
三浦綾子さんの本のタイトルは、ストレートな感じです。
内容ももちろん やんわりとストレートです。
以下、本文より気になったところです。
*老人度を測る目安は「くれない指数」
「今度行くときは、私も連れて行ってくれない?」
「○○さんに、伝えておいてくれない?」
「ついでに、買ってきてくれない?」
と、たえず他人をあてにしている人もいます。
私は密かに「くれない族」とよんでいるのですが、どんなに若い人でも
「くれない」と言い出したときがその人の老化の始まりです。
サービスだからそのまま受け入れるのではなく 周りの状況を見て
自分はどうすべきかを判断する気力と「才覚」がなくなった。
では、どうして才覚のない老人が増えたのか。
原因のひとつは、基本的な苦悩がなくなったからだと思います。
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よく「日本は経済大国なのにどうして豊かさを感じられないのだろうか」
といわれますが、答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさが分からないのです。
今日も明日も食べるものがあって当然。水道の栓をひねれば水が飲める。飲める水を
使ってお風呂に入り、トイレを流している・・・
教育の問題も大きい。戦後、日教組が何かにつけて「人権」「権利」「平等」を
主張するようになりました。
「損をすることには黙っていない」というのも日教組的教育の欠陥です。
かつては、損のできる人間に育てるのが、教育のひとつの目標でした。
なんでもかんじもけんりだとか平等だとか極端な考え方がまかり通る世の中に
なってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせいもあると私は思います。
原因のひとつは、読書をしなくなったからです。
私たちは、生活の真っ只中で苦労して生きることによってさまざまなことを学びます。
読書をすれば、それをさらに広く自分が経験できないことを学ぶわけです。
私は自分の財産というのは、深くかかわった経験の量だと思っています。
若いときから困難にぶつかっても逃げ出したりせず、真当に苦しんだり、泣いたり
悲しんだりした人は、いい年寄りになっているんです。
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日本では万が一 生活が保てなくなれば生活保護を受けられます。しかし、国家に頼って
人の税金で食べようという姿勢はあまり感じがよくないですね。他人のお金をあてに
しなければ自分の生活が成り立たないというのは、どこかおかしいと思います。
人はいきなり老年になるわけではありません。長い年月の末に到達するのですから、
老後の暮らしに備えて貯蓄はしておくべきでしょう。
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*備えあっても憂いあり 一文無しになったら野垂れ死にを覚悟する
もし私が長生きしすぎて一文無しになったら、あらゆる知人や周囲の人にたかります。
そして、冷たくあしらわれてどうにもならなかったら、その時は野垂れ死に覚悟する
しかない。 家にでも、病院に入っても、絶対に死ねるという保証はありません。
死ぬときは皆 野垂れ死に近いと私は思いますが、野垂れ死にも決意しさえすれば、
怖いものはなくなるはずです。
話がちょっと脇道にそれますが、アフリカの多くの土地では、人が死ぬと寿命や
病気の結果だと考えません。それは誰かの呪いによるものだと解釈されて
村の呪術師に「犯人」を占ってもらうのです。名指しにされた人は村から追い出されます。
90%以上が老女なのは、たぶんそのような理由づけをすることで 働くこともできずに
ただ食べているだけの老年を排除しようという社会的意図があるのだと思います。
村社会から追放された老女はさまよい 道端で死ぬ人も多いそうです。