天才 田中角栄を見つめ直す ⑪ 「その人間像 虚業家田中角栄」
死後30年以上も経ったというのに角栄人気は根強いものがあります。批判も多いが高く評価する声も少なくはありません。「もし、いま角栄がいたら」といった議論も出ています。
田中政権崩壊のきっかけとなった、1974年10月10日発売の『文藝春秋』11月号に田中特集として掲載の、立花隆「田中角栄研究-その金脈と人脈-」で、立花隆氏は、綿密な事実の裏付けのもとに角栄氏の人物像を分析しています。角栄氏の人物像を知る上で、いまも色あせない貴重なリポートでもあります。その原文を抜き書きします。
出典:『「知の巨人」 立花隆のすべて』(文春ムック)
大株主で高額所得者 (p29)
まず、田中角栄氏と金の関係の大づかみな全体像を述べておこう。
私たちの調査結果から、田中角栄氏には四つの側面があることがうかびあがってきた。
政治家田中角栄
実業家田中角栄
資産家田中角栄
虚業家田中角栄
の四つである。このうち、虚業家という熟さないことばを用いたのは、関係会社の中にユウレイ会社としか表現しょうのない会社があるからである。
いかにして金をためたか p40
政治家田中角栄氏を離れて、氏の実業家、虚業家としての側面を見ていこう。ひとの金を集める才覚の話ではなく、自分の金を作る才覚の話である。
総裁になった直後に作られた田中ブームの中でのイメージでは、氏はまるで事業の天才だったかのようである。十九歳で独立して設計事務所を作り、二十五歳で土建会社をおこして社長におさまり、あっという間に大手にのし上がる。終戦前、すでに大金持で、代議士になってから、長岡鉄道の社長におさまるや、たちまち赤字会社を立て直し、今日の越後交通の基礎を築く。理研系の会社の社長を歴任、日本電建社長、新潟交通会長などもつとめ、実業家としても、すぐれた手腕を持っている。
一口に述べれば、こんな感じだろう。しかし、ほんとうにそうだったのだろうか。私たちの調査は、田中氏の過去にも向けられた。そして私たちの前に浮びあがった事業家田中氏の像は、表現すべきことばをさがすとしたら、敏腕でも辣腕でもなく、怪腕ということばがふさわしいそれだ。
・第一のスプリング・ボードは、十七年に坂本はなさんをめとったことだ
・第二のスプリング・ボードは、いうまでもなく二十二年に国会議員になったことである。
・三十六年、田中氏は決定的なスプリング・ボードを踏む。日本電建を入手するのである。これによって、田中氏は虚業家へ飛躍する。
(この項、続く))