阪神淡路大震災から20年です。
ブログを書き始めてから何度も書いたけど長男の安否がわかるまでの間の心がつぶれそうな思いを今でも思い出すとぞっとする。
20年たって町は復興しても、遺族をはじめ、震災の痛手を負い続けている人たちがいる。同じ苦しみを繰り返してほしくない。いつまでも語り継いでいかなければね。
長男もこの日は特別な一日だと祈りをささげないではいられない、今の自分があるのは奇跡だと思うからと、毎年心新たにするという。
あの日長男は就職一年目で西宮の独身寮にいた。
まさに高速道路が折れてバスが宙吊りになっていたすぐそばだった。
最初テレビをつけてあ~地震があったのね!ぐらいに考えていたのが時間が経つごとに大変な事態になっていることがわかり息子の寮に電話したがもちろんつながらない。
夫は会社で私は家から電話をかけ続けていたが繋がらなく被害がどんどん拡大しているのがわかった。
大阪支店に電話しても繋がらない状態、私は本当に心配で泣きながら電話をかけ続けた。
夕方になってやっと長男から無事と言う公衆電話からの連絡が入った。携帯電話もなかったし!
ちょうど活断層を境に息子のいる所はみな無事で反対側は軒並み家が倒壊して、人々の呆然とした様子が息子にもわかり気の毒だと泣き声になっていた。
息子は4階にいて落下物で怪我もあったが一階の人は外が稲妻のように光ったらしい。後1時間遅かったら電車の中だったからどんな事態になっていたかもっと被害がでて自分もどうなったかわからなかったと言っていた。
それからは水道ガスも出ないので大阪の建築現場から帰りに大阪市内でお風呂に入り、外食して、洗濯物は我が家に送ってきた。 それを私は洗濯をして大阪の現場に送り返すという日々が続いた。
独身寮も二人で一部屋を使うことにして復興の作業員の方に提供して日曜日にはボランティアで働いていた。
もう20年経ち復興も目覚しくても心の傷なんて癒えてなんていない。多額のローンを抱えたまま歳をとって行きこれからどのように生きていけばとおっしゃっている人も居る。
そんな中で皆頑張って生きて来た事に私たちは忘れてはいけないと思う一日。
私も、もし長男がどうかなっていたら今の幸せも無かったし可愛い絵里子にもめぐり合っていなかったわけだから感謝しなければいけない 。
長い長い一日だった。
やっぱりこのことも身代わり不動尊に守っていただいたと思っています。