大学病院へ行きました。
用が終わり帰りのバスの時間を見ると随分待たなければなりません。
陽気とこちらの並木道にひかれてお散歩することにしました。
この場所は、長崎原爆の爆心地から700メートルと近く、ほとんどの人が全滅してしまった場所です。
被爆遺構が残り案内板もあります。
原爆の犠牲者に思いを寄せながら歩きます。
少し黄色くなっています。
綺麗です。
片足鳥居は、こちらと表示がありました。
階段を登りました。
間近で見るのは初めてです。
いつもバス通りからチラッと見るだけでした。
鳥居の半分は、横たわっていました。
石畳みに、石の手すり、無くなりつつある、長崎の古き良き風景です。
先程登ってきた階段は、浦上街道というのだそう。
たしかに、長崎の人道にしては、広々しています。
案内板を読んで、ビックリ。
先日記事にアップした、東彼杵の港から乗船した宣教師達が、歩いた道だったからです。
時津町の港に上陸し、西坂の処刑場までを歩いたそうです。
その当時、カトリックの総本山ローマ法皇が、スペインとポルトガルの二国に、世界制覇の許諾を与えて、行く先々で、貿易がもたらす巨額の富と引き換えに、権力者から布教の許しを得て、植民地化して行ったそうです。
その当時、カトリックの総本山ローマ法皇が、スペインとポルトガルの二国に、世界制覇の許諾を与えて、行く先々で、貿易がもたらす巨額の富と引き換えに、権力者から布教の許しを得て、植民地化して行ったそうです。
いまだに、日本のキリシタン弾圧を宗教の自由が奪われたとなっている表現もありますが、正しくは、カトリック教会の野望がバレて豊臣秀吉が激怒したのが真相みたいです。
今で言うと、国に何の相談も無く、長崎の地を外国に寄進してしまったと言う感じです。
大村藩主が原因です。
戦に使用する武器を調達してもらう代わりに布教を許し尚且つ神社仏閣を破壊して、キリシタンに改宗しない領民は奴隷として海外へ売り飛ばし富を得る。
最悪な為政者です。
日本は、その当時は戦国時代、スペインの宣教師は、日本の武士の強さを知り戦うのをやめていたそう。
戦国武将達に感謝です。
ついつい、キリシタンの悪行を知ってからは、熱く語ってしまいます。
失礼しました。
山王神社にたどり着きました。
原爆犠牲者の慰霊碑がありました。
読みます。
しばらく、ここから動けなくなりました。
長崎原爆での死者負傷者合わせて15万人。
(当時の人口24万人)
という大きな犠牲者が出た事は知っていました。
しかし、この町、爆心地から500メートルの町の住民が、780人ほどの内、生き残ったのが、20人ほどという事実に衝撃をうけました。
原爆直後は、まだ元気にしていた人も、10日後にはバタバタなくなってしまっていたという事実。
放射線被爆の怖さを物語っています。
町が壊滅状態。
とても恐ろしかったです。
(もし、核兵器が使用される事があったら、地下やトンネル奥深くに逃げて下さい。
家にいる場合は、カーテンを締め切り3日は、外に出ないこと。
あとは、味噌や海塩を摂取すること。
発酵食品を取ってください。
ヨード液でウガイして、甲状腺を守って下さい。)
よろしければ、頭の隅っこに入れてて下さいね。
神社に入ります。
楠木さんが、元気にお迎えして下さいました。
足元に石、何故?でしょう。
爆風で、石や金属片が楠木に突き刺さっていたそうです。
考えるだけでも、身体が痛くなります。
よく、よみがえって下さいました。
神社さんに、感謝のお参りをします。
この、平和な時間が続きますように。
この後もちょっとだけ散歩が続きます。
長すぎですので、次回にします。
長文に付き合って下さりありがとうございました。
つい最近まで、殉教者はかわいそうと信じていました。
長崎では、弾圧にも負けずに信教を貫き通した尊い人々という風説が一般的で、、、
今も、地元テレビでは、牧師様が出てきて長崎は宣教師により街がひらかれましたとか放送されてます。
牧師の名前は、半島系。
長崎の教会関係者には、こういう人が多いみたいです。
大村市を訪れる度に少しずつ真実は違うことに気づかされていきました。
長崎にあるイエズス会に寄進されて建造された教会跡地から、謎の地下室が最近発見されました。
対面しましたが、気持ち悪い雰囲気でした。
私の妄想ですが、たくさんの方々が血を流したようなおどろおどろしい地下室でした。🥶