8月15日になると何時も「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」、の玉音放送が昔の映像とと共にに耳にします。
その映像は皇居の二重橋にひれ伏して泣いている人が殆どでした。
私は母がその日をどう思ったかを聞いたことがあります。
母は心からうれしかったのだそうです。
それは今日から空襲もなくゆっくり寝られる、それだけでバンザイと心の中で叫んだそうです。その後の東京の食糧難はさておいて、私たち姉妹を死なせないで済んだこと家族誰もが命を落とさなかったことだったそうです。
母は当時30歳代この時代を行き抜いた人たちは本当に強かったです。
山手に住んでいて2度の大空襲で奇跡的に4件だけ焼け残ってその中に我が家もありました。
玄関前は等間隔に不発の焼夷弾が突き刺さっていたそうです。その後の食糧難は私も覚えています。
私は昭和天皇の玉音放送の現代語訳で天皇陛下の思いを知ったのはかなり後の事です。
<現代語訳文>
私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。
私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。
先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。
しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず、世界の情勢も我々には不利に働いている。それだけではない。
敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明おも破壊することになってしまうだろう。
そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。
私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。
さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる。国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。
しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。
私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。
国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。
あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。
天皇の署名と印璽
昭和二十年八月十四日
文と写真はサイトからお借りしました