しろくまのいえ

しろくまのいえのまわりでおこるさまざまな出来事をつづってゆきます。

米本城跡を散策

2018-11-07 21:01:18 | おでかけ
2週連続シリーズで住んでいる地域の歴史を勉強をしました。
先週は講義を、今週は歴史散策でした。
今日の講師は、県立高校の教員でもあった方でした。

歴史は、昔の事実は変わらないけれど、場所の様子は日々変化してゆくものなので、
今の状態をみておくこともとても大切なのだそうです。
約2時間ほどの散策でしたが、あっという間でした。
こういうの小学校とか中学校とかで勉強した方がいいですよね。
とても勉強になり、楽しい時間を過ごしました。

ざっくりですが、散策の様子をまとめてみました 

まずは、米本神社の鳥居の前にある「米本の絵図」の説明
本物は、カラーなのだそうです。
模様みたいに白くなっているのは虫食いなのだそうです。
本物は郷土資料館にあるそうです。

日本の神社のほとんどは、明治政府の政策で寺が神社になったりしたそうです。
米本村は大きな村で、5つの寺があったそうです。
そのなかのひとつが米本神社になったそうです。
下宿、上宿という地名があるのは、この場所が荷物のつぎをやっていた痕跡だそうです。
日立上総街道だったそうです。
広い敷地を持っていた神社が国道ができたことで狭くなりました。
近くに団地ができたことで、正月よりも七五三のお参りでお金が入るそうです。
神社の敷地内にある白旗神社には、あめのしなのかみなむことという日本という国作った神様がまつられていました

つぎに、神社から徒歩2分ほどの「林照院」という寺に移動

普通の民家のようなとても質素な寺です。
八千代には真言宗の寺が多いそうです。
米本神社の敷地が縮小されたときに、石塔などがこちらに集められ並んでいました。
千葉寺をはじめして50、51番目の札所になっている。
寺の横から竹やぶに入ってゆく細い道があり、これが戦国時代にも使われていた道だそうです。

今は、竹やぶの先でアパートを作るための麹をしているためここから城跡にはいけなくなってしまいました。
アパートを建てるために土を掘り返しているところの地層は、2500万年前のアイラという時代に鹿児島の火山灰の層がみられました。
その後、富士山や浅間山の火山灰が積もった形跡もみられました。
16号に抜ける道は、江戸時代からあったそうです。

アパートを作っているすぐわきに古文書などが発見された一族が今も住んでおられます。
この辺りは、一般の庶民が住む場所ではなかったので、家臣として仕えていた位の高い人たちだったそうです。
この家の裏手には、土の壁の痕跡がありました。
今は風化したり、畑を作るために壁らしきものはほんの一部しかありませんでした。
裏手の竹藪を歩いていくと1400年代につくられた米本所跡の案内がありました。

千葉は、舌状台地がおおく、この地形を生かして城を作るケースが多くみられるそうです。
米本城のほかに白井城、吉橋城などがあったそうです。
白井城を守るために米本城は作られたと考えられ守りの城だったそうです。

城の中心だったところに咳の神様がまつられていました。

ここに石の板碑があり、石は埼玉県の飯能でとれるもので文字や絵が刻まれていました。
城の中心から先は、昭和42年ころから削られてなくなってしまっていました。

風化して痕跡はわかりにくいが土の壁がV字型に深く掘られている痕跡がありました。
今もけっこうな高さがあり、この先に行くのは危険です。

城の中心から新川側に竹藪を抜け坂道を下ると「長福寺」があります。

この寺は、米本城ができてからできたそうどうしゅの寺です。
一般の人が参ることのない寺だったそうで、最後の城主だった方のお墓があります。
入り口の両側に2本の石塔がたっていてこの先が聖地とされていたそうです。
石塔には、芸事をするもの、酒をのんでいるものはは入ることを禁ずると刻まれていました。
昔、新川はかなり蛇行していて、寺のすぐそばまで川で、荷物の運搬などもしていたようです。