さようなら柏崎刈羽原発プロジェクト

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手記(菅野さん) 南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会

2012年07月08日 | お知らせ
2012年6月30日
南相馬市や郡山市から新潟に避難されている方々との交流会
小千谷市極楽寺にて
手記 菅野さん 

小千谷市 極楽寺 2012年6月30日(土) 14時~

お礼
まず始めに新潟の皆さんにお伝えしたいのは、「感謝」の気持ちです。温かく迎えてもらっています。色々な不安な中、皆さんからの支えがどんなに心強いか分かりません。ありがとうございます。

始めに
先日、クレヨンハウスの落合恵子さんの講演会が新潟市でありました。次のような事を言っていました。「休日のこのような集まりに参加されるような人達には、話をしなくても大丈夫」と。私も同じ考えです。このような集まりに参加されない人達に、どれだけ知ってもらうかが難しいと考えています。

一番伝えたい事
新潟県は福島県と似ているところがあると思います。大きくふたつ。ひとつ目は、巨大地震を体験した事。ふたつ目は、運転能力がない東京電力の原発がある事。一歩間違えば、新潟県も福島県の二の舞になると言う事です。原発や放射能に対して、頭の中に入れておかなければならないと思います。

家族構成
震災前は、私の父・母・姉・私・妻・二人の娘の7人家族でした。そんな大家族から、今は一転して、新潟で妻子のみの三人で暮らしています。

震災当日
中越地震・中越沖地震を体験した新潟の方々には、地震の恐怖を言うまでもないでしょう。私も凄い恐怖を感じました。しかし、地震は自然災害ですし、なすすべはありません。道路は波をうち、瓦は落ち、家は潰れ、ビルは傾き、ガラスが割れている車とも多数すれ違いました。部屋はグチャグチャでしたが幸い自宅は無事でした。当日は津波の映像ばかりで、原発の電源が失われたと聞いても、こんな重大な事故につながるとは思ってもみませんでした。しかし、震災当日から避難をしていた人達を後で知りました。それも大勢。その人達は初期の大量被曝を避けられました。私の判断ミスにより、妻子を避難させることが出来ず、被曝をさせてしまいました。悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。日頃からの危機管理能力の差だと思います。情報収集の差だと思います。

長岡一時避難
震災から約一週間後に長岡へ避難を決断しました。当時、テレビでやっていた避難所は、一日の食料がおにぎりひとつと、飴玉ひとつでした。そのような避難所で当時1歳だった次女が耐えられるのか、凄く凄く不安でした。私が弱音を吐いたら、妻子はもっと、もっと不安になるだろうと、強がってはみたものの、とても不安でした。阿賀の避難相談所で保養施設を紹介してもらい、ホッとして涙が出そうになりました。そこでは、おにぎり・お茶・子供のお菓子・オムツなどを頂き、感謝の気持ちでいっぱいでした。阿賀までの道のりとは打って変わって、阿賀から長岡までの道のりは、軽やかになりました。私は仕事があるので、郡山へ帰ったものの、娘達は友達が出来、楽しく過ごしていると言う事で安心しました。

一学期
一学期が始まるので、郡山へ帰ってきました。その頃になると、郡山も放射能汚染されている事が分かってきていて、登校はマスク・帽子着用、長袖でした。外出も一切させませんでした。外で遊びたい年頃なのに可哀想で、休日は会津・山形・新潟・那須へ出掛けました。そんな中、調べれば調べる程、放射能は危険で郡山も汚染されていると知り、毎晩のように妻と相談しました。

新潟市避難
色々と検討した結果、新潟市に決めました。綺麗な空気を吸いながら、下見に来てリフレッシュをしていきました。夏休みに引越を完了させ、二学期からは新潟市と郡山市の二重生活が始まりました。

二重生活
育ち盛りの娘達との離れた生活など考えてもみませんでした。次女は二歳。毎週新しい言葉を覚えています。長女も日に日に大きくなり、身長も靴も妻を追い越そうとしています。そんな娘達と一緒に暮らす事ができません。
新潟に引越をしたのは、お盆休み前でした。一週間新潟で家族と過ごしました。連休が終わり、私が帰る時には長女は大泣きでした。部屋で泣かれ、玄関で泣かれ、駐車場で泣かれ、車で泣かれ、一時間以上が過ぎました。娘が悪い訳ではないので、無理に帰る事はできませんでした。この頃、次女は離れた生活を理解していなく、泣く事はありませんでしたが、最近になって、泣くようになりました。せっかく長女が生活に慣れてきて泣かなくなったのに、次女が泣くようになり、もらい泣きをするようになってしまいました。その様子をみて、妻も悲しくなり涙を流すそうです。この怒りを誰にぶつければいいのでしょうか。そんな企業が、値上げをし、天下りをし、ボーナスを貰い、大企業並の給料を貰い、レジャー費用まで計上しています。

避難費用
引越費用や初期の準備費用などは、大きな金額ですが、一度で済みます。しかし、光熱費や食費などは毎月重くのしかかってきます。大家族がふたつに別れて暮らす事は、予想以上の出費になります。震災前は、妻の実家から米を始め、様々な野菜(きゅうり・トマト・ナス・トウモロコシ・枝豆・ほうれん草)を貰っていました。それも放射能の影響で貰わなくなり、出費に響きます。私は金曜日の仕事終了後に新潟に来て、日曜日の夕食を食べてから、郡山へ帰ります。毎週のガソリン代・高速代・片道二時間の無駄な時間・事故のリスクなど、通常の生活では考えられない事の連続です。しかし、今でも東京電力からは一円たりとも補償をしてもらっていません。

様々な避難者
避難者といっても様々なパターンがあり、一口で避難者をまとめる事は出来ません。私のように妻子を避難させ、自分は地元に留まり仕事をしている二重生活の方。家族で避難をした方。自主避難の方・警戒区域の方・補償から外された白河など県南地域から避難の方。避難生活から福島へ戻った人、永住を考えている人、数年を目処に帰宅予定の人。この様々な避難者がいる為に、色々な壁ができてしまっています。同じ避難者なのに、なぜ壁ができてしまうのか。分かりません。正直、私もいまだに理解できていません。現に、家族で避難している高島さん、警戒区域から避難の後藤さんと壁を感じていません。週末しか居ないので分からないのかもしれません。鈍感だからかもしれません。しかし、避難者の壁はお母さん方からよく聞く話です。本音で話ができない、辛いと思います。

子供の健康
震災2日後から3日連続で長女が鼻血を出しました。その頃は放射能の知識はなく、地震によるストレスかと思っていました。しかし、通常の鼻血とは量が違いました。バスタオルが真っ赤に染まるくらいの量でした。もちろん放射能との因果関係は分かりません。ただ、今までに鼻血を出した事がなく、ティッシュ1枚2枚の量ではありません。しかも、地震が頻発した当日・翌日ではありません。原発が爆発した日です。何を疑うでしょう。

検査体制
新潟でもやっと5月より一般の人達がWBC(ホールボディーカウンター)が受けられるようになりました。早速申し込みをして検査をしてきました。ところが、検出限界を聞いてビックリです。なんと500Bq/bodyだったのです。福島県のWBCは250Bq/bodyです。長女は約20kg。20Bq/kg以上にならないと検出できません。こんな数値は原発作業員でも出ないでしょう。そんな検査をする意味がわかりません。避難者の多くは子供達を放射能から守る為に来ています。子供を守りたい一心で困難に立ち向かっています。それなのに、国は全く助けようとしてくれません。
放射能の恐怖
少しでも体調が悪いと、悪い方・悪い方に考えてしまいます。普通の風邪でも「放射能の影響なのか」。ダルイと「放射能の影響なのか」。放射能とは全く関係ないかもしれません。しかし、「もしも」を考えなければならないストレス。必要のないストレス。明日の朝は生きて起きられるのか。放射能の地域で過ごしている人にしか分からない恐怖。健康だった人が朝、冷たくなっていた。福島だけではなく、関東圏でもでています。明日は我が身なのか。

マスコミの現実
放射能・原発に関する情報は、ほとんどのメディアは報道しませんでした。マスコミを信用し動いていたのでは、死んでしまいます。自分達が思っている以上に日本は情報統制されています。受け身では子供を守れません。自分で情報収集しないと本当の事は分かりません。イザって時に急に情報収集はできません。常日頃から、どれだけアンテナを張っているか。

今後
子供を守る為になにをすればいいのか。人それぞれだと思います。新潟のお母さん方は色々と動いてくれています。ありがたいです。食品汚染・瓦礫問題・原発問題、本当に勉強をしています。詳しいです。避難者は動きたくても生活に精一杯です。それでも、少しずつでも動く人がでてきています。何もやらなくては変わらない。諦めちゃ駄目。こんな想いを誰もしちゃいけない。現状を訴え自分の事として受け止めてもらい、真剣に考えてもらえたら嬉しいです。

郡山市 菅野


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