目白の田中邸には,総理辞職後,ロッキード事件で逮捕後も,さらには一審の有罪判決が出た後ですら,海外の要人が田中を表敬訪問しています。なぜ,でありましょうか。
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┗■ 中国要人の田中氏表敬訪問
中国の鄭小平副首相(当時)は,逮捕の二年後の1978(昭和五十三)年10月24日,田中邸を訪れました。この時,訪問の理由を総理時代の業績である〝日中国交回復〟を評価し,中国の諺にある「水を飲むとき井戸を掘った人の苦労を忘れない」とのたとえを示し,中国は日中国交回復に尽力した田中の恩は忘れていない,と語っています。
その翌年には周恩来首相夫人が,さらにその三年後の1982年には超紫陽首相も田中邸を訪問しています。
また,田中も亡くなる前年の1992(平成四)年8月,目白へ見舞いに訪れた当時の江沢民(こう たくみん)国家中央軍事委員会主席の招きで病の体をおして二十年ぶりに中国を訪れています。こうした事実からして中国の義理堅さ,そして田中と中国との太い絆がうかがわれます。
鄧小平 中国副首相 1978.10.25
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┗■ 三度も目白を訪ねたキッシンジャー
1982(昭和五十七)年9月6日にニクソンが目自邸に来訪しています。注目されるのは,キッシンジャー元アメリカ合衆国国務長官が,一度目は1978年7月,二度目がその三年後の1981年7月,三度目は脳梗塞を発症する直前の1985年1月と,実に三度にわたり目白の田中邸を訪れていることです。
田中を日本の政治からほおむったキッシンジャーの良心の呵責が三度の目白詣でさせたのだ,とするのはうがった見方でありましょうか。
◆「こんな時代に田中角栄がいてくれたら」
いまだアメリカ追従の域を出ない日本外交です。田中氏が長く首相の座にあって,アメリカをあわてさせた日中国交回復に見られるアメリカ頭越し外交を貫いていたなら,国際社会における日本の位置付けは高まっていたのではあるまいか。さらにはアメリカに尾を振る従属関係から脱し,親密なパートナーナシップを築いていたのでは,とも・・・・・・。
また,日中関係悪化の現状にあって,もし田中氏が存命で政治的に健在であったなら,いまの日中関係はどのようになっていたであろうかと,思い巡らすこの頃であります。