終戦記念日になるといつも母が教えてくれたことを思いだします。
父と母は工場が多い蒲田近いところに住んでいました。
いよいよ危ないということで祖父母が住んでいる山の手に住み替え
て一緒に暮らしました。
父は国の無線の仕事で徴兵は免除でした。
それはずるいということで回覧板もわざと回さなかったり配給も教
えてくれなかったそうです。
所謂いじめです。
昭和20年の5月の大空襲の時
どんどん家屋が焼かれる中、風向きが一瞬変わり我が家を含めて
四件だけ焼け残りました。
その時に住民の方に井戸を開放しました。
急に住民の態度が変わりペコペコしだしたそうです。
そしてあの玉音放送、
母は悔しいという感情はなく今日からぐっすり眠れることが嬉し
かったそうです。
その後バラック小屋が立ち並び祖父は国立横浜病院の病院長をして
いたので帰ると無料往診をしていました。
食糧難の時代は千葉の農家に着物を持って頭を下げて食料に替え
てもらう時もかなり高飛車な態度で何度も涙を流したそうです。
だから私たち三姉妹には「どんな時も上から目線で人を見るな、差
別は絶対にするな」と言われました。
その母も終戦後学校の復旧のために学校の庭で行う映画開催のため
に奔走しました。
校舎立替のためです。
今のコロナ禍でも感染者たちはかなり差別を受けているそうです。
どんな理由があっても感染者が当然罹っても仕方ない状況でもさぞ
つらいだろうと思います。
もう母が亡くなって20数年になります。
写真は公園のミソハギです。