ww 初めて見ました。

 

 まあそういう突堤のようなものにも見えるが、第一印象は、小さな古墳。だけど形が変w そういう怪しげな場所でしたね。謎しかなかったww 俺には理解不能だったね。

 

 というわけで今回はとにかく難解な場所だったよ。頭が疲れました。脳筋ライダーには縁のない疲労だろうがw 

 

 でもそれだけに、重い意味があると思った。私はそのように、古墳の形にそんなに決まりきったルールがあったとは思ってない。少なくとも群馬ではそれは通用しないと思う。どの古墳も個性的だと俺は思うけどね。それを無理やり規格にはめようとしてるような政治力を感じるね。

 

 まあ仮にそれがあったとしても、群馬人はそれに抵抗しようとしているように感じる。そういう石の積み方や外形の不規則性などを見てもそれを感じる。埼玉みたいにつまらんもの一色ではないね。それはいいことだと私は思います。人間らしいね。人間性を感じる。伊勢塚古墳は群馬古墳のルネッサンスやーwww ツーかいびつな格好だからバロックかなw

 

 というわけです。大変頭が疲れましたね。まあ百聞は一見に如かずです。行ってみてください。素晴らしいとこ。全国9500万人の古墳マニアの垂涎の場所ですね。西日本の古墳は入れないこともあるんでしょうが、あまり面白みを感じません。しかし群馬の古墳はどこも楽しいですwww まあ型にはまってないというか、どこに行っても謎だらけの感じですね。何がどう関係しているのか、想像が無限に広がりますよ糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞

 

(情報がよく公開されているからだろう。民度の高さを感じる。)

 

* バイクとか

 

 今回は近場古墳ポタということで、大型カーボンF号ですね。フラぺです。

 

 今回はステムを短いものに交換していきました。やっと少しポジションが改善されて、非常に乗りやすくなりましたね。やはり何も問題ない。かなり速く走れます。本当はハンドルも詰めたいね。44じゃさすがに広すぎる。42があるんでそれにすればさらに良くなるのは明らかだが、そこまでできなかった。それでも時間かかってしまって寝不足です(´・ω・`)

 

 何も問題ない。少し手先が軽くなったね。ますますいい。フロントホイールはH号標準で重かったが(・ω・;)、ガチのやつにしたら相当いいはず。万能のバイクですね。まあどっちつかずの感もあるのは事実で、やはりマドンとディファイの中間ぐらいのバイクwww まあおっさんには十分です。ありがたい話。それでマドンもディファィも買わなくて済むからね糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞

 

 時間は4:15でした。観察に時間と神経を使って疲れた。あと七輿山はぐるっと一般道を歩いてしまったのでね。遊歩道を設置してほしいです。白石丘陵公園はやはりもう少し整備したほうがいい。もったいない。できたら鮎川親水公園を作って連携させれば、古代人の生活をもっとリアルにほうふつとさせることができるでしょう糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞

 

* 追記 早稲田大学の調査データで再検証

 

 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/86511

 

 なるほどこれは一目瞭然かもしれない。素晴らしいレーダー調査と、寺の資料の紹介がある。俺の考えすぎだったようだ。そこまで複雑なことは古墳時代にはしなかったのかもしれない。

 

 はっきりした三段のようで、しかも俺が気にしたものはやはり後世の改変のようだ。ここは近くにある宗永寺が仏教の聖地にしようと試みていたようで、記録が残っているらしく、ほぼすべてが説明できるようだ。元々はシンプルな前方後円墳であることが確かなようだな。

 

 まあそのような経緯で、盗掘などにもあっていないようで、なんと石室が未盗掘で残されているようなんで、かなりのものが出てくる可能性は高いのではないかな。でも結論的には、今まで同様保守的なものである可能性が高いかな夢をくじく大人げない野人ww

 

 まあ俺はやはり素人なんで外形に驚いてしまったがw、そのように大半はオリジナルではないということだね。そうなると、内容物にもさほどの驚きは期待できないかなという気はするw

 

 ただし、周辺部にある構造物のほうがむしろ興味深いかな。それには価値がありそうで、周堀の規模の大きさからして、やはりその他の群馬の大古墳と同程度の重要度はあるのは間違いないだろうね。いずれ発掘調査されるだろうから、結果が楽しみです。

 

 伊勢塚古墳のほうも、おそらく元はシンプルな形状で、のちの時代に略奪や破壊されたかしたのではないかな。それでも幾何学的な形状をしていた可能性は残るかもしれない。それならかなりの副葬品があった可能性はあるかもしれない。


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4 コメント

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初級バードウォッチャー野人 (ハシビロガモ?)
2023-12-12 23:16:25
七輿山古墳の手前側右手の濠の部分には、そこそこの大きさのため池があって、カモ類がかなりいた。数十ぐらい。

大半はカルガモで、あとマガモが少しいたんだが、中に今まで見たことがない鴨がいた。(あるかもしれないが意識したことはない)

それは胴体が茶色をしていた。マガモのように少し羽根に色がついていて、茶色の前後が白く、体はカルガモよりも少し小さかった。

多分今までに見たことがない種類だったと思うんだが、今確認してみたところ、ハシビロガモのオスではないかと思う。残念ながらくちばしの形まではわからなかった。今回は警戒されて逃げられてしまったから(・ω・;)

カルガモと一緒に行動してたが、そういう色合いと、少し体が小さいということで目に付いた。調べて見ると、そのように胴体が茶色いタイプは意外にいないから、多分間違いないと思う。

カモ類もそこそこ見てきたので、そのうちコンプリート出来るかも(`・ω・´)
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解説する野人 (羨道らしき影が見つかる)
2023-12-14 11:59:33
元資料を見ようとしないものぐさ読者のために少し解説しますと、まあ私もざっと目を通しただけなんだが、おそらくレーダー探査というのは、重い石のようなものに反応して影が映るのだと思う。

それで、前方後円墳の形も、葺石が崩落した場所が当初の形を表している、ということだと思う。まあそれにしてはずいぶんきれいに並んでいるとは思うけどね。そのあたりはよくわからない。葺石がそんなに薄いものなのか、そんなにきれいに並んで崩落するものなのかは俺にはわからない。でも多分、基壇のラインがそのように引かれていたということはないと思うので、多分自然な葺石の崩落の後だと思うんだが、ちょっと不思議ではある。とりま早稲田のデータを信じるしかないが。そういう仮定。

(よくわからないが、俺は早い時期に倉賀野の大鶴巻古墳で厳重な葺石を見たので、こんなに簡単に崩落してしまい、検出されなくなってしまうというのに驚いている。あるいは後世に葺きなおされたのか?通路だけだったかよく覚えてないが。
葺石は重いので、川の近くなどで容易に資材が調達できないと、あまり厳重に行われなかったのかもしれない。また人手を使って葺くのだろうから、そういう人員を動員できないというような事情も関係するかもしれない。)

調査によると、一番興味深かったのは、後円部南側に通路を思わせるような反応があったということだ。詳しい経緯はわからないが、この調査でも羨道や玄室を探ることを目的にしていたようなので、可能性としてはそれらのものが未発見・未盗掘で残っている可能性があるのではないか。

話の流れ的にその可能性があるようなのでそのように書いておいた。この羨道らしきものは後円部の南側、一段目テラスの場所に開口しているらしい。見つかりにくい場所にあるといえる。

 それでも、この規模の古墳なら豪華な副葬品が期待できるから、盗賊たちや後世の権力者たちも狙っていた可能性があり、盗掘され埋め戻されているという可能性も無きにしも非ずだ。しかしここは、このお寺がかなり古くからここを占有してきたので、監視の目があった。

 またいろいろと忌まわしい話も残っているところなので、実際に盗掘されていないという可能性も高いように思われる。東側から掘ったのは、多分寺の関係者ではないのかな。大々的な規模だから、公になっていたろう。あるいはそれよりも前のかなり古い時期か。そのあたりははっきり触れられていない。

 しかし幸か不幸か、そこにはなかったので、それ以来掘削されていないだろう。やるとすれば大工事になるから、隠すことは難しい。

 新しい時代の古墳でこの規模だと、大体横穴式の可能性が高いものだろう。それはこのように盗掘にあいにくいからだと私は思う。入口を見つけるのが難しい。竪穴式だと、後円部の墳頂部付近という見当がつけやすく、事実古い古墳はのちの時代に大体盗掘されてしまっている。

 ここがどうかは定かではなく、諸説あるらしいが、常識的には横穴式だろうし、今まで入口が見つからずに守られてきた可能性がかなりあると思う。
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解説する野人2 (前方部の上には社があった)
2023-12-14 12:11:43
よくある話なんだが、そのようなものが後世に作られて祭られていた。そのようにしたほうが荒らされずに済むという事情もあるだろう。ちなみに後円部の上にはお寺関係のお堂があったということだ。

 それで、その際にいろいろ工事をしたらしい。そのことも早稲田の資料に書かれていて、納得できた。

 社なので、門のようなものを作るだろう。それで、西側斜面に、一対の石垣があるのだと思う。そういう場所に門や灯篭などを据えていた可能性がある。
 頂部から後円部に行くとこにも一対のふくらみがあると書いたが、同様のものではないのかと考えると合点がいく。

 そして、そういう施設を作るために、墳丘を削って資材を調達したらしい。それで北側斜面にいびつな箇所があるようだ。

 溝のように見えたものは多分、下から上がってくるための通路の跡だろう。

 中堤のほうも同様で、寺が通路のような目的で増改築したようだ。しかし元々存在していて、そこには埴輪列があったらしいというのだから、やはり貴重なものに違いない。一部の特別な古墳にしか付随しない施設だと思われるので、この古墳の重要性を物語っていると思う。
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解説する野人3 (六世紀の古墳)
2023-12-14 12:33:40
全般にはやはり保渡田の八幡塚古墳や、綿貫の観音山古墳によく似ていると思う。

後期の整備された古墳で、横穴式石室を持ち、二重以上の堀、埴輪を並べた中堤などを持っている。ほぼ同じような規模と内容だと思う。その中では一番大きいかもしれないが。

まあその経緯などで外形などが少し荒れている。歴史的な重要性はあまり高くないようだから、うまく話をつけてw、復元してしまっていいのではないのかという気はするけどね。ちょっと品のない姿が残ってしまっている。

せっかくのなのできれいに整備して見やすいようにしてはどうですかね。でかいものが見つかれば実現するかなw
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